〈100年前の世界020〉大正12(1923)年6月 中国各地の排日運動最高潮に達す 「六月四日。・・・。昨夜より今朝にかけ地震ふこと五六回なり。」(永井荷風『断腸亭日乗』) より続く
大正12(1923)年
6月1日
・長沙事件。日清汽船「武陵丸」が長沙に入港した際、長沙人民と衝突。日本軍艦「伏見」水兵上陸、3人殺害、負傷40余。排日運動激化。
6月4日
・議会進出派、近藤栄蔵・高津正道の提唱のもと、島中雄三宅に「政治問題研究会」の会合をもち、政党組織の具体案について話し合う。
出席者は北原竜雄・久保芳郎・松岡駒吉・中曾根源和・上田茂樹・渡辺満三・川合義虎・福田秀一ら。
6月4日
・日本銀行、ニューヨーク連邦準備銀行との相互預金取引を廃止し、新たにコレスポンデンス約定を締結。
6月5日
・第1次共産党検挙。「暁の手入れ」で堺利彦・山川均・徳田球一ら80余人が検挙。
佐野が元鉱夫渋谷某に機密文書を預けるが、警察が渋谷宅の米びつに隠した文書を押収。早大・佐野学研究室を捜査し党機密文書を押収。石神井会議議事録押収されるが、書記の高瀬清が「君主制廃止」に関する発言・討議を一切書かなかったため大事に至らず。
地方党員に危機を通知。京都の辻井民之助ら満州~チタに亡命。
①佐野の兄彪太(駿河台で病院経営)の妻は後藤新平で、その線から佐野はモスクワへ逃亡。②「私は小岩井さんのところで、「第一次共産党事件」関係の記録を当時読みましたが、堺利彦の調書をみると、みんなしゃべっているんです。「先生もぽつぽつお話なさったらどうでしょうかね」、なんていわれて、「じゃあ、ぽつぽつ言いましょぅかね」、なんて答えているんです。のんきなもんですよ。」。③「非常に偉いと思ったのは、近藤真柄さんです。証人に呼ばれたとき、「他人のめいわくになることは申し上げられません」ときっぱり言っていますね。・・・それから意外に思ったのは、高津正道です。私たちも高橋君にならって、「パカ津邪道」とパカにしていたのですが、「公判廷で申し上げます」と何もいっていない。人は外見だけで判断してはいけないと息いました。」。(山辺健太郎)
「ところが面白いことに、検挙の前々日すでにある筋から、それがわかったので、共産党は佐野学、高津正道、近藤栄蔵というような弱々しい指導者や、労働組合運動にぜひ必要な人物だった山本懸蔵や辻井民之助の諸氏をいそいで亡命させることにした。これらの人々は、はじめ中国へゆき、そののちソビエートへ亡命したのである」(徳田球一・志賀義雄「獄中十八年」)。
6月6日
・朝日新聞が東京・名古屋間と名古屋・大阪間に、毎日新聞が東京・大阪間にそれぞれ市外専用電話を設置。
6月9日
・有島武郎(46)、「婦人公論」記者の波多野秋子と軽井沢の有島の別荘で自殺。7月6日発見。9日告別式。
1日、唐沢秀子へ手紙。
3日、軽い地鳴、地震。
4日、入院中の足助素一(あしすけそいち)の縁談を纏めるために千葉に行き、話はうまくまとまり、その帰路、波多野秋子と船橋の海岸に近い宿に泊。
5日、秋子は宿から社へ直行。秋子は、懇意な石本恵吉男爵夫人の静枝とどこに泊まったかを打ち合わせていた。朝、春房は有島と秋子の行動を怪しみ、石本男爵の方に電話をして秋子の不在を確認し、更に有島家へも電話して二人が同時に外泊した事実を確認。
その後、春房は『婦人公論』編集部に連絡をして、「秋子は有島氏と昨日成田に行ったそうだが、出社しているか」と問い合わせた。
出社した秋子はメモを見て、あわてて有島邸に駆け込み春房が二人の関係を追及していることを伝えた。
その夜、秋子は春房に責められ、すべてを白状してしまう。春房は、秋子と有島の関係を知ったのは、『国民新聞』記者が秋子の手紙を入手し、すぐに発表するところだったが、二人とも身分のある人達なので、まず君に見せると言ってそれを見せられた時だったと語る。
