2023年8月25日金曜日

〈100年前の世界043〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑨ 〈1100の証言;千代田区、豊島区〉 「〔略。大塚の空蝉橋では〕夜になると朝鮮人が口笛で合図をしあって神社〔大塚天祖神社〕の縁の下にかくれていると言う密告に、憲兵が出てきて縁の下の人間を発砲して殺したが1人であった。こうしたことに刺激されて、小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。」    

浅草寺仁王門前

〈100年前の世界042〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑧ 〈1100の証言;世田谷区、台東区〉 「ボール紙で作ったメガホンをリーダーが持って、「ミナサーン! 井戸水に気をつけて下さい! 井戸の中に劇薬が投げ込まれました! 缶詰缶は大方爆弾です! ミナサーン、缶詰缶に気をつけて下さい……」 また別の声で「只今、本郷方面から上野方面に向かって、朝鮮人が7、8人押し寄せて来ました。皆様用心して防いで下さい・・・・・」 車坂、道灌山、鶯谷、日暮里にかけて、線路つたいに集まっていた3〜4万人の大群衆は、ワーツと吼えるようにそれを迎え撃つべく鬨の声をあげ、総立ちになった。」 より続く

大正12(1923)年

9月1日 朝鮮人虐殺⑨

〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉

比嘉春潮〔沖縄史家、エスペランティスト。当時改造社社員。芝の改造社で被災、自宅近くの原っぱに避難〕

その日〔6日〕の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。彼は〔略。1日〕夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。最初、向うからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過した。ところが一番後にいた一人が、ひょいとふり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。

(比嘉春潮『沖縄の歳月 - 自伝的回想から』中央公論社、1969年)


安倍小治郎〔水産会社経営者。日本橋魚河岸で被災〕

〔1日夜〕皇居前の楠公の傍らに移ったが、ここもいまに朝鮮人が暴動を起して皇居に侵入するから危険だと流言を飛ばすものがある。それかあらぬか時々宮城の二重橋の広場から喚声が聞えて来るので、家族が又どこかに移ろうといい出した。〔大手門へ移動した〕

〔略。2日〕また夜に入ると二重橋方面で喚声が聞こえる。朝鮮人の襲撃だとの流言が飛ぶ。

(安倍小治郎『さかな一代 - 安倍小治郎自伝』魚市場銀鱗会、1969年)


石井光次郎〔政治家。当時『朝日新聞』勤務。宮城前に避難〕

1日夜、警視庁から〕帰って来た者の報告では、正力〔松太郎〕君から、「朝鮮人がむはんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。

そこにちょうど、下村〔海南〕さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正カさんがいったのです」「それはおかしい」

下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が9月1日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、9月1日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」 こういって、下村さんは、みんなを制止した。〔略〕だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞の連中は、それをしなかった

(石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版、1976年)


岩川清

〔1日〕午後2時半頃、〔日比谷から芝区琴平町へ帰宅の途中〕新聞社の自動車からメガホンで、ただいま巣鴨、大塚方面に暴動が起こったので十分気をつけるようにとのことで、人々は不安におののきました。〔略〕夕方より方々に自衛団ができまして、各所に尋問所がもうけられ交通人に尋問する等、都内は大混乱を来たしました。

(「日比谷図書館にいた時」品川区環境開発部防災課『関東大震災体験記集』品川区、1978年)


北園孝吉〔作家、歴史家〕

〔9月1日夜、宮城前広場で〕 そのうちに、どこからか男の声で「みんな、灯りを消せ!朝鮮人が襲ってくるぞ!」と叫んでいた。提灯やローソクをつけていた人たちは、いっせいに消してしまい、息をひそめていた。けれども堀向うの赤い空で群集の姿は闇に消されることもなく、影絵のように、こそこそと動きが見えていた。その30分くらいの経過の後、ポツポツ尋ね人が動き出し、朝鮮人はこっちへ来ないぞと誰かが言い歩いてきた。

〔3日夜〕日比谷公園の西角あたりで「止まれッ」と号令があり、手丸提灯が並んでいた。戒厳令下である。軍人がギラギラする抜刀を私たちの前に突き出し、提灯の明かりで、顔を見る。前方に停められている人たちには、「君が代を唄ってみろ」と怒鳴っている。唄の発音がおかしければ逮捕されるのだろう。私たちの言葉と顔つきが朝鮮人ではないと認められて通行を許された。

