〈100年前の世界022〉大正12(1923)年6月12日~30日 中国共産党、党内合作決定 高尾平兵衛(31)射殺 より続く
大正12(1923)年
7月
・山本五十六、軍事参事官井出謙治大将の供で9ヶ月の欧米視察。
イギリス、フランス、ドイツ、オーストリー、イタリヤ、アメリカ、モナコの7ヶ国。
「当地(ワシントン)昨今吉野桜の満開、故国の美を凌ぐに足るもの有之候。大和魂また我国の一手独尊にあらざるを諷するに似たり」、「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、日本の国力で、アメリカ相手の戦争も、建艦競争も、やり抜けるものではない」
・憲政会、この年秋の県会議員統一選挙、翌年春の総選挙に備え、政友会に反感をもつ青年層に働きかけ。新潟県下では刈羽、新潟、北魚沼、西蒲原などの青年グループは13を数える。
・布施辰治、義烈団事件(キン・シショウ以下12名の対日武装示威計画)を京城地方法院で弁護のため渡朝。釜山~京城へ。
・金子光晴第二詩集『こがね蟲』(「新潮社」)。出版記念会の出席者に西条八十、吉田一穂、石川淳、室生犀星、福士幸次郎ら。
翌1924(大正13)年、東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)在学中の小説家志望森三千代と知り合い、室生犀星の仲人により結婚。1925(大正14)年3月、長男・乾が誕生。"
・神原泰「未来派の自由語」(「新潮」)。マリネッツィ「未来派の自由語」(大正8年)の紹介。
・井伏鱒二「幽閉」(のち「山椒魚」、『世紀』創刊号)
・川端康成ら、「新思潮」(第6次)創刊
・宮沢賢治(27)、7月末から教え子の就職依頼のため樺太に旅行。この紀行により「青森挽歌」をはじめとする挽歌詩群生まれる。
・尾崎一雄、同級生の紹介により京都粟田口三条坊に志賀直哉を訪ね、年1、2度の訪問許可貰う。
・小林多喜二(20、小樽高商在学)、「薮入」(『新興文学』当選)。4月筆。
■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年7月、荷風45歳)
七月朔。淫雨。風邪にて臥牀に在り。・・・。
七月二日。晴。
七月三日。午後清元秀梅と青山墓地を歩む。雨に逢ひ四谷荒木町の茶亭に憩ふ。・・・
七月四日。積雨始めて霽る。四隣物洗ふ水の音終日絶えず。
七月五日。日暮風雨。丹波谷の女を見る。
七月六日。晝の中雨歇みしが夕刻よりまた降り出しぬ。
七月七日。曇りて風涼し。午後電車にて柳島に至り、京成電車に乗り換へ市川に遊ぶ。・・・。
七月八日。午前愛宕下谷氏の病院に往く。待合室にて偶然新聞紙を見るに、有嶋武郎波多野秋子と軽井澤の別荘にて自殺せし記事あり。一驚を喫す。・・・。
(*註 有島武郎と永井荷風は、年齢、家庭環境、外国体験など非常に酷似しているんですがね・・・。荷風散人にとっては、心中或いは自殺は全く異次元の出来ごとなんでしょう)
七月九日。風雨午後に歇む。森先生の小祥忌なり。墓参の歸途明星社の同人酒亭雲水に會して晩餐をなす。賀古小金井の両先生、千葉掬香氏も来會せられたり。
(*註 この人、師鷗外の墓参は欠かすことはなかったと思う)
七月十日。・・・。夜秀梅を訪ふ。
七月十三日。時々驟雨。・・・。
七月十五日。梅雨既にあけたれど淫雨猶晴れず。隣家の人傘さしかけ、雨ふる戸口に盂蘭盆の迎火を焚く。情趣却って晴夜にまさるものあり。
七月十六日。雨やまず。書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。
七月十七日。曇りて蒸暑し。・・・。
七月十九日。始めて快晴の天気となる。・・・。夜深驟雨。
七月二十日。・・・。雨歇み俄に暑し。
七月廿一日。いよいよ暑し。夜秀梅を訪ふ。
七月廿三日。風あり。暑気稍忍び易し。
七月廿六日。・・・。この夜炎蒸甚し。・・・。
七月廿八日。・・・。炎熱堪ふべからず。家に歸れば庭樹の梢に月あり。清風竹林より来り、虫聲秋の如し。
七月廿九日。午後遠雷殷々。驟雨来らむとして来らず。炎蒸最甚し。"
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