大正12(1923)年
9月1日 朝鮮人虐殺⑪
〈1100の証言;港区/麻布〉
萩原悠子〔当時数えて5歳。麻布市兵衛町で被災。父親が「特高」〕
〔1日〕午後かなり経った頃、急に横丁が騒がしくなった。男達の慌しい行主父い、走り回る音、飛び交う短い緊迫した言葉・・・さっきまでとははっきり異うものものしい気配である。いよいよ大余震がくるのか、と私は怯えていると、数人の - 5、6人か、もっとだったか人数は覚えていないが - 興奮した様子の男達が父を訪ねてきた。取次ぎに出たお姉さんの後ろから見ると、顔見知りの近所の会社員や職人らしいおじさん達で、ゲートルやハッピ、地下足袋に身を固め、お姉さんに取次ぎを頼むのも息せきこんで、険しい顔つき、殺気だった雰囲気である。私は彼らが父と喧嘩をしにきたのかと思った。
ふだん朝夕、父の役所の往き帰り、近所の人達は父に遭うと丁寧に挨拶をし、父もきちんと敬礼を返している。けれど何か私には分らない男同士のことがあるのか、それとも今、町内では男達が総出で何かしているらしいのに一度も出て行かない父に文句を言いにきたのか。もしかして父の病気〔2、3日、腹をこわしていた〕も知っていて、弱っているところを大勢でやっつけようとするのではないか。父がどんなに強くても(私は父の腕力を見たことはないが、強いものと思いこんでいた。32歳くらい。体格もよかった)病気で多勢を相手では。
父は浴衣を着替え、裾をぴちっと押えながら玄関の敷居に近く正座すると、静かに、用件の切り出されるのを待っている。
男達は父を見ると丁寧に挨拶をした。でも私は、まだ油断はできない、と思う。私は父の右肩のすぐ後ろに立っていた。代表格らしいゴマ塩頭のハッピの人が進み出て、一所懸命昂奮を抑え、思いきった様子で「お宅にある武器を全部貸していただけませんでしょうか」
私は思った。彼らは丁寧さを装い、父から先ず武器を取上げておいて襲いかかる魂胆にちがいない。でもうちにサーベル以外の武器があることをどうしてこの人達は知っているのだろう。でも「全部」なんて、そんなに沢山あるのかしら。私の頭に浮かんだのは、いつか母が押入れの行李を整理していた時にちらと見た(気がする)大小の刀と、座敷の長押にかかっている槍らしい、鞘のついたもの(何なのかよくは知らなかったが)くらいだったが、貸さないで!貸さないで! と心に叫んでいた。
父は「武器」への返事はせず、まず理由を訊いた。おじさんは、朝鮮人の暴動が起こって下町は大騒ぎである。大挙してこちらへも攻めてくるだろう、と、今は抑制の堰も切れて、こうしている間ももどかしそうな息づかいである。(右の棒線のような言葉はこの通りそのままであったかどうかは分らない。そういう言葉があったとしても幼い私には分らなかったかもしれない。「朝鮮人」という言葉は知っていたと思うが、どういう人達かは知らなかっただろう。ただ、おじさんの話し方や皆の様子から、乱暴で恐しい人達が多勢で攻めてくる、と理解したのだと思う。それをいま要約して、後年知った言葉を使うと右のようになる。)
父との喧嘩ではない、とほっと私はしたものの、恐ろしい人達が沢山で攻めてくる、という新しい恐怖に捉われた。父は黙って聞き終わると「そういうことはあり得ません」と静かにきっぱりと言った。即答だった。身じろぎもしなかった。(この「得」という言葉も私に解ったのかどうか、と今は思うのだが、どうしても耳に刻みついている。)とにかく、父が一言ではっきりと、無い、と言ったことで、やっと私は緊張が解けたのだった。