(北園孝吉『大正・日本橋本町』青蛙房、1978年)


沢田武彦〔当時23歳〕

〔1日、宮城前広場で〕夜中に4、5人が一列に並び、例の朝鮮人のことを連呼して通り過ぎるのを見、あのような人々が流言を流す人種かと思ったものですが、後日、市内の親戚や知人を訪ねましたところ、日頃尊敬する知識人や、年配で道理の分かった人々まで、一様にこの流言に震え上がっていました。

(「大地震から二十四時間」関東大震災を記録する会編、潜水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)


寺田壽榮子〔当時成蹊小学校4年生〕

私は日比谷へにげだ時、朝鮮人が2千人ばかり来るから、皆さんてんでんにお気をつけなさいと、へんな方が大声でおっしゃったので、私はおどろきました。お家のいとこがそんなら女の人はくさの中にしゃがんでいらっしゃいといったので、皆草の中へしゃがんでいました。〔略〕晩の8時頃だったので、ちょうちんをつけといたのを皆けさなければいけないと、又大きな声でいったので、日比谷中まっくらになってしまいました。なんだかうしろにいるような気特がしてこまりました。お兄様たちが、日本人と同じふうをしてきて、すぐ前にきてふところからでもきれものをだされて、殺されるかもしれないと私たちをおどかしになりました。私はこわくて、こわくて泣きたくなってしまいました。〔略〕私は9月1日の晩はわすれられません。

(成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)"

神田外神田警察署

9月1日、流言蜚語の始めて管内に伝播せらるるや、署員を要所に派遣して警戒に従事すると共に、民衆に対して、軽挙妄動を戒めたり。而して、同日薄暮、自ら本署に来りて保護を求め、或は、署員に依りて検束せる者等を合せて、支那人11名、鮮人4名、内地人5名を収容せり。然れども、流言の宣伝益々急にして遂に、民衆は自衛の為に、戎・兇器を携えて起ちしが、その行動往々にして看過す可からざるものあり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;豊島区〉

M〔当時『東京日日新聞』記者〕

〔1日、下宿先の大塚への途中〕巣鴨監獄の塀が倒れて、丈夫な石塀だから大丈夫と監獄の高い石塀の下に避難をした付近住民がたくさん死んだ。こんな話を聞いたあとですぐ、朝鮮人がムホンを起した。司法省行政課長、山岡万之助が2千人の囚人を解き放したとはあとで聞いたが、その時点では、朝鮮人と刑務所囚人との暴動が起ったの伝聞ばかしであった。

下宿は無事で、その夜から自警団が作られて、日本刀を腰に、竹ヤリを一本ずつ配られて、町内の血気な男子は、それぞれ囲碁友だちとか、つり仲間とか、話の合う連中で組を作って、家主の家を溜り場にして動き回った。情報は、警察官と在郷軍人が持ち込んできて、「井戸の水を呑むな」が始まりであった。夜は自警団で日中は災害地歩きという毎日で、死人を見るのは馴れっこになってしまった。

〔略。大塚の空蝉橋では〕夜になると朝鮮人が口笛で合図をしあって神社〔大塚天祖神社〕の縁の下にかくれていると言う密告に、憲兵が出てきて縁の下の人間を発砲して殺したが1人であった。こうしたことに刺激されて、小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。あとで小島屋の家主からふるまえ酒が出されて、みんな知らんと言うことにしよう、どうだ・・・。これで全員が了承して、誰も以後こんな話をしないことにした。今とはまったく違った時代だよ。ほとんどの人が朝鮮人殺しは知っていたが、記事としての興味がなくて扱われなかった。今、こんな問題をほじくり出して取り上げることは、世の流れとしか思えない。

(三原令『聞き書き』→在日韓人歴史資料館所蔵)


小生夢坊〔社会評論家。池袋で被災〕

〔1日〕余震が続くし、朝鮮人が暴行するという噂が流れて、特高が、外出しない方がいい、ことに下町一帯は危険だと注意する。私は長髪だったし、おまけに細い銀のタガをはめていた異相は、朝鮮人に間違えられるかもしれないとおもった。

そこで、その日は、家の整理をして出かけなかったが、この辺でも、自警団が竹槍やら猟銃やらを片手にうろうろしていた。

(「関東大震災恐怖記」『文化評論』新日本出版社、1977年9月)


