2023年8月16日水曜日

〈100年前の世界034〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑨ 〈関東大震災と作家たち(つづき)〉〈流言蜚語への態度(つづき)〉 志賀直哉 江口渙 田山花袋 島崎藤村 江馬修 〈自警団への参加〉 菊池寛 芥川龍之介 永井荷風 久米正雄       

 

日本橋

〈100年前の世界033〉大正12(1923)年9月1日 関東大震災⑧ 〈関東大震災と作家たち(つづき)〉 宇野千代 池部良 堀口大学 徳富蘇峰 村岡花子 山本周五郎 佐多稲子 北原白秋 堀辰雄 間宮茂輔 小島政二郎 辻村伊助 モース 〈流言蜚語への態度〉 菊池寛 芥川龍之介 広津和郎 寺田寅彦 佐多稲子 より続く

大正12(1923)年

9月1日 関東大震災⑨ 〈流言蜚語への態度(つづき)〉

朝鮮人暴動を「信じない」志賀直哉

志賀直哉は震災時京都にいて、家族を心配して上京し、東京への汽車の中で朝鮮人騒ぎの噂を聞く。

「東京では朝鮮人が暴れ廻つてゐるといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかつた。

松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追ひかけるのを見た。

「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいつたが、余りに簡単すぎた。今もそれは半信半疑だ。…

丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…

「―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ」…「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」二人は笑つてゐる。」(「震災見舞」)

「大和魂」に心からの侮蔑と憎悪とを感じた江口渙

汽車の中にいた江口渙は、車窓から川に流れていく「白い細長いもの」と、竹槍や鳶口を持って、川岸からその物体に石を投げつけている集団を見かける。車内では、その物体は「鮮人」か「主義者」の死骸であろうと噂する。その後、車内で足を踏んだの踏まないので喧嘩が始まる。

「喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、…突然座席へ突っ立ち上がった。

「諸君、こいつは鮮人だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」…

「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」

…時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し興奮を烈しくするばかりだった。(その男は次の駅で引きずりおろされ)物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。

「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ。」

私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三の人もやはり同じようなことを怒鳴った。…こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月ほどたった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思えなかった。そして無防御の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、否、それまでにしなければ承知のできないほど無条件に興奮したがる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにいかなかった。ことに、その蒙昧と卑劣と無節制とに対して。」(「車中の出来事」)

武勇伝を語る田山花袋

9月11日、震災体験の執筆を依頼するため『中央公論』編集者木佐木勝は新宿から花袋の家のある代々木まで歩いていった。訪ねてみると家も無事、当時51歳の花袋自身もすこぶる元気で、木佐木を相手に武勇伝を語る。

「鮮人が毒物を井戸に投げ込むという噂を聞き、花袋老大いに憤慨、ある晩鮮人が自警団の者に追われ、花袋老の家の庭に逃げ込み、縁の下に隠れたので、引きずり出してなぐってやったと花袋老武勇伝を一席語る。」(『木佐木日記』)

小説『子に送る手紙』(『東京朝日新聞』夕刊10月8日~22日)を書いた島崎藤村。

「その時、私は日頃見かけない人達が列をつくって、白服を着けた巡査に護られながら、六本木の方面から町を通り過ぐるのを目撃した。背の高い体格、尖った頬骨、面長な顔立、特色のある目付なぞで、その百人ばかりの一行がどういう人達であるかは、すぐに私の胸へ来た。」

「その人達こそ今から三十日程前には実に恐ろしい幽霊として市民の眼に映ったのだ。」(『子に送る手紙』第1回)

藤村が書いたのは、震災を生き延び虐殺から逃れた朝鮮人が、迫害を怖れて帰国する姿だったが、載開始当時、朝鮮人虐殺はいまだ報道統制下にあり、曖昧な表現にならざるを得なかったようだ。虐殺の解禁は連載終了直前の10月21日であり、その翌日(22日)の最終回には、藤村は次のように書いた。

「怪しい敵の徘徊するものとあやしまられて、六本木の先あたりで刺された人のことを後になって聞けば、まがいもない同胞の青年であったというような時であった。某青年は声の低いためと、呼び留められても答えのはっきりしなかったためと、宵闇の町を急ぎ足に奔り過ぎようとしたためとで怪しまれ、血眼になって町々を警戒して居た人達に追跡せられて、そんな無残な最後を遂げたという。」

