根津美術館 2016-08-04
*應永35/正長元(1428)年
この年
・1428年迄に、イングランドの支配は仏ロアール川以北に確立。
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・ヴェネツィア、ペストにより2万人死亡
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・フィレンツェの画家マサッチオ(マザッチョ、マサッチョ、27)、ローマで没。アルベルティが「遠近法」理論を発表する前に、その科学の数学的法則を会得。
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・枢密院、王母キャサリン(カトリーヌ)の「再婚には、枢密院の同意が必要」と議決。キャサリン(27)、 ヘンリ5世未亡人、仏シャルル5世娘。
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1月7日
・4代将軍義持(43)、風呂での怪我で腫物が化膿。
17日、容態悪化、なすすべない(「御たのみ無し」)状態。
後継者擁立を急ぐべき事態だが、義持は子の義量に先立たれ、その後は後継とすべき子に恵まれず、この時まで後継者指名せず。
このままでは、没後の後継を巡る争乱に発展する危険もあり、重臣達は緊急協議。
纏め役は醍醐寺座主三宝院住持満済、管領畠山満家・武衛斯波義淳・細川持元・山名時煕・畠山満則。義持は自分が後継指名する意思はなく、管領以下が協議して決めるようにいう。
結果、満済の提案で義持の兄弟4人(義満の子)から石清水八幡宮の神前で籤引することに決まる。
候補は、青蓮院義円(ぎえん)・大覚寺義昭(ぎしょう)・相国寺永隆(えいりゅう)・梶井義承(ぎじょう)。満済が籤に名前を書き、管領畠山満家が籤を引き、義持没後に開封する段取り。
義持は、応永元年(1394)に父義満から将軍職を譲られた。
その間応永30年(1423)には嫡子義量に将軍職を譲ったが、その義量が応永32年天折したため将軍職は空位であったが、義持が依然として室町殿(足利氏家督)として君臨していた。
■護持僧満済の日記
「室町殿、御座下御雑熱出来(いできた)すと云々。今日御風炉においてかきやぶうらるる間、御傷これ在ると云々。ただし殊(こと)なる事(こと)にあらずと云々。畠山修理大夫入道来る。白太刀一振を献じおわんぬ。」(「満済准后日記」7日条)。
「医師三位方より申す。夜前より御所様いささか御風気たりて、または御雑熱も、または御傷興隆すと云々。ただし両条、更に苦無く、安平を見ゆる事どもなりと云々。珍重珍重。」(同9日条)。
(義持は入浴中に尻の傷をかきむしったことから化膿に至ったもので、10日頃までは大事に至らずと典医、護持僧以下楽観していた。
8日、義持は佳例に任せ三条の等持寺に参詣し、幕府に帰還後、護持僧6人の参賀を受け、彼等による「加持」を受けている。しかしこの等持寺御成(おんなり)が義持最後の出行となった。
9日以後は、義持は外出することが不可能となった。)
10日、恒例により僧侶が幕府へ参賀する日であったが、
爾(しか)りと雖も御雑熱によって、御安座叶ひ難きの問、延引せられ了んぬ。
(満足に座ることもできず、諸人の参賀はとり止めとなった)
また、翌11日は、満済の里坊(さとぼう)法身院(本坊は醍醐三宝院、朝廷幕府へ出仕の便のため、京都市中に里坊があった)に義持が「渡御」(御成)することが佳例となっていたので、満済は、10日の早い段階で、
明日渡御の事、此の如く御座の間、如何あるべく候歟(か)。
