2020年12月9日水曜日

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ4)「子規のように、多才で戦略家で負けず嫌いの男が、死を前に愚直の境地に至ったことを確信した漱石は、俳友らしく余裕を持って笑うとともに、感服もした。.....子規の絵に萌した「拙」は、ひとり絵に留まらず、彼の文学・芸術に対する結論になっていった。」   

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ3)「こう確認してくれば、兆民の悟りなど、まだまだ甘い、この苦しみの中で、俺は楽しみも発見しているのだという子規一流の剛毅さが、兆民への批判を生んだことに思い至る。」

より続く

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ4)

4 絵の愉楽


漱石に絵を贈る

このような子規が最後に見つけた楽しみが、「絵」であった。子規が絵画の写生に学んで、絵を描き始めるのは、明治三十二年の秋、中村不折から水彩絵の具をもらって描いた秋海棠あたりからである(「画」『ホトトギス』明治三十三年三月号)。子規は、絵の素人である自分が、曲がりなりにも秋海棠と見えるものを描けたのは、写生のおかげであると語っている。この絵は不折や浅井忠のような絵描きにも好評であった(倉田萩郎追悼文『ホトトギス』子規追悼集、明治三十五年十二月号)。

子規の絵は決して上手くはない。漱石もそう評している。明治三十二年六月頃、東菊の絵を描いて寄こした。花瓶は叔父加藤拓川から贈られたもので、


フランスの一輪ざしや冬の薔薇


と明治三十年冬に詠んだ赤のガラス製のものであったか。子規はこれを宝としており、これに東菊を挿して描いたと思われる。

愚直な写生画

規の没後、「子規の画」(『ホトトギス』明治四十四年七月四日号)において漱石は、この絵について、使った色数が少なく、背景の白や表装の藍色もあわせ、寂しくて冷たい心持がするとまず評する。続けて、短歌や俳句は無造作に詠む子規が、おそらくは五、六時間もかけて、肱をついて絵を描いたことを想像して、不折の指示どおり、生真面目に描いた「拙」なる絵だと結論づける。俳句なら平気でやる省略をせず、糞真面目に写し、彩色をした、というのである。

ここで注釈を加えるなら、「拙」、すなわち愚直という言葉は、漱石にとって単純な批判の言葉ではない。むしろ、この愚直さをこそ愛したことは、第六章での虚子の評価のところでも触れた。子規没後、明治三十九年に書いた小説『草枕』には、こうある。


木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まつすぐ)かと云うと、決して真直でもない。只真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい薬さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変ると吃度(きつと)木瓜になる。余も木瓜になりたい。


主人公の画工に託してこうまで言い切っているのである。さて、子規の絵に戻れば、漱石は最後にこう評している。


子規は人間として、又文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年(えいねん)彼と交際をした何(ど)の月にも、何の日にも、余は未だ曾(かつ)て彼の拙を笑い得るの機会を捉(とら)へ得(え)た試(ためし)がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえ有(も)たなかつた。彼の没後殆(ほとん)ど十年にならうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中(うち)に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとつては多大の興味がある。ただ画が如何(いか)にも淋しい。出来得るならば、子規に此拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償(つぐない)としたかつた。


子規のように、多才で戦略家で負けず嫌いの男が、死を前に愚直の境地に至ったことを確信した漱石は、俳友らしく余裕を持って笑うとともに、感服もした。ただし、絵の淋しさは、心の淋しさを反映したものに違いなく、子規に余命があるなら、彼らしく「雄大」にさせてやりたかった、というのである。


子規の美術史観

子規の絵に萌した「拙」は、ひとり絵に留まらず、彼の文学・芸術に対する結論になっていった。まず、彼の美術史観から確認しよう。前章でも引いたが、『病牀六尺』(六月二十六日)にはこうある。


写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。これは早くより西洋では、用ひられて居つた手段であるが、併し昔の写生は不完全な写生であった為めに、此頃は更らに進歩して一層精密な手段を取るやうになつて居る。然るに日本では昔から写生といふ事を甚だおろそかに見て居つたために、画の発達を妨げ、又た文章も歌も総ての事が皆な進歩しなかつたのである。


子規は日本画について語っているのだが、これは「写生」という一点において俳句・短歌・写生文とパラレルの議論であった。ここで言う「写生」とは、既に述べて来たように、洋画を意識した概念である。

子規はまた、「写生」の対概念として、「理想」の語を批判の対象として槍玉に挙げていた。「理想」という言葉もまた、文学と絵画の双方において、明治二十年代後半から三十年代、問題となっていた言葉だった。「理想」は当初、没理想論争によって文学上の議論となった言葉だったが、美術界に飛び火し、「理想画」とは、眼前にあるものでなく、歴史・神話・寓意など想像上の主題を表出した絵画を指して言う言葉になっていた。子規はそうした行き方に反対たったのである。

近代日本画の成立と、学問としての日本美術史の成立に決定的な影響を与えたフェノロサは、特に日本画の「idea」=「妙想」は西欧に劣るものではないとしていた(『美術真説』)。これが絵画に「理想」の問題を持ち込む源流だったと言っていい。

これに対して子規は、「理想」を意図的に表出したものよりも、天然自然の「写生」の中ににじみ出る、平淡な表現の中の深い滋味に軍配を挙げていた。「写生」の対象が天然自然であることで、子規は叙事・叙情に加えて、「叙景」という分野に、日本の芸術の一大特徴を見ていた点が、その主張の特色であった (『病牀六尺』五月八日)。

子規は、西欧において風景への着目は、子規から二百年前のオランダに発するとし、日本においでも、山水への着目は南画の影響を受けた中世以来のことであり、風景画の歴史が比較的新しいのは洋の東西を問わないことから語り始める。山水画は大きな景を描き、洋画の風景画はそれにくらべて比較的小さな景を描くので細密な写生をしていたが、最近では省略を施した写生に変化していることを指摘して、「堅い趣味から柔い趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移って行くのは今日の世界の大勢であって、必ずしも画の上ばかりで無く、又必ずしも西洋ばかりに限つた事でも無い様である」と結論づけている。これは、フェノロサにも影響与えた、帝国海軍の御雇外国人で医者だった、ウィリアム・アンダーソンの日本美術史観の影響を受けたものだった。


つづく

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