2023年10月9日月曜日

〈100年前の世界088〉大正12(1923)年9月3日 午後4時 永代橋付近の虐殺(『九月、東京の路上で』より) 「『約32名』『30名』という人間連行はなにを意味するのか。・・・この曖昧のなかに2人の人の尊厳が埋められていることに気がつかねばならない。うかびあがるのは鴻毛の軽さともいうべき朝鮮人の命である」

 


〈100年前の世界087〉大正12(1923)年9月3日 『九月、東京の路上で』より 上野公園にて 東大島(中国人はなぜ殺されたのか) 「9月3日大島町7丁目に於て鮮人放火嫌疑に関連して支那人及朝鮮人300名ないし400名3回にわたり銃殺又は撲殺せられたり。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日 

午後4時 永代橋付近(東京都江東区・中央区) (『九月、東京の路上で』より)

暖昧さに埋められているのは

その日は小雨が降っていた。1923年9月3日午後4時、永代橋付近で朝鮮人が軍と群衆によって殺害され、遺体が隅田川を流れていった。その数は「約30名」、あるいは「約32名」。


洲崎警察署より護送援助を請求せられたる特務曹長島崎儀助の命を受け巡査5名共に洲崎にて暴行せし不達鮮人約30名を同署より日比谷警視庁に〇〇〇(判読不能)永代橋に至りたるに橋梁焼毀し不通のため渡船準備中1名の鮮人逃亡を始ましを動機とし内17名、突然隅田川に飛込みしを以て巡査の依頼に応し実包17発を河中に向て射撃す 河中に人らすして逃亡せんとせし者は多数の避難民及警官の為めに打殺せられたり

『関東戒厳司令部詳報』「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」

永代橋は、9月1日夜、大量の避難民を乗せたまま焼け落ちていた。

3日、ここで朝鮮人殺害を実行したのは野戦重砲第1連隊第2中隊の島崎特務曹長指揮下の兵士3人。「事件調査表」本文では連行していた朝鮮人の数を「約30名」としているが、被兵器使用者の欄には「約32名(17名氏名不詳)」となっている。

震災時の朝鮮人虐殺の研究では第一人者である滋賀県立大学の姜徳相名誉教授は、これに激しい怒りをぶつけている。

「『約32名』『30名』という人間連行はなにを意味するのか。『約』とは『およそ』『ほぼ』という、不確かなことばであるが、この曖昧のなかに2人の人の尊厳が埋められていることに気がつかねばならない。うかびあがるのは鴻毛(こうもう)の軽さともいうべき朝鮮人の命である」

逃亡をきっかけとした事件のように書かれているが、川に飛び込んだ17人を17発の銃弾で射殺するとはいかにも不自然である。実際には隅田川まで連行して射殺、死体処理の省略のために川に流したのだと姜は推測する。2日前の永代橋の惨劇によって、この付近には死体が無数に浮いていた。後に回収された溺死体は数百に上る。

『関東戒厳司令部詳報』は陸軍の作戦行動の記録をまとめたもので、「事件調査表」はその一部。そこには、戒厳軍が民間人を殺害した多くの事例が、殺害理由とともに列記されている。

「怪しき鮮人か爆弾の如きものを民家に投け…棍棒を以て殴打昏倒せしむ」「該鮮人は突然右物人より爆弾らしきものを取出し将に投擲せんとし危険極なかりしを以て自衛上止むを得す之を射殺せり」など。

だが、爆弾「らしきもの」が本当に爆弾なのかどうかを確認した形跡もないどころか、朝鮮人の死体も決まって「已ムナク其儘放置」されている。問答無用の殺害と死体遺棄を正当化するこじつけなのだろう。

「事件調査表」にまとめられた殺害事例は20件。カウントされている被害者数は266人(うち朝鮮人39人、中国人(軍は朝鮮人だと強弁)200人、日本人27人)に上る。

これに、司法省の部内調査書にある軍の殺害記録のうち「事件調査表」と重ならない21人(朝鮮人13人、日本人8人)を加えると287人となる。

もちろん、それは実際にあった殺害事件のごく一部にすない。当時、陸軍大尉として野戦重砲兵第3旅団で参謀的な役割を担っていた遠藤三郎(1893~1984、終戦時、陸軍中将)は、70年代にノンフィクション作家、角田房子(1914~2010)の取材にこう答えている。

「・・・悪いとはわかり切っているが、しかし当時の兵隊は朝鮮人を一人でも多く殺せば国のためになり、勲章でももらえるつもりだった。それを殺人罪で裁いてはいけない。責任は、兵隊にそんな気持を抱かせ、勝手にやらせておいた者にある」(『甘粕大尉』)


・3日夜、東北本線石橋駅構内で、「下り列車中に潜んで居た氏名不詳の鮮人2名を引き下し、メチャメチャに殴り殺」す事件があった。(上毛新聞1923年10月25日(『関東大震災における朝鮮人虐殺と実態』)


つづく


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