大正12(1923)年
7月初旬
・日本商業会議所連合会長田辺輝雄、中国総商会長に手紙を宛て、「此度各地の運動は両国間の通商航海条約を踏躙るものであり、国際信義を蔑ろにした不法行為である。経済絶交は戦争よりも厳重で極端な行動であり、その結果は日中国交を傷つけるのみ」と警告し、「各地商会及びその他一般商民に対し、是等運動は貴国商民真の利益に背くものであることを力説し、終息せしめることを望む」と求める。
警察庁、直隷省各区の警察署に「日貨排斥取締に関する訓令」を出し、日貨排斥運動を正式に取り締まることになる。
7月1日
・朝鮮戸籍令、施行。
7月1日
・ハンガリーで通貨改革実施。
7月6日
・ソ連で労働国防会議創設。
7月6日
・ソ連中央執行委員会、最初のソ連憲法を採択。
7月6日
・フランス、テニスの女王シュザンヌ・ランラン、ウィンブルドン・テニス大会女子シングルスで5年連続優勝。
7月6日
・有島武郎と波多野秋子の遺体発見
この日の夕暮、三笠ホテルの支配人がホテルの別荘浄月庵を掃除していた。持主は日本郵船と明治製菓の重役で三笠ホテルの経営者山本直良で、有島の妹愛子の夫。本館の掃除を終え、別館の有島邸の掃除を始め、二階から階下に下りたところで異様な臭気に気付き、応接間の有島と秋子の遺体を発見した。検視により死後1ヵ月、遺書により有島と秋子とわかる。
7日夜、軽井沢共同火葬場で火葬に付し、8日早朝に骨揚げ。午前8時発の汽車で遺骨が運ばれ、午後2時に上野着。有島の遺骨は足助素一と佐藤隆三により自宅に運ばれ、秋子の遺骨は八重によって自宅に運ばれた。
有島の告別式は9日10時から麹町区下六番の本邸で行われた。吉井勇、泉鏡花、上司小剣、島崎藤村、久保田万太郎、野口米次郎、安井曾太郎、津田青楓、下田歌子、与謝野晶子、与謝野寛、中条百合子らが弔問。午後2時、青山墓地に埋葬された。
秋子の遺骨は、9日、東京市赤坂区台町の菩提寺に八重が運んで預けて帰った。
〈与謝野晶子と有島武郎〉
7月7日深夜、有島情死の知らせが新聞社より与謝野家に入る。葬儀に参列。
8月、与謝野晶子は、有島武郎の個人誌「泉」追悼号に、足助素一の願いをうけて「挽歌二十首」を発表。「書かぬ文字言はぬ言葉も相知れどいかがすべきぞ住む世隔たる 君亡くて悲しと云ふをすこし超え苦しと云はば人怪しまむ 難ずれば泣きうペなひて思ふ時亡きまぼろしの笑むここちする」。
有島武郎への思慕
大正10年前後、妻の死後3人の子どもを育てていた有島武郎と晶子は頻繁に書簡をとり交していた。
晶子は武郎の思想と人格を尊敬し、家督相続の重圧に苦しむ彼を理解し、言行一致の人格者として尊敬していた。
武郎は明治36年4月8日の日記に『みだれ髪』の感想を「而カモ余ガ苦旅ノ途上時ニ彼女卜相遭フ時彼女ノ振冠リタル乱髪ノ中ニ云フ可ラザル清純深奥ノ姿アルヲ認メテ、茲ニ「新シキ者」ヲ拾ヒ得タルノ感ナクンバアラズ」と記している。
大正10年6月22日の晶子宛武郎の書簡には次のようにある。
「お歌を「人間」におのせになったのも拝見しました。ああして出て見ると又新しい心を覚えます。御歌の中に私もよみこまれる一人になる事は待ち設けてはならないと思った所のものでした」
同年の『人間』4月号の晶子の歌。
いましめの鈴を振るなる僧の居ぬ君と向へる心の中に
恋すればあはれ飛行もゆるさるる身の程なれど並々に泣く
大正12年6月9日、武郎は波多野秋子と心中した。晶子は『泉』8月号に哀悼歌を発表した。
晶子には11人の子どもがおり、短歌史上不朽の功績をともに成し遂げた寛がいて、武郎への思慕は「いましめの鈴」が鳴り響く、心の「飛行」に留まるプラトニックラブであった。
なお、晶子の二女七瀬は大正15年10月、有島の甥と結婚することとなる。
(参考)
永畑道子『夢のかけ橋―晶子と武郎有情』
映画 『華の乱』(深作欣二1988年)
7月8日
・第一次共産党事件(6月5日)の前に逃亡した佐野学、近藤栄蔵、高津正道に既に在露中の荒畑寒村、間庭末吉を加えて、同年7月頃ウラジオストクで在外ビューローを設立した。同ビューローが日本国内に送った「報告書」(1923年7月8日と露語で筆記)では、片山潜、荒畑、和田軌一郎、佐野、辻井、近藤、間庭、高津、小玉三郎、水沼熊、北浦千太郎が「在外日本共産主義者団」を結成したとある。
7月10日
・大杉栄、フランスから国外退去処分になり、神戸に帰国。伊藤野枝(28)、出迎え。