6日午前10時頃、春房から有島へ電話で事務所まで来てくれと伝えられ、有島はすぐに出かける。春房は秋子から一切を聞いた、それに相違ないかと尋ねた。その通りだと有島は答える。
春房は、それほど気に入ったなら喜んで秋子を進上する、但し俺は商人だ、只では提供しない、すでに11年間妻として扶養したし、そお前にも3,4年は引き取って教育したのだから、その分の代金を寄こせ、という。
有島は、自分の命懸けで愛している女を、金で換算する屈辱を忍びえないと、それを拒絶。
では、警視庁へ行こう、同行しろ、と春房。同行しようと、有島。
警視庁と言えば震えあがると思った有島が、同行すると答えたので春房は狼狽する。
秋子は、春房の要求を入れて、一時円満におさめてくれないかと言うが、有島はこの屈辱に耐えられないと拒否。
結局、8日午後3時までに有島の回答を待つことで両者は合意し別れた。
7日朝、秋子が春房の要求1万円を武郎に告げる。有島にとっては1万円の金は問題ではなかったが、有島は金で解決するつもりは全くなかった。
春房は有島から金を取ることに固執し、告訴することを嫌がった。有島は、金を払わない、監獄へ行くと言い張る。
午後4時頃、有島は足助素一を入院中の東京帝大病院に訪ね、この間の出来事を話す。足助は神戸の親友原久米太郎に春房との交渉を依頼、原は神戸を発つ。
秋子はこの日は出社せず、一日中有島邸に居て、夕方自宅に戻る。春房は3泊4日の出張で留守。
秋子が家に戻ると、追いかけるように有島から電話があり、春房の不在を確認すると、有島はタクシーで秋子の家にやってきた。
明子は女中の八重を早く寝かせ、有島の世話をする。
夜10時近く、玄関の呼び鈴が鳴り、箱根に出張に行っている筈の春房が戻ってきた。
八重が聞いたこと。
秋子が有島に、「早く、お支度をして、窓からお逃げ下さい」と急き立てる。
有島は、昂然として、「いや、僕は逃げない。僕は、泥棒のような真似はしたくない」という。
春房の前に二人は並び、激しい罵倒を受ける。八重は、春房の荒々しい声と、秋子の泣き声を聞いた。その後で、春房が有島を殴った。
『中央公論』編集者だった木佐木勝は、「秋子はうまうまと春房のわなにひっかかたんだ」(「木佐木日記」)という半沢成二(ペンネーム諏訪三郎)の言葉を伝えている。
前日(7日か?)、ギロチン社の中浜鉄たち、江口の紹介で有島武郎を訪問、大阪に移る資金提供をうける。この頃、アナキストは「リャク屋」と呼ばれるほど会社廻りをして資金を稼ぐ。
8日朝、足助は四谷の武郎宅にゆく。武郎と秋子に会う。武郎は「情死」を口にする。
秋子は、石本静枝にそれとなく別れを告げ、昼の12時近くに『婦人公論』編集部に出社。同僚の半沢を誘って地下の花月食堂にゆき、鰻丼を注文。秋子は元気なく、「軽井沢に有島の別荘がある」「社を辞めるかも知れない」「死ぬかもしれない」と言う。秋子は食欲がないと言って鰻だけを食べた。
事務所では、椅子にもかけず机の上を整理して、用事があるので早く帰るとことわり、半沢の傍に来ると、「ご機嫌よう」といつになく丁寧なお辞儀をして出て行った。
秋子はそのまま有島の待つ新橋駅に行った。
午後4時、有島は自宅で母幸子、三男行三(こうぞう)にそれとなく別れを告げ、新橋駅で秋子と落ち合った。
二人は東洋軒で食事をして、有島は母宛てに「旅行がしてみたくなったから暫く旅に出ます。」と記した葉書を投函。
夜汽車で軽井沢に向かい、駅からは一里の道を歩いて別荘に辿り着く。
秋子は、春房に遺書をしたためる。遺書の最後は、「六月九日午前一時半」とあった。
足助は、夜、神戸の原を迎え武郎宅に行くも不在のため帰宅を待つ。
1ヵ月近く後の7月6日の夕暮、二人の遺体が発見される。
つづく
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