と、典医三位房允能を通じて義持に法身院御成の可否について問い合せていた。義持は、「明日の御成は佳例でもあり、なんとか今日は大事に養生して、明日は必ず渡御致したい」と満済に伝えさせた。満済は安堵して「それはなにより結構なことでございます」と返答して退出した。
しかし11日、允能から満済へ、
御風気御雑熱、猶以て不快に御座の間、今日其御門跡へ渡御の事、心元無く存じ申す。
(病状からして法身院御成はとうてい無理だから諦めてくれ)
と報じてきた。
昼下がりに、同朋衆賀阿弥が義持の使者として、次のように伝えてきた。
今日の法身院御成であるが、ずいぶん養性に努めたものの、輿に乗ることもできない。本日は幕府行事のうち最重要の「御評定始」があるが、それすら、病床から側近に手を引かれて出座するつもりだ。評定終了後、普通なら室町殿(義持)が退出し、その後管領以下の役人が退出する例である。しかし室町殿が先に退出すると、万一転倒でもした場合、もってのほか不吉である。そこで新儀(例のないこと)ではあるが、管領以下を先に退出させ、最後に室町殿が人に扶持されて退出する手はずをととのえているはどだ。したがって本日法身院へ御成のことは、やむを得ず延期とせざるをえない。(『満済准后日記』)
実際に評定始に義持が臨席したのか否かは、満済や時房の日記はなにも伝えていないが、大外記中原師郷の日記は、
今日御評定始、室町殿片時御出座と云々。
と、ほんの一瞬だけ臨席したと報じている(『師郷記』)。
満済は、義持の病状を過小評価していたらしく、幕府御所の「御使(おつかい)の間」で賀阿弥と対面し、
何様の御躰(おんてい)と雖も、片時(ひんじ)入御(にゆうぎよ)、祝着(しゆうちやく)たるべき、
と、賀阿弥に申し入れた。ところが折返し義持から、
好(よ)きほどならば御佳例と申し、かくの如く申し入るゝの間、成さしめ給ふべしと雖も、御傷以ての外なり。これほどとは門跡にも存知あるべからず。
と、出行できない旨を申し渡した。「此上は力なく罷(まか)り止(とど)め了(おわ)んぬ」と、さすがの満済も、事態の容易ならざるを覚り、御成は断念した。
12日の恒例の斯波亭への渡御も延引となった。
13日、満済は護持僧として三条坊門御所(幕府)に出仕した。満済は義満以来の護持僧の長老であるから、高僧中でも特別扱いである。義持の養生している寝所へ通り、親しく義持と対面した。
御平臥の御体なり。一昨日もこの御体の間、渡御なし。御安座さらに叶ひ難し。
このように、3日間、義持は座ることができず、病床に横臥していた。満済は義持に病悩平癒の祈祷を勧め、石清水八幡宮において祈祷を16日から始めることとし、大阿闇梨(法会の導師)は誰にするかとの義持の問いに、満済は定助(じようじよ)僧正がよろしからんと答え、併せて有力寺院の護持僧らに「各本坊」において祈藤に従事させる手はずも整えた。
義持は、もっとも信頼する満済自らの「御加持」を望んだ。折ふし満済ほ法具である金剛杵(こんごうしよ)を持ち合わせていなかったが、非常の際とて杵なしで加持を施し退出した。この後満済ほ洛東の三宝院の本坊に戻ったが、「室町殿平癒祈願」の祈祷依頼の御教書が、次の高僧、諸寺へ発せられた。
園城寺
聖護院准后
東寺
実相院僧正
浄土寺僧正
醍醐寺
地蔵院僧正
曼殊院僧正
東寺
醍醐寺
15日。義持の症状はいっこう回復せず、この日も大名が幕府へ料理を献上する「垸飯(おうばん)」の儀礼が、山名刑部少輔の奉仕で行なわれたが、義持は応対することができず、刑部を寝所へ招いて「御対面形の如し」(『満済准后日記』)と記録されている。中原師郷の日記では、
室町殿垸飯の事、御不例に依り御出座なし。その由を以て執行(しぎよう)せらると云々。言語道断、驚き存ずる者なり。(『師郷記〈』)
と、主人の出座なきを承知で強行したとある。
これによって、義持の重篤のことは諸大名以下に知れ渡り、万一に備えた危機管理(=後継問題)が議せられるようになった。
