〈100年前の世界032〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑦ 〈関東大震災と作家たち(つづき)〉 谷崎潤一郎 横光利一 川端康成 泉鏡花 直木三十五 岡本綺堂 より続く
大正12(1923)年9月1日
関東大震災⑧ 〈関東大震災と作家たち(つづき)〉
宇野千代(26歳)は、大森駅近くの郵便局(現・「大田山王郵便局」。大田区山王二丁目5-7)から出ようという時、揺れにあう。尾﨑士郎(25歳)と住んでいた馬込の家(大田区南馬込四丁目28-11)は無事だったが、朝鮮人が襲ってくるとのデマが飛び交い、二人は恐れて天井裏に隠れる。
池部良(5歳)は、自宅(大田区中央四丁目)の庭で弟と水遊びをしていた。父が真っ先に母を助けるのを見て、子ども心にも「父は子どもより母なんだな」と悟り、心理的に親離れできたという。
同年7月、5年間の外遊から帰朝した堀口大学(31歳)は「望翠楼ホテル」(大田区山王三丁目34-13)に投宿、彼の帰朝を楽しみにしていた佐藤春夫(31歳)も、東京四谷のアパートを引き払って同宿。二人はここで揺れにあう。
徳富蘇峰(60歳)一家は、山王草堂(大田区山王一丁目41-21。翌大正13年から住み始める)ができるまで近くの中田邸に仮寓していた。蘇峰は出先の神奈川県逗子で揺れにあい、逗子から当地に戻る道すがら、抜き身の刀を持つ人を見かけ、朝鮮人に間違えられて襲われないかと恐れた。
村岡花子(30歳)は、自宅(大田区中央三丁目12-4)で、長男の道雄(2歳)に物語を聞かせたあと、昼食の準備に立とうという時に遭遇。家は無事だったが、夫が経営する「福音印刷」の工場(横浜市山下町)は崩壊し、義弟と70名もの職人が亡くなり、会社は倒産、多額の負債ができる。
質屋 「きねや」(現・銀座七丁目)の店員だった山本周五郎(20歳)は店の使いか何かで南麻布の天現寺に来ていて、そこで揺れにあう。「きねや」は焼失。新天地を求めて大阪方面へ旅立ち、そのおりに「大阪朝日新聞」に地震の体験記を書き初めての原稿料を得る。
佐多稲子(19歳)は、日本橋丸善で揺れにあう。 当時洋品部の店員だった。 丸善ビルは崩壊するが、 「外に出ろ!」 の指示に従って命拾いする。
北原白秋(38歳)は、妻の菊子と生まれたばかりの長男隆太郎と小田原の自宅で揺れにあう。2階にいた白秋は階下の家族を助けようと階段を降りかけますが、階段が崩壊するが、運良く軽傷で済む。
堀辰雄(18歳)は、この地震で母親を亡くす。
間宮茂輔(24歳)は、渋谷道玄坂下の芸術社に出社していてそこで揺れにあう。社屋は崩壊。 間宮は縁先の木によじ登ってかろうじて助かった。
小島政二郎(29歳)は初めての短編集『含羞』の初版2,000部を焼いてしまう。類焼火災に備え身重だった光子夫人を田端の芥川龍之介の家に預ける。
日本における登山の先駆者辻村伊助(日本人で初めてヨーロッパ・アルプスの厳冬期の4,000m峰に登頂)は、箱根湯本に自ら作った高山植物研究のためのロック・ガーデンで、ローザ夫人と3人の息子とともに被災、土石流に押し流されて5人とも亡くなる。
大森貝塚の発見者モース(85歳)は、米国で関東大震災の報に接し、自らも教鞭をとった東京帝国大学の図書館も壊滅したことを知る。 彼は一度書いた遺言を書き改めて、自らの全蔵書を東京帝国大学に寄付する。
(出典) 馬込文学マラソン
〈流言蜚語への態度〉
菊池寛の良識
「僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。…菊池と雑談を交換してゐた。…その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。…しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシェヴィツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度も眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。…
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシェヴィツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし萬一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。」(芥川龍之介「大震雑記」)
ここでの、「善良なる市民」とは、デマに踊らされる無知蒙昧な民衆という意味合いを持っている。芥川は、自らを「善良なる市民」に擬して「不逞鮮人」(作中では伏せ字)の陰謀を語り、菊池にたしなめさせる。
芥川龍之介のパロディ作品『桃太郎』(『サンデー毎日』夏季特別号、1924年6月)。
鬼を平和主義者、桃太郎を侵略者とし、桃太郎は「武断主義の犬」、「地震学などにも通じた雉」、「鬼の娘を絞め殺す前に、必ず凌辱をほしいままにした」猿を引き連れ、「あらゆる罪悪を」行い、鬼が島の「罪のない」鬼を殺戮して、故郷へ凱旋する。しかし鬼の若者たちは「鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾をしこんで」桃太郎の屋形を襲撃する…。
ここには、三・一独立運動以後から関東大震災までの日本人と朝鮮人の緊張関係が表現されている。"
広津和郎は、デマに批判的であった。
「あの震災に関聯して、今思い出しても日本人として堪らない気持ちのするのは、各地に起った例の鮮人騒ぎである。…とにかく鮮人に対して、あの時日本人の行ったことは、これは何とも弁解のしようのない野蛮至極のものであった。ああ云う場合、この国の人間には、野蛮人の血が流れているのではないかという気がする。…
(朝鮮人が来ますと言われて)私は、
「そんな莫迦な話があるものか。鮮人が地震を予知していたわけではあるまいし、何処で勢揃いし、何処からやって来るというのだ。…そんなことは絶対に考えられないよ。僕はこれから寝るから、ほんとうに鮮人が来たら起こしてくれ。」…と云って、人々を安心させるために、畳の上にひっくり返ったら、実際に眠ってしまった。」
翌日、葛西善蔵のもとを訪ねるが、葛西が寺の管長が竹槍を持って守ったことを褒めたことに憤り、喧嘩別れをしてしまう。(「葛西善蔵の「蠢く者」」『年月のあしおと下』)
寺田寅彦は、この流言蜚語を信じなかった。
「帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえてくる。こんな場末の町へまでも荒らして歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入るであろうか、そういう目の子勘定だけからでもじぶんにはその話は信ぜられなかった。」(「震災日記より」『天災と国防』)
佐多稲子は体験記の中で庶民の「怜悧な判断」について語っている。
「アラララ、と聞こえる高い叫び声は朝鮮語らしく聞こえる。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞こえる。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起こしたという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私は思っていた。…
私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。…長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起こしたなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもっ
て走っていたにすぎない、と。
私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、かねてのこの人への尊敬をいっそう強くした。…貧しい興行師のこの妻のような怜悧で正しい判断は、あの当時住民の多くは持ち得なかった。政府の流した蜚語は、大地震という自然の脅威におののいている住民の、異常な神経を煽った。」(「下町のひとびと」)
つづく
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