より続く
井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ2)
2 病との闘い
大食による闘病
しかし、明治三十四年も後半には、病も勢いを増す。随筆『仰臥漫録』は、生前新聞『日本』には掲載されず、死後公開されたもので、『墨汁一滴』のような古文ではなく、口語体で直叙している。明治三十四年九月二日、糸瓜の絵を描き、俳句十九句を記した後。次のようにメモを残している。
(略)
これは明らかな過食で、この後、腹痛と下痢を繰り返している。こうして煎餅・菓子パンの暴食には懲りても、この旺盛な食欲は続く。九月十八日は晴れたが、寒かったらしく湯たんぽを使った。その日のメニューである。
(略)
こういった具合で、元々甘い物好きだった健啖化の子規は、凄まじい食欲によって、病と闘っていたのである。
自殺の誘惑
そして十月に入ると、痛みの激しさはいよいよ耐え難いものとなる。十三日は大雨の後、晴れたと記す。天気を書きつけるのは日記の習いであると同時に、天気が子規に襲い掛かる痛みを左右するからだろう。折からの大雨は最悪の状況を呼びこんだ。母に電報を依頼して一人になったのは、「自殺熱」がむしょうに頭をもたげたからだった。病床の脇の硯箱には、小刀と錐(きり)があった。しかし、これで自殺は難しい。隣の間には剃刀があるが、這って行くこともできない。
已むなくんば此小刀でものど笛を切断出来ぬことはあるまい。錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが、長く苦しんでは困るから、穴を三つか四つかあけたら、直に死ぬるであらうかと色々に考へて見るが、実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ。死は恐ろしくはないのであるが、苦が恐ろしいのだ。病苦でさへ堪へきれぬに、此上死にそこなふてはと思ふのが恐ろしい。そればかりでない。矢張刃物を見ると底の方から、恐ろしさが湧いて出るやうな心持もする。今日も此小刀を見たときに、むらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐると、ともかくも此小刀を手に持つて見ようと迄思ふた。よつぽと手で取らうとしたが、いやいや、ここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戦つて居る。考へて居る内にしやくりあげて泣き出した。其内母は帰つて来られた。大変早かつたのは車屋迄往かれたきりなのであらう。
子規は、この後、錐と小刀をスケッチし、六年前にピストル自殺した従兄弟で親友の藤野古白の名を挙げて、「古白曰来(こはくいわくきたれ)」と書きつけている。古白は、当初子規の俳句仲間であったが、やがて子規から離れ、坪内逍遥らの仲間となり、戯曲を普くも評価されず、前頭部と後頭部の双方をピストルで撃ちぬいた。が、すぐには死ねず、五日後に絶命した。子規が日清戦争従軍のため、広島を発った時であったが、のちに明治三十年、子規は『古白遺稿』を編集している。その中に「古白の墓に詣づ」という新体詩が収められている。
何故汝は世を捨てし
浮世は汝を捨てざるに
我等は汝を捨てざるに
汝は我を捨てにし
こうした冒頭の一連で始まる弔詩は、末尾で残された古白の母の悲しみを詠んで閉じているが、今は自分も病の苦しみに、危うく古白と同じ死の誘惑に駆られて、母を悲しませるところだった、と述懐しているのだった。
友への手紙
月が改まった十一月六日、子規はロンドン留学中の漱石に手紙を送っている。カタカナで記す相手は、同輩後輩でごく親しい人間に限られる。
僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌へモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。・・・・・
(以下略)
これは漱石への遺書でもある。片仮名書きになるのは仮名書きより筆がとりやすい面もあるのだろう。そこまで子規の体力の消耗は甚だしい。実際手紙を書く体力も気力ももはやそうはない。
他方、子規は何よりも、漱石の手紙を欲しがった。地獄のような闘病の中、子規の心の救いとなるのは、過去の記憶を呼び覚まし、子規の想像力を掻き立てる、友の「眼」を通した近況報告であった。しかし、こちらから手紙を書かねば、手紙は来ない。
後半に出てくる「古白曰来」の四文字を記した「日記」とは、他ならぬ『仰臥漫録』のことで、この公開されていない日記の重要な読者として、自分の死後に、自殺熱に侵された自分がどうであったかを伝えるその第一の読み手として、子規は漱石を選んだことになる。
手紙の末尾の「書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉へ」とは、続きは『仰臥漫録』を読んでくれという意味なのだろう。
つづく
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