ただ、その確信のある言い方が頼もしいと同時に不思議だった。父は2、3日外に出ていないし、外からは往診のお医者さん以外来ていない。どうして分かるのだろう。もしほんとうだったら? と。男達も一瞬気を呑まれたふうで、けれどもまだ半分は後ろの気懸りに引かれる様子で、時々質問をしては聞き入っている。父は一言一言穏やかな口調で答え、諄諄と話をしてゆく。理由をいろいろ説明したのだと思うが、私がはっきり憶えているのは、朝鮮人はそんなに沢山はいない、ということだけである。
父の落ちついた確信のある説明につれて男達は次第に鎮まり、納得し安堵した様子で肯き、丁寧に挨拶をし、格子を静かに引いて帰って行った。それきり横丁の騒ぎはぴたっと止んだ。
〔略。20歳頃〕あの午後武器を借りに来た男達が父の言葉にだんだん鎮まっていったこと、私も父の最初の一言で安心したこと、でも朝鮮人の数は少い、ということのほかはよく解らなかった、と言うと、よく憶えているな、と父はちょっと思いがけなかったようで、このとき、あの当時東京や京浜間に住んでいた朝鮮人の数を、数字をあげて話してくれた。そして、震災で彼ら自身どんな被害を受けているかしれない。余震はまだ続いているのだし、これからどうなるかもわからない時なのだ。・・・「暴動なんか、あり得ないのだよ」と。(傍線は原文のママ)
(萩原悠子『関東大震災の記億』私家版、1998年)
芝愛宕警察署
9月1日、午後6時頃鮮人襲来の流言初めて管内に伝わりしが、同時に警視庁の命により、制・私服の警戒隊員を挙げて、芝園橋・芝公園その他の要所を警戒せしが、遂に事無きを以て、同7時これを解除せり。しかるに、翌日に及びては、蜚語益々盛にして、放火・爆弾・毒薬等の説、紛々として起るや、芝公園の避難者を始め、戎・兇器を携えて自ら衛る者多く、遂に、乱れて暴行に渉るものあり、その夜、品川方面より管内に来れる某は、鮮人と誤解せられ、所謂自警団員の包囲する所となり、危急に陥りしかば、署員これを、保護せんとしたるに、却って団員の激怒を買い、重傷を負うに至り、遂に武器の使用によりて、漸くその目的を達せるが如き車変をも生ぜしかば、その取締を厳にするの必要を見たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)
後藤武夫〔実業家、帝国興信所(現・帝国データバンク)創業者〕
〔1日夜、泉岳寺山門前忠臣亭で〕朝鮮人騒ぎはその晩12時頃からであったが、泉岳寺墳内は一面の避難民で填められ、不逞鮮人が今にも襲来するというので、境内はさながら鼎(かなゑ)の沸き立つようであった。恐怖の上に恐怖を重ねて、皆極度の神経過敏となっていた。避難民の騒ぎはさることながら、青年団員であり在郷軍人たるものが、恐怖の念に駆られて右往左往するさまは、余りに無訓練にも不甲斐ないように感ぜられてならなかった。門前門内数百の避難者はいずれも恐怖して墓地の奥深く逃げ込んだ者もあったが、私の家族は依然として門前忠臣亭の前に落着いていたのであった。
〔略〕流言蜚語は東西南北に伝おって鮮人騒ぎはいやが上にも波紋が大きくなった。やれ彼等が火をつけたの、井戸に毒を投じたのというような根もない事が本気に伝えられては、善良な鮮人こそよい迷惑である。
〔略〕私はあらん限りの大声を発して、鮮人襲来の全然無根なる事を怒鳴り回って、みだりに流言虚説に惑わされ、軽挙妄動すべきでないことを戒めたのであった。果然朝鮮人暴動事件は全然虚報であった。しかも没常識な粗忽連中がこの渦中に投じて、軽挙妄動した朝鮮人虐殺事件が、ややもすれば国際問題化せんとしたことは、真に日本国民の一大汚辱であり、一大不名誉であった。
(後藤武夫『後藤武夫伝』日本魂社、1928年)
〈1100の証言;目黒区〉
堀貞之助〔当時18織。目黒区本町3-6-9(現・小山台高校付近)で被災〕