満済は15日まで醍醐寺にいたが、その晩おそく京都の里坊から教源(きようげん)法橋(ほつきよう)が急使として参入し、義持の命で明日より幕府壇所(幕府内で法事を行なう部屋)で小法(しようほう)一壇(平癒祈願)を勤修(ごんしゆ)するよう伝えた。俄(にわか)の事で法具等そろわぬ事を案じたが、事が事だけに否むわけにはいかず、「不動法」なる修法をやりましょうと幕府に伝えた。供料(祈祷料)は30貫文が幕府から支弁されるとのことであった。
満済はその夜ほとんど眠らず、翌16日早朝より本坊で不動護摩を修し、あとは定盛(じようせい)法印に続きを勤修するよう申し付け、斎(とき)を済ませただけであわただしく出京した。
満済が京都の里坊法身院に到着した頃は酉の初め(午後5時頃)になっていた。早速、幕府壇所の「木具以下道場構(どうじようかまえ)」のことを僧達に尋ねたところ、快弁・胤盛らの奔走により「大略周備」しているとあって胸をなで下ろしたが、なお淳基(じゆんき)法印を「壇行事」に任じて、幕府壇所へ先行させた。満済が壇所に赴いたのは、戊の初刻(午後7時半頃)になっていた。近習がやってきて、義持から、満済の到着を待ちわびていて、催促の使が数度に及んでいたという。とにかく早急に御前に参れとの厳命である。
満済は蒼皇として義持の寝所に参った。満済の見立ては、
以ての外御窮屈、頗る肝を消す計なり。
(義持のやつれように驚くばかり)
義持は満済の顔をみつめ、徐(おもむ)ろに口を開いた。
仰せて云く、大略思し食し定めらるゝなり。四十三にて御薨逝(ごこうせい)も不足なく思し食さるなり。さり乍らまた、御祷(おいのり)の事は閣難(さしおきがた)き事歟(か)。一向宜かるべき様にあひ計らひ、御祷方に於て申し付くべし。御所様は一向御工夫計にて御座あるべしと云々。(『満済准后日記』同日条)
(義持は、観念したような口ぶりだが、平癒祈願のことだけは万一を頼みとして続けて欲しいと望むだけで、あとは「御工夫」(禅宗用語で、座禅の瞑想、または来世のことを考える意)ばかり、すなわち往生の方法を考えているようだ)
これに対してどうしたかは何も記されず、
その後加持を申し、退出し了んぬ。
(加持を修めて御前から退下した)
と記すだけ。
満済は壇所に参籠して、予定の祈祷修法(不動法)を開白(かいびやく、法会を始める)した。時刻は亥の初め(午後10時近く)になっていた。修法の小憩を機に、満済は教源を使として、管領畠山満家の許へ次の伝言を出した。
此御体ならびに御祷の事、かくの如く仰せ出さるゝなり。定めてその様へも申し談ずべき由御意歟と推量申し入るゝなり。片時早速に計らひ申さるべき条、宜かるべし。
折返し管領の許から、家老(河内守護代)遊佐河内守長盛が使者として壇所にやってきて、
誠にこの御様、ただ驚き入るばかり。御祷の事、用脚に於ては諸大名先度(せんだつて)の如く沙汰し進(まいら)すべく候。御祷の条目ならびに阿閣梨等の事に於ては、門跡として計らひ申すべし。
(祈祷の費用は諸大名が調達するので、祈祷の題目と導師のことは、満済殿に宜しくお願いする・・・)
と、満家の意向を伝えた。満済は「承知致しました。祈祷の手はずのことは、明朝報告申し上げましょう」と長盛に伝言。
長盛は、主人の畠山満家を補佐し、領国経営の要である河内守護代を務めてきた家中きっての切れ者で、この数ヶ月後に武家伝奏となった万里小路時房をして「ただ今遊佐も洪才の者にて」と舌を捲かせたほどの人物。