田辺尚雄〔音楽学者〕

〔目白の自宅へ帰った1日夜〕その頃警察から通知が来た。「朝鮮人や不良徒が各戸の井戸に毒を入れて歩くから要心して井戸を護れ」とのことである。私は止むを得ず、その頃から折柄手伝いに来ていた吉田義雄と交代で、宅の井戸を警護することにした。私は日本刀を腰にさし、軽装で井戸の側に立つ。吉田氏は竹槍を持って、私と交代して井戸を護った。

ところが翌日になると、巡査が自転車に乗って街中を触れ歩いた。「朝鮮人が焼けていない家に一いち火をつけて歩くから注意せよ」というのである。そのために善良な在日朝鮮人が多数惨殺された。

〔略〕隣組の万から伝令が来て、「今、奥の長崎村の方から60人ばかりの朝鮮人が襲撃して来るから要心せよ」という。私はそんな馬鹿なことがあるものかと平気でいると、30分ばかりして再び伝令が来て、「先程のことは誤りで、実は一人の60歳ぐらいの朝鮮人らしい男がうろついているから気をつけよ、ということの誤りだ」というのである。人心の混乱というものは不思議なものである。そればかりでなく、一部の人の噂では「今3千人の朝鮮の部隊が箱根山を越えて小田原に侵入し、日本の陸軍と交戦中である」というのである。何という馬鹿なことを信じる人間があるものだろうか。

(田辺尚雄『田辺尚雄自叙伝(続大正・昭和編)』邦楽社、1982年)


巣鴨警察署

9月1日「鮮人は東京市の全滅を期して爆弾を投ぜるのみならず、更に毒薬を使用して殺害を企つ」との風説始めて伝わりしが、民心これが為に動揺して遂に自警団の勃興となり、鮮人に対する迫害頻りに起る。

かくて翌2日に至りては、放火の現行犯なりとて鮮人を同行するものあり、毒薬を井戸に投じたる者なりとて逮捕する者あり、或は鮮人と誤認せられて迫害を受け、又は本署に同行せらるるものあり、更に「社会主義者が帝都の混乱に乗じ、電車の車庫を焼毀せんとするの計画あり」との報告にさえ接しければ、本署は非番員の全部を6小隊に分ち、巣鴨・西巣鴨・高田の各町役場、池袋警備派出所・高田水久保三榮活動写真館その他一箇所に配置して警戒の任に当らしめ、かつ高等係に命じて社会主義者及要注意鮮人を監視せり。

而して自警団の暴行は漸く甚しく、同3日良民にして重・軽傷を負えるもの8名を出し、或は公務の執行を妨害し、或は商店に赴きて暴行するもの等少なからず、これに於て陸軍当局の提議に従い、軍隊・警察互に協力して管内の警戒に当りしが、同4日以来更に要視察人の取締を厳にし、流言を放てるものを検挙すると共に、同5日には管内の要所に検問所を開き、かつ自警団の設立はあらかじめ警察の許可を受くる事となし、又その戎・兇器の携帯を厳禁せり。

しかれども自警団の多くはなお態度を改めず、制服の警官・軍人を誰何するの狂態なりしかば、巡察隊を1組10名ないし20名に増員して取締を励行せしが、その功少なきて以て、更に大部隊の巡察隊を編成してこれを鎮圧せんとし、福島県応援警察官40名と本署予備員とを合してこれを2隊と為し、管内警戒の任に就かしめたり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


『豊島区史』

豊島区地域でも、朝鮮人に関するデマの流布は例外ではなく、巣鴨署管内で45(1組員数25〜500人、10月20日調)の自警団が組織されている。巣鴨署の場合は東京府下で朝鮮人に関する流言が発生した最も早い(1日)場所の一つなのである。そして少なくとも巣鴨および池袋で各1名ずつが殺されたという資料が残っている(二つの異なる調査で各1名ずつ)。巣鴨警察署も「自警団の暴行は漸く甚しく、同3日良民にして重・軽傷を負えるもの8名を出し(『大正大震火災誌』)と暴行の事実は認めており、豊島区地域にいた多くの朝鮮人を生命の危機が襲ったことは疑いなかろう。

(『豊島区史・通史編2』豊島区、1983年)"


つづく

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