〔1日〕夕方になって、横浜の刑務所の囚人が脱走し朝鮮人と合流して暴動を起こし、多摩川の六郷橋を渡って東京方面に向かって来るから、早く安全地帯に避難しろ、と誰かがオートバイで宣伝して回りました。そして、星薬科大学前の旧中原街道の火の見やぐらで早鐘をうち、その付近の人に知らせたのです。近所の人たちは日暮れまでには世田谷の軍隊の兵営に避難しました。
(「小山台で震災に会う」品川区環墳開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
〈1100の証言;青梅〉
森田宗一〔当時尋常小学校2年生。青梅市三田村二俣尾で被災〕
〔1日〕その日の夕方から夜にかけ、いろんなことが伝えられてきました。更に翌2日になると、不穏な情報と余震の不安が人々を包みました。〔略〕不穏な情報により自警団がつくられ、竹やりを持った青年が村の入口や橋のたもとにかまえる光景が、女子供には気味悪く感じられました。「横浜の朝鮮人が大挙して東京へのぼって来たそぅだ。朝鮮人が東京市内で爆弾を投げ石油で放火している」。そんな噂が流れたのです。「朝鮮人と見たら呼びとめ、名をなのらないようなら、竹やりで刺し殺してよい」。そういうことも、言いふらされました。
〔略〕私どもの村の多摩川ぞいの滝振畑という小字(通称下通り)の人々は、”朝鮮人云々”ということには、みんな疑問を持ち、流言は信じ難いと思いました。それは日頃から温厚善良な人柄で近隣の人々に親しまれていたAさんは朝鮮人だったからです。日雇い労働をして真面目に働いていました。おかみさんは日本人で、夫婦とも近隣の子供たちからも親しまれる「いいおじさんおばさん」でした。
「Aさんのような人たちが、そんなことする筈がなかろ」。「Aさんが万一疑われるようなことがあったら、五人組の者みんなで守るんだ。そうしてやるべえ」。そう言い交し、Aさんが出歩かないでいいように心をくばり協力しました。Aさん家族はその近隣の人々の善意と保護を感謝し、のちのちまで「あの時は、ほんとに嬉しかったです」。そう語っていました。
(森田宗一『多摩の山河と人間教育』匠文社、1983年)
〈1100の証言;小平〉
袖山金作
地震の後には必ず火事が付き物。当然、関東大震災のときも東京は火災が発生して東京中が火の海と化して、9月1日の夜は小平からも東の空が其赤に見え炎がメラメラ燃え上がるのも見えるほどだった。当時の東京は殆んど木造平屋の燃えやすい建物であった為、忽ち東京中が火の海になったのである。次の日9月2日になってもまだ東の空が夕焼けのように其赤に見えたほどだった。
この時、誰が何処で言い出したのか大変なデマが飛んで「外国人が川の中へ毒を投げ入れたから水が飲めなくなった」とか、東京に火を点けたのは○○外国人だとか、とんでもないデマが飛び大騒ぎとなった。もうすぐその連中が小平に押し寄せて来るという騒ぎになり大変なパニックになってしまった。何とか食い止めなければということで回田新田の大人はみんな集まれということになり、各自竹槍、鎌、鍬等を手に茜屋橋に集まったという。山野、野中の人達は喜平橋に、上鈴木の人達は久衛門橋にということで、今日も明日も明後日も毎日待機をしていたそうである。
その後この件でどんな犠牲が出たのか出なかったのか分らない。
(『ふるさと昔ばなし第1号』-加藤直樹『九月、東京の路上で』ころから、2014年)
〈1100の証言;日の出〉
橋本広一
更にその夜〔1日夜〕は暴動が起きるといううわさ騒ぎで夕方から四方八方で半鐘が乱打され、父は竹槍を構え鉢巻きで家の警戒。老人と女、子供は近所揃って裏山へ避難し蚊帳を吊り、その中で一夜を明かしたのも忘れられません。
(「関東大震災を偲ぶ」日の出町史編さん委員会編『日の出町史・通史編下巻』日の出町、2006年)
つづく
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