《子規の晩年に関するメモ》
で、今回からは
ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(井上泰至著)
より子規の晩年に関する部分のメモを掲載する。
《目次》
はしがきー大仕事をなしえた秘密に迫る
第一章 松山や秋より高き天守閣-松山時代(一八六七~八三)
第二章 草茂みベースボールの道白し-学生時代(一)(一八八三~八八)
第三章 卯の花をめがけてきたかほととぎす-学生時代(二) (一八八九~九二)
第四章 芭蕉忌や我に派もなく伝もなしー俳人「子規」の誕生(一八九三~九五)
第五章 いくたびも雪の深さを尋ねけり-俳句の名声と病(一八九五~九六)
第六章 今年はと思ふことなきにしもあらず-雑誌の発刊と写生文(一八九六~九八)
第七章 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる-短歌の革新へ(一八九六~一九〇一)
第八章 糸瓜咲て痰のつまりし佛哉-最晩年、病床を描く(一九〇一~〇二)
1 書くことが生きること
晩年随筆の輝き 病床の「報道」 古典への意識 病の苦痛
記憶による慰撫 小さな恋の物語 オチの巧みさ
2 病との闘い
大食による闘病 自殺の誘惑 友への手紙
3 病を楽しむ
中江兆民への批判 肉体の災禍をも描き切る
4 絵の愉楽
漱石に絵を贈る 愚直な写生画 子規の美術史観
写生の古典性と先見性 晩年の絵と俳句
5 末期
娘同様に愛する絵 最後まで描く 絶筆二句の証言
愚なる糸瓜に託して 月明の臨終
終章 遺産が生む新たな遺産
秋山の告別 漱石の後悔 四年後の弔辞
爽やかな笑いが繋ぐ友情 俳句の近代性は錯誤か?
子規の俳句革新の「旧」 子規の達成-古典との「対話」
第八章 糸瓜咲て痰のつまりし佛哉-最晩年、病床を描く(一九〇一~〇二)
1 書くことが生きること
晩年随筆の輝き
子親の生涯は短く、最晩年と言っても、病が重くなった明治三十四年と、亡くなる翌三十五年に絞られる。ほぼ公開された病床日誌たる随筆と、この時期夢中になった絵とが、子規の至りついた世界を示す。
明治三十四年一月十六日、新聞『日本』に新連載の随筆『墨汁一滴』が掲載された。『病牀六尺』『仰臥漫録』と続く、子規一代の名随筆集の始発である。先取りして言ってしまえば、子規は俳句よりも短歌よりも、この随筆で最も多くの読者を得たし、今日もそうである。これら三大随筆は、文学者子規畢生の作品群なのである。
・・・・・大正十五年春、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が続いて自殺を考えていた芥川龍之介は、『子規全集』を読み返して、病中で大仕事を成した子規を絶賛している。・・・・・
(略)
病床の「報道」
(略;『墨汁一滴』1月24日の引用など)
重病の床にあっても、子規は野心的である。長く書けない体力を逆手に、短く思い浮かんだことを書こうという。それは勢い私的な内容となるので、誰のために書くわけでもなく、自分の文章が毎朝載っているのを楽しみにするのだ、という異例のお断りをしてみせている。
これは「毎日のベストセラー」と言われる、ニュー・メディアであった新聞を前提にした方法であった。ソーシャル・ネットワークが一般化した今日では、かえってよく理解できると思うが、子規はそれまで死後にしか伝えることのなかった死の床の身辺雑記を、毎日見知らぬ読者に発信するという、前代未聞の試みに挑戦したのである。
古典への意識
しかし、一方で子規の文体はどうであろうか。写生文などとは違って、格調の高い古文で書かれている。自分の文章を「わらべめきたるもの(幼稚で拙劣なもの)」とへりくだるのは、江戸以来の草紙・随筆の序文によくある常套句である。ここは、中世に書かれはしたものの、江戸時代に随筆の古典として読まれた『徒然草』を意識していよう。「病の床のつれづれ」という表現は、そのことを証して余りある。
(略)
子規は己れの最後の文業となることを覚悟した随筆を、新聞というニュー・メディアに載せつつ、新しい「古典」として残そうという野心を持ち続けていたと思われる。・・・・・
病の苦痛
ただし、『徒然草』と大いに異なるのは、子規の深刻な病の描写である。その生々しさは、実に迫力がある。まるで「戦場」の描写だ。
(略;『墨汁一滴』4月20日の例示など)
記憶による慰撫
病のつらさを癒すものに、過去の楽しい記憶があった。六月十五日の『墨汁一滴』では、最初の喀血やブッセの哲学の授業の試験の苦労を想起し、翌日の記事では、明治二十四年に学年試験を途中でやめ、大宮の料亭旅館「万松楼」で試験準備をするはずが、竹村黄塔や漱石を呼んで結局遊んでしまったことなどを、「試験だから俳句をやめて準備に取りかからうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山に出来るといふ事になった。これほど俳魔に魅入られたら最(も)う助かりやうは無い」といった調子で落第を繰り返したことなどを、ユーモアたっぷりに振り返っている。
こうした回想の中で特筆すべきは、芥川が何度読んでも飽きないと激賞した、「小提灯」の記事(『病牀六尺』五月二十五日)である。新聞『日本』の同僚、古島一雄の手紙が発端となった。日清戦争が起こる四ケ月前の、明治二十七年三月末の出来事の回想である。
小さな恋の物語
古島一雄に誘われて、大宮公園に出掛けたが、桜はまだ咲かず、引き返して目黒の牡丹亭という店で、筍飯を注文する。給仕をしてくれたのは、十七、八才の娘だった。
此女あふるるばかりの愛嬌のある顔に、而(しか)もおぼこな処があって、斯(かか)る料理屋などにすれからしたとも見えぬ程のおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍らして居つた。
子規には珍しい恋の記憶である。・・・・・
(略)
オチの巧みさ
(略)
つづく
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