江馬修の迷い

江馬修(1889~1975)は東京府下代々木初台の自宅で校正刷りに向かっていた。昼食の用意された座敷の円テーブルに座って家族とともに食べ始めたところへ、不意に「何とも言われぬ、異様な衝動」を感じた。

江馬は「いよいよ来たな」と心で呟き、本能的に屋外へ逃れようとした。しかし自分だけ飛び出すわけにはいかない。江馬には妻と二人の娘があった。何よりも二人の子を助け出さねばならなかった。長女を見ると、彼女はテーブルに向かって箸を持ったまま、「母ちゃん、味噌汁がこぼれるよ!」と叫んでいた。

江馬は家屋が激しく振動する中、書斎に飛び込み、寝かされていた次女を抱き上げて、「疾風のように中庭へ飛び降りた」。そして後から来る妻と長女のために木戸を開け放ち、前庭へと走った。江馬は寝間着に裸足のままだったという。

「見渡す限り家屋ばかりでなく、あらゆる樹林、立木、電柱なぞ、大地の烈しい怒りに怯えたように大きく震えおののいていた。そして、大浪の鳴るような、ごうごうというもの凄い音の中から、人間のうろたえた絶望的な叫喚が痛ましくも雑然と湧き上がった」(『羊の怒る時』)

この時江馬は、なかなか屋外へ出てこなかった妻を叱ってこう言う。

「お前には今どんな恐ろしい事が起っているのか分らないのか」。

空に舞い昇る黒煙を眺めながら、江馬は「さらに新しい恐ろしい災厄」が始まろうとしているのを予感する。

そして震災2日目。

「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混雑に乗じて×××(伏字=朝鮮人)があちこちへ放火して歩いていると言うぜ」

隣家の軍人にこう伝えられた江馬は、「本当でしょうか」と目をみはる。

「日頃日本の国家に対して怨恨を含んでいるきゃつらにとっては、言わば絶好の機会というものだ」と続けられる言葉に、朝鮮人の友人があり彼らの考えや態度に「浅くない同情をもっていた」江馬は、「有り得る事だ」と考えないわけにいかなかった。

そこへもっと具体的な知らせがもたらされる。

「×××が一揆を起こして、市内の到る処で略奪をやったり凌辱を」しており、「だから市内では、×××を見たら片っぱしから殺しても差支えないという布告が出た」と言うのである。

江馬はこうした流言を強く疑いながらも、半ば信じようとする心の惑乱を感じている。

(出典)

<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(1) 引き継がれてきたデマ

〈自警団への参加〉

芥川に対して流言蜚語を言下に否定していた菊池寛は、自警団には参加していた。

「××を持つて、合言葉を使ふなどと云ふことは、大正の世にあるまじき事と思つてゐたが、震災後四五日の間は、私も××を手にして、合言葉を使つて、警戒に当つた。」(「災後雑感」)

芥川龍之介は、震災の次の日に発熱をして寝込み、代わりに友人が徹夜で警備にあたった。

「夜に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能はず。圓月堂、僕の代りに徹宵警戒の任に当る。脇差を横たへ、木刀を提げたる状、彼自身宛然たる○○○○なり。」(「大震日録」)

近藤富枝によれば、芥川の参加した田端の自警団は2ヵ月余りも続け、次第に親睦会のようになり、「龍之介は籐椅子をもち出してそこで寝そべり、…龍之介の話術にひきこまれて、夜警に出るのが楽しみになったくらいである。」という(『田端文士村』)。

小山内薫によれば、永井荷風も夜警を楽しんでいたようだ。

「荷風君は独棲の人である。

家は焼けもせず、潰れもしなかつたが、震災後は何処へ遊びに行くところもなく、話をする相手もなかつた。

そこで、楽んで夜警に出た。夜警に出て、誰彼となく話した。」(「道聴途説―荷風君の夜警」)

彼らとは対照的に久米正雄は、流言を信じて眠れぬ夜を過ごしている。久米は鎌倉で被災したが、震災の次の日にこの流言を聞いたようで、該当のページは半分近くが伏字になっている。その晩は「一挺の鉈をたよりに」警戒をした(「鎌倉震災日記」)。


つづく


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