義持からも指示が来た。満済の伴僧のうちから交替で室町殿の加持を勤めるよという。満済は、伴僧を2人ずつのグループに分け、各一時(いつとき、2時間余)を受持たせて、尊勝陀羅尼経(そんしようだらに)を終夜誦経(ずきよう)させるととにした。この日は義持の病状があらたまり、本人も回復不能を覚ったという時期に当り、さらに管領以下の諸大名も、事態を深刻に受取って動き出した。石清水八幡宮では「室町殿御祷」のため、華頂僧正の定助が懇誠の祈藤をこらし始めていた。供料(布施)は30貫、これも満済の指示であった。満済は護持僧中の頂点にあって、室町殿平癒祈願の総指揮をとることになった。
満済はこのとき51歳、義満以来仕えてきた永い護持僧としての生涯のうちでも、もっとも緊迫した場面であった。不眠不休、文字通り必死、懸命の境地で、室町殿の病状回復へ向け、自らの宗教家としての資質を賭けることになった。
17日、寅の初め(午前4時頃)、満済は再び義持の病床に参勤して「御加持」を勤めた。その時義持は、「六大無碍(ろくだいむげ)」の事について満済に教えを乞うている。彼は禅宗はじめ各宗旨に通じており、自ら「菩薩戒弟子(ぼさつかいていし)」と名乗ったように、仏道に深い造詣をもっていた。
この日、次の人々が、満済の詰め切っている幕府壇所に集会した。
畠山満家(管領、河内・紀伊・越中守護)
斯波義淳(越前・尾張・遠江守護)
細川持元(摂津・丹波・讃岐・土佐守護)
山名時熙(但馬・備後・安芸守護)
畠山満則(近習、能登守護)
これらの人々は、”宿老”(幕閣の利れ者)と呼ばれ、このうち、管領畠山満家と山名時熙は、先々代義満以来足利家に仕えてきた元老であり、義持の信頼もっとも厚く、重んじられていた。
発病以来、最初の段階では三位房允能らの典医、ついで満済らの護持僧の出番であったが、いよいよ義持危篤となって、有力守護である宿老たちが乗り出してきた。
■宿老寄合
重臣たちは、壇所において会議(”宿老寄合”)を開いた。開催場所が壇所で、この会議は満済の立ち会いの下に行なわれた。満済はいわば寄合の座長格であった。
武家政治における僧侶の政治介入は、鎌倉幕府では例はなかったが、室町幕府では初代将軍尊氏以来、高僧が政治に一定程度関与する慣例があった。
観応の擾乱(1349~52)の初期段階、幕閣の有力大名らが尊氏派と弟の直義派に分れて争い、尊氏邸が大名軍に包囲されたとき、天竜寺長老の夢窓疎石が調停に乗り出したことがある。また醍醐寺三宝院の賢俊(けんしゆん)は尊氏の政治顧問であって、擾乱末期、北朝の皇族がすべて南軍に拉致されて、北朝(持明院統)再建が暗礁に乗り上げたとき、広義門院(後伏見后)のかつぎ出しでこれを切りぬけるとともに、男山の陣所から神器の容器(唐櫃=かんびつ)を接収してこれを後光厳天皇の践祚儀に用いる等の大活躍で”将軍門跡”と異名を奉られるほどであった。
2代将軍義詮の晩年期から3代義満の治世初期、三宝院門跡の光済が政治顧問格の役割を担った。とくに義満の幼少期の応安~永和(1370~78)、管領細川頼之が幼将軍の補佐の任であったものの、皇位継承問題など公武関係のデリケートな問題の処理は、さすがの頼之もよくなし得ず、後円融天皇の即位問題が紛議となったさいは、義詮嫡妻渋川氏と共に、光済が公武の間を周旋した(小川信氏『細川頼之』吉川弘文館人物叢書)。
しかし、康暦の政変(1379年)以降、成人に達した義満の親政が始まると、醍醐寺僧による政務干与は表面上みられなくなった。三宝院満済ほこの義満が晩年の頃に召し出した護持僧で(父は権大納言今小路師冬)、「天下の義者なり」(『看聞日記』永享7年6月13日条)とうたわれたその公正な人柄によりしだいに義持の信任を得、やがて宿老寄合の座長役を担うようになった。このように、満済の特殊な政治的地位は、満済個人の資質と義持の信任によるところ大であるが、永い目でみた場合、尊氏-賢俊、義詮・義満-光済の伝統を引きついでいることが知られる。
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