大正12(1923)年
8月
・蒋介石、張太雷らとソ連へ行き数ヶ月、軍事・政治学ぶ。
・漢口地方の日貨排斥熾烈。
・大田實大尉、1年9ヶ月の艦隊訓練終え、戦艦扶桑分隊長で戻る。
・この月以後日ソ間の小包交換が停止される。
・平林初之輔「有島武郎氏の死について」(『改造』) / 「無産階級国家の外交政策」(『解放』) / 「学問と権力との衝突の解式」(『解放』)
・横光利一「マルクスの審判」
・井伏鱒二「借衣」(『世紀』)
■永井荷風『断腸亭日乗』(大正12年7月、荷風45歳)
八月朔。夜帝國劇場に往く。狂言は河合井伊一座の壮士芝居なり。暑気甚しければ廊下にて涼を納め狂言は見ず。・・・。
八月二日。芝浦の酒楼いけすにて木曜會酒宴の催ある由聞きしが、時節柄魚類を口にする事を欲せざれば行かず。此日終日涼風あり。・・・。
八月四日。風ありて涼し。・・・。
八月六日。午後遠雷の響きを聞き驟雨を待ちしが来らず。七月二十日頃より雨なく、庭の土乾きて瓦の如くになれり。窗前の百日紅夾竹桃いづれも花をつけず。
八月七日。炎暑前日の如し。・・・。
八月九日。・・・。夜に入るも風なく炎蒸甚し。・・・。
八月十日。晩間風歇み電光物すごし。初更雨来る。
八月十一日。夜驟雨雷鳴。秀梅を訪ふ。
八月十四日。秋暑益甚し。・・・。
八月十六日。晩風俄に冷なり。
八月十七日。雑誌女性原稿執筆。夜秀梅を訪ふ。
八月十九日。曇りて涼し。・・・。
八月廿二日。午後驟雨雷鳴。・・・。
八月廿七日。夕刻驟雨。
八月廿八日。・・・。初更雷雨。秀梅を訪ふ。
八月三十一日。・・・。深更に至り大雨灑来る。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。"
・ドイツマルクの価値、戦前の100万分の1に下落。8月の平均、1ドル=460万マルク。
・夏、ソ連航空隊司令アルカディ・ローゼンゴルツ(トロツキー義弟)、ベルリンで「ロシア軍需工業建設とドイツ用軍需製造」に関する協定に署名。ドイツ側主導で元ドイツ航空隊参謀リート・トムゼン大佐を主任とする「モスクワセンタ(ZMO)」設立。
・メキシコ、オブレゴン大統領、ハーディング大統領と「紳士協定」(ブカレリ条約)。石油産業など米国の既得権を事実上容認、米国のメキシコ政府承認実現。国民協同党を先頭とする議会は反発、立憲自由党デラ・ウェルタを大統領候補に。
8月1日
・中田喜直、東京に誕生
8月1日
・河上肇「資本主義経済学の史的発展」刊行。
8月1日
・伊藤野枝(28)・大杉栄共訳、ファーブル「科学の不思議」刊行。
8月2日
・与謝野晶子、寛と共に富士五湖方面に旅行。
2日午前6時20分、飯田町駅に到着。6時40分に発車。10時すぎ大月駅、11時30分頃谷村を経て吉田、船津、河口湖、長浜、西湖、根湯村、精進湖へ。午後4時頃精進ホテル(30年前に英国人が建てた)に到着。
3日、鳥帽子岳へ向かう。
5日午前8時30分、精進湖を渡り、西湖、根陽村、河口湖の西岸、洲走口を経て御殿場へ行く。
8月2日
・米第29代大統領ハーディング(57)、アラスカ遊説帰途のサンフランシスコで急死。石油業界絡みの汚職事件摘発の最中(ハーディング在任期間はアメリカ史に例を見ない汚職事件多発)。3日、副大統領カルビン・クーリッジ、昇格。
8月3日
・下中弥三郎・野口援太郎ら4人、教育の世紀社を結成、この日、新教育運動の企画を発表。10月6日「教育の世紀」創刊。
8月6日
・徳島県鳴門市の区内観測所で42.5℃を観測。
8月7日
・司馬遼太郎、誕生。
8月7日
・上野英信、山口県吉敷郡井関村(現・山口市阿知須)に誕生
8月9日
・伊藤野枝(28)・大杉栄長男・ネストル、誕生。翌年8月15日没。
8月9日
・ドイツ、反政府ストライキ、全国的に拡大(~13日)。
8月10日