7月10日
・日本航空㈱、設立。この月、大阪~別府間に定期航路が開設。
7月10日
・ムッソリーニ、国家ファシスタ党以外の政党を廃止。
7月13日
・ブハーリン著・稲垣守克訳『転換期の経済学』(1926.6.10『唯物史観』)。
7月13日
・ハリウッドの象徴となる「HOLLYWOOD」の看板が設置される。
7月14日
・日本銀行、ドイツ・ライヒスバンクとコレスポンデンス約定を締結。
7月15日
・イタリア、改正選挙法可決。賛成303・反対40。35%得票の政党に下院議席の2/3を与える。
7月15日
・モスクワとゴーリキー間に初の定期航空路線開設。
7月16日
・蒋介石ら孫逸仙博士代表団、訪ソ(~12.15)。
7月17日
・フィリピン、ウッド総督の政策に抗議。ケソン以下、内閣及び国家評議会フィリピン人メンバーが総辞職。
7月19日
・南満州鉄道(株)社債400万ポンドをロンドンで発行。
7月20日
・村山知義ら「マヴオ」結成
「ベルリンから帰国した美術家・村山知義の呼びかけで結成された。結成時のメンバーには、旧未来派美術協会の美術家・柳瀬正夢、詩人の尾形亀之助、画家の大浦周蔵と門脇晋郎がいた。.....岡田龍夫、牧寿雄、戸田達雄および高見沢路直(のちの、田河水泡)、亡命ロシア人の画家、ワルワーラ・ブブノワ、プロレタリア画家岡本唐貴といった面々も参加している。1925年解散。
(略)
1923年7月、浅草の伝法院で第1回展開催。パンフレットで、村山の起草による「マヴォの宣言」が発表される。8月、「二科落選歓迎移動展覧会」を計画、実施予告をして新聞報道を賑わす。これは二科展落選作品を集めて公道を練り歩く移動展の企画であったが、上野署の命令で直前に中止された。また、11月の第2回展は「街頭へ、広場へ、絶望へ、虚無へ、アトムの転換へ!」をスローガンに、美術館を忌避して、東京市内外の約20ヶ所の飲食店に分散して同時開催した。」(Wikipedia)
7月20日
・富山、「藤十郎の恋」上演中止騒動。
7月21日
・ヘミングウェイ(24)、パリで『三つの短編と十の詩』出版。初版300部。
7月24日
・ソ連代表ヨッフェ、日ソ予備交渉打ち切りを提議。
7月24日
・岡山市の娼妓数名、仲間180名と連名で全員の断食も辞さないと、待遇改善を県庁に訴え(「山陽新聞」同日付)。
「我々のほとんど全部は日本の国の美しい伝統である家族制度の犠牲になり親のため、家のため乃至は可憐なる兄弟のため身を殺して人肉市場に売られて来たのでございます。」(「女性改造」9月号)
7月24日
・ローザンヌ、ギリシャ・トルコ戦争講和条約締結。トルコ独立。
イギリスに亡命中のヴェニゼロスがトルコとの講和交渉。東トラキアとスミルナは後背地を含めてトルコに返還、北部エピルスはアルバニア領として保障されるが、ギリシャに残った領土は1913年より増加。住民の民族的帰属に基づく領土要求の再発防止のためトルコ・ギリシア間で住民の強制交換を決定。ギリシア人130万がトルコから、トルコ人40万がギリシアから送還される。民族定義を宗教としたためトルコ語しか話せない人々が雪崩れ込む(東方正教会の世界総主教座のあるコンスタンティノープルとインヴロス島・テネドス島のギリシア人、テッサリアのトルコ人は送還対象外)。人口500万のところに難民100万が押寄せる。例えば、南部マケドニアでは、ギリシア人とほぼ同数のイスラム教徒が送還されトルコから難民が入植し、住民の4割が難民出身者という地方も珍しくない。
ギリシア共産党(1918年結成)は土地・財産をなくした難民に強力に訴える。但し、後ろ楯のソ連がマケドニア独立を考えているためらギリシア人の広範な支持は得られず。この時点の共産党の拠点はアテネ郊外の難民街「スミルニー・ネア(ニュー・スミルナ)」。
7月26日
・ソ連代表ヨッフェ、予備交渉終了を川上代表に通告。日本がサガレンからの自主的撤兵を声明し、以て正式交渉開始が必要と申し入れる。31日、日ソ予備交渉終結。8月10日、ソ連代表ヨッフェ、帰国。
7月26日
・平林初之輔「資本主義の文化的作用」(『報知新聞』)
7月27日
・皇太子(昭和天皇)富士登山
7月31日
・佐世保海軍工廠、軽巡洋艦夕張竣工(3,141トンで5,500トン級の武装)。
つづく
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