2023年8月22日火曜日

〈100年前の世界040〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑥ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(2) 「地震があって4日目です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。」  「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。.....。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。」  

 

朝鮮人虐殺犠牲者の追悼碑

〈100年前の世界039〉大正12(1923)年9月1日 朝鮮人虐殺⑤ 墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(1日~5日)(1) 「1日の夜「津波だあ」というので旧四ツ木橋の土手の近くの原っぱに避難した。その原っぱにいたとき、朝鮮人騒ぎで大変だったんだ。「男の人たちはハチマキして、皆出ろ」とね。〔略〕あくる日、土手に行くとおまわりが立っていた。殺された朝鮮人はずいぶんいた。20〜50人ほども殺されていただろうか。」 より続く

大正12(1923)年

墨田区旧四ツ木橋周辺での虐殺(9月1日~5日)(2)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉

鈴木良雄〔当時25機。青森古川町出身、向島墨田村鐘紡工場募集員鈴木福蔵長男〕

〔2日夜、四ツ木橋辺で〕軍隊から又も急報あり「男子は全部後鉢巻して不逞鮮人逮捕の応援に出でよ、後鉢巻の無い者は銃殺刺殺の危険に遭うも致し方無し……」と云う事であった。素破(すわ)! と男子の一隊は直に後鉢巻に日本刀を提げて軍隊、警官隊の傍らに馳せ参じた。軍隊は着剣、驚官は抜剣、青年団・軍人会は日本刀に提灯を忍ばせ殺気紛々として〔略〕。

(『東奥日報・函館日日新聞』1923年9月6日)


首藤安部男〔当時東京相互利殖株式会社勤務〕

「言語に絶せる 鮮人残虐の跡」

〔車中で記者に語る〕私は本所吾嬬町大畑に自宅があったのですが、あの辺は地震にも倒壊せず火災も起らないので安心して避難していたのですが、2日夜になって突然鮮人40名が押かけて〔略〕佐倉連隊に急報すると共に一同小学校に避難婦人を中心にして男子が周囲を警護し襲い来る鮮人を撲殺して防禦したが、奴等は泥溝の中に30分も頭を埋めているという有様、又出した所を一青年が竹槍で顔面を突き刺したら跳んで来て肩に喰いつかれたのを他の青年等が駆けつけて殴り殺した。

京成電車方面では鮮人と青年との格闘が猛烈で全く戦場の様、〔略〕 この鮮人の暴虐比類なき蛮行には彼等の麘殺を図る外はないとて各所共青年団等の奮起を見たのであるが、真に意外とも心外ともたとえようがない蛮行で考えても身の毛がよだちます。

(『いはらき新聞』1923年9月5日)


中島碧川〔本所松倉町で被災〕

〔火災を逃れて船で白鬚橋に上陸し、大正新道を通って荒川堤をめざし、2日、四つ木の友人宅へ。そこで〕丁度〔午後〕7時半頃、俄然幾箇所かの非常警報が乱打されて、何処ともなく、海嘯だ ー 海嘯だ -。

〔略〕昨日から災難続きに怖気のついている幾万の群集はゆめやも分らぬ暗夜に、この海嘯には一層驚いて四ツ木の木橋と、京成電車の鉄橋を越えて幾万の堤上の人が我勝ちにと避難した。その混雑さ、鉄橋を渡る者は枕木と枕木の間に落込んで如何する事も出来ない、その上を後から後から人が逃れて来る、木橋を渡る人は押合い押合って欄干の外に押し出され数十尺の下に落ちるその混雑、私も肝を潰して里芋のご馳走所の騒ぎではない直ぐに起き上って逃げようとしたが、人で逃げられない。その内にこの海嘯は或者の流言であったが、これがその海嘯よりも怖しい事件の襲来の前提でありました。その事件の内容は、私にはここに書き現すの自由が許されておらないのです。

(中島碧川『帝都遭難から長崎まで』国糸之友社出版部、1923年)


長谷川〔仮名〕

2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。

旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


氏名不詳

あの日のことは忘れません。なんの罪もない朝鮮人が土手の坂にすわらせられ、きかんじゅうをひたいに向け一発で殺されていったことを。たしか9月2日のお昼すぎだったと思います。「朝鮮人が火をつけた」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人がぼうどうをおこそうとしている」という”うわさ”が人から人へと伝えられました。町にすむ17才以上の男の人たちは竹やりをかついで集まりました。あやしい人を見つけたら「15円50銭」と言わせるのです。朝鮮人は「チュウコエンコチュッセン」としゃべるからわかるのです。最初につかまったのは木下川にすむ青森からきた年よりです。その人は小説家で文章を書くのはうまいのですが、しゃべる方は、方言(なまり)があって、それにつかまったおどろきでよくしゃべれません。私たちは急いでつかまえられた場所(土手)に行って「この人はちがいます。ちがいます」といって助けてもらいました。

町では夜になってあやしい者がきたらすぐつき殺せ、夜のくらやみの中で味方をまちがえたらいけないから”山”とよばれたら”川”と答えるようにと合言葉までつくられました。

地震があって4日目です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。そのきかんじゅうの音はぶきみな音で「プシュ」という音でした。

その1発で朝鮮人は土手の人(ママ)にころげないで後ろにたおれました。土手の上では朝鮮人のお母さんと子どもが死んでいましたよ。

(木下川小学校4年1組『関東大しんさい作文集』添付資料No.3、1983年9月30日。授業で使用した資料)


氏名不詳〔3日午後4時水戸着の夫婦者。本所から亀有駅へ避難〕

「避難する道で 鮮人3名突き殺す」

ようやく三ツ木の荒川用水路あたりまで逃げのびて来ますとその付近には昨夜(2日)は鮮人が出没し、鮮人なる事をまぎらかす手段として日本人の洋装を奪おうとするので役場員、駐在巡査、騎兵等で警戒しておりました。私共も死を決して鮮人を見付け次第殺そうと2人して竹槍を持って注意しておりました。

そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。昨夜は一人まで突殺しましたがもう自分は命をかけてしたのです。

夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。〔略〕一昨夜の荒川用水路辺はまるで鮮人の出没で戦争の様でした。

(『いはらき新聞』1923年9月4日)


青木〔仮名〕

たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川駅〔現・八広駅〕の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。〔略〕大きな穴を掘って拙めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

①2日夕刻、吾嬬町放水路四ツ木橋附近の堤防で、配馬音五郎が朝鮮人1名を鉄棒で殴打殺害した。

②3日午前5時、吾嬬町大畑荒川放水路四ッ木橋附近堤防下で、中島五郎が朝鮮人2名を日本刀で顔面右肩及胴を斬り付け殺害した。

③3日午前2時半、吾嬬町大畑荒川放水路堤防で、堀子之吉外2名が朝鮮人1名を日本刀で斬殺した。

④3日午前5時、吾嬬町字木下荒川放水路堤防で、外山利太郎が朝鮮人1名にピストルを発射し傷害を与えた。

(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


『国民新聞』(1923年10月21日)

9月3日午前零時荒川放水路の土手下空地にて姓不詳の鮮人3、4名を殺害した犯人寺島村字玉ノ井431土木請負業吉井半之助(44)同679自動車運転手松戸宇之助(32)同772土工山田龍雄(46)同小島君太郎(34)の4名に令状執行収監す。

つづく

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