・北京外交団臨城土匪事件(5月6日)に関して、連名公文で賠償その他を要求。
8月10日
・『大原社会問題研究所雑誌』創刊。
8月10日
・ソ連代表ヨッフェ、帰国。
8月11日
・イギリス、外相カーゾン卿、フランス・ポアンカレ首相に55項目の覚書送付。フランスのルール占領はヴェルサイユ条約の制裁措置に該当せず。
8月11日
・ドイツ、社会民主党国会議員団、クーノー政府不信任を決定。
8月11日
・ドイツ、賠償支払い中止を宣言。
8月12日
・ドイツ、ヴィルヘルム・クーノー首相、辞職。エーベルト大統領は人民党グスタフ・シュトレーゼマンに組閣委任、受諾。
8月13日
・トルコ、首都をアンカラとする。
8月13日
・ドイツ、シュトレーゼマン大連合内閣組閣(国民党・社民党・中央党・民主党)成立。~11月。
人民党グスタフ・シュトレーゼマン、国防相ゲスラー留任、蔵相ルドルフ・ヒルファーディング。社会民主党協力。14日、国会、内閣信任。240対76票。人民党のうち13棄権。
8月18日
・ソ連代表カハラン、瀋陽で張作霖と会談。
8月20日
・紡績業者、綿糸輸入税廃止反対運動起こす。
8月21日
・ドイツ、大工業家オットー・ウォルフ、シュトレーゼマン首相にラインラント地方の無政府状態について語る。
8月23日
・日米仲裁裁判条約第3回延長協約調印。1924年2月20日、批准。4月26日、公布。
8月23日
・ソ連、政治局、ドイツ革命対応協議。ドイツ委員会任命のラデック、ピャタコフら4人。
8月24日
・第21代首相加藤友三郎(62)、没。28日、加藤友三郎海軍元帥、海軍葬。
8月25日
・練習艦隊(司令官斉藤七五郎中将)磐手(米内光政大佐)、浅間、八雲、旅順入り。27日、青島入り。
8月25日
・日本労働総同盟中央委員会、「植民地人民と無産階級運動の促進に協力する」決議。
8月25日
・加藤首相没(24日)により、外相内田康哉、臨時総理大臣に就任。26日内田臨時首相以下辞表提出。
8月27日
・コルフ島事件。
アルバニア国境画定委員会のイタリア人将校数人が殺害。ムッソリーニ、報復としてコルフ島爆撃。31日イタリア軍、同島占領。ギリシャ、国際連盟提訴。9月27日イタリア、イギリスの圧力で同島撤退。
8月28日
・山本権兵衛に組閣命令が下る。9月2日、第2次山本内閣が成立
8月、加藤友三郎首相の病気が悪化すると、薩摩派の間で山本権兵衛(薩摩出身、前首相・海相)を後継首相にしようとする運動が高まった。しかし牧野宮相は、その動きに直接関わることで西園寺から疑いを受けないように、慎重に対応した。今回は、元老のうち、西園寺よりも松方の方が体調が悪かった。また、衆議院第一党の政友会の内紛は続いていて、政権を担当することは危ぶまれた。
8月17日、牧野は西園寺を訪れ、山本が政権を受ける意欲があることや、有力各方面で山本に対する期待が高いことを述べると、西園寺は大いに喜んだ。西園寺と牧野はこの日の相談で、今回は元老以外の者に相談せずに後継首相候補を摂政に伝える(奉答する)こと等、摂政からの下問に対応する形式も決めた。それは松方も了解していた。
こうして、同月24日、加藤友三郎首相が死去すると、摂政(裕仁)から善後処置についての下問が平田内大臣にあり、平田は元老の松方・西園寺に下問があるべきであると奉答した。そこで両元老に下問がなされ、27日に山本が後継首相に推薦され、9月2日、第二次山本内閣が発足した。
8月29日
・トルコ、ケマル、初代大統領に就任。
(参考)
山本権兵衛については、25歳の時に17歳の遊女を見染め、結婚にこぎ着けたというエピソードに興味がある。
江藤淳『海は甦える』
「山本権兵衛」元総理の心温まる愛妻物語(福田和也 東洋経済オンライン)
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