2023年10月4日水曜日

〈100年前の世界083〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺㉟ 【横浜証言集】2 横浜市中部地域の朝鮮人虐殺証言 (1)横浜駅、高島町付近 (2)横浜公園、横浜港方面 (3)藤棚、西戸部、県立中第一学校付近      

 

朝鮮人虐殺犠牲者を追悼 堀ノ内町・宝生寺 横浜市南区



〈100年前の世界083〉

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺㉟

【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言

(1) 横浜駅、高島町付近

③河原利助 (当時二一歳)

「横浜駅に竹槍で刺された朝鮮人」

〔九月二日、東京から戸塚の自宅まで歩いて婦る途中〕 12時すぎに横浜駅に着いたんですが、ひどいものでした。そこらじゅうに、焼死体がゴロゴロしているんです。駅のホームなんか、見られたものじゃなかったですね。それに、人が竹ヤリで刺されているのも見ました。あのとき、朝鮮人が騒ぎを起こしたというデマ宣伝がありましたからね。

(「語りつぐ関東大震災 横浜市民84人の証言」)


(2) 横浜公園、横浜港方面

②玉井忠一郎 (判事)

「公園の横に朝鮮人十数名殺されて居たと」

〔二日早朝親戚の浅川氏の話〕 同人のはなしでは裁判所は全壊、在庁の人々は全滅、街は朝鮮人が非行を働くので此の場合警官の手が廻らずどしどし私刑にして居る現に公園の横で朝鮮人十数名殺されて居たのを見て来た。橋と言ふ橋は大概焼落ちて自分等は山を廻りどうとかして此処まで迄きた。往来は甚だ危険で武器を携帯しなければ歩かれぬ、との事であった。

(「横浜地方裁判所震災略記」一九三五年)


⑧O・M・プール (イギリス系商社員)

「警察により朝鮮人の暴動という不吉な噂」

〔横浜山手六八番地で被災、エンプレス・オヴ・オーストラリア号に助けられる。二日〕 私たちの一番大事な目的は、メイベル・フレイザーの足取りを捜し出すことであった。けれども、略奪や流血の惨事が横行して、陸上では明らかに事態が混沌たる有様だとの情報がもれ伝わっているため、エンプレス・オヴ・オーストラリア号の高級船員たちは、船から誰一人たりとも上陸させることを許したがらなかった。

〔・・・〕山手からきたかなり多数の住民たちは、湾に行ってみるかわりに根岸の丘陵地帯に安全な場所を見いだしていたが、いまでは警察が彼らに、港にいる船のほうへ行くよう警告を発しつつあった。というのは、根岸の監獄がくずれ落ち、脱走した囚人たちの群が、すでに人々を襲撃したり強奪したりしていたからである。〔・・・〕人々の流れは海岸通り沿いにキャンプ・ヒルと岸壁のほうへ向かって溢れつつあり、警察により、また朝鮮人の暴動という不吉な噂によってせき立てられていた。確かに、根岸の監獄には多くの朝鮮人の囚人がいたし、また何百という朝鮮人労働者が横浜東京間の工業地帯にいて、みな不満を抱いていた。しかし暴動が起こったなどというこれらの驚くべき話は、ショック状態にあるときの想像が作り出した虚構であった。不幸にして実際に起こったと思われることは、これらの作り話に踊らされた警察が、少しでも疑わしい振舞のある朝鮮人なら誰でも、そしてまた日本人朝鮮人を問わず現行犯でつかまったすべての略奪行為をしたものを、あるものは電信柱にくくりつけたり、他のものは射殺ないし死刑にしたりして、即決処分を行ったことである。私は、両腕をくくられた囚人たちを連行する警官の群を目撃したが、しかし流血の沙汰を見たわけではない。しかし、他の人々はそれを見て、しかも間にはいるだけの力もなく、いかにも残虐なことだったとのことである。それは一種の戒厳令のようなものであったと私は思う。確かに、それはたちまちにして混乱をおさめてしまった。

〔・・・〕その日曜日〔二日〕 の夕方8時ごろ、イギリス領事代理のブールターは、ユーステイス・ストロング師の援助を得て、エンプレス・オブ・オーストラリア号の船上にいるすべての人々をトランプをする部屋に呼び集めて、翌日、行方不明の人々や郊外で生きのびた人々を捜索しに行く救助隊を組織するための会合を開いた。陸上では暴行や流血の惨事が起こっていることを考慮して、独身者だけが自発的参加を許された。危険は、単に想像上のものではなかった。ライズィング・サン(シェル石油)社のビル・ブラッチは、3年前にいっしょに10日間の山登りをしたこともある私の若い友人であったが、鎌倉の村で、朝鮮人容疑者と間違えられて、一団の暴徒に襲われ、そして、折よく現われたひとりの騎兵将校によって助け出されたときはすでに、棍棒でめった打ちにされて死んでいたのである」

(プール著・金井圓訳「古き横浜の壊滅 アメリカ人の震災体験」有隣堂、一九七六年)

(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近

④東京日日新聞「自警団の虐殺」

横浜地方裁判所検事局 坂元検事戸部署で調査をする

保土ヶ谷、久保山辺でやられたのは多く戸塚辺の鉄道工事に雇われてゐたもので2日正午頃例の山口正憲一派のものが「鮮人三百名が襲撃してくる」との流言を放ったため久保田や其の付近に避難したものは自警団を組織し全部竹槍や日本刀を持って警戒し一方久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。〔・・・〕人に対する警戒は十日ごろまでつづき、二日から一週間は深夜でもピストルの音が絶えなかった。          (一九二三年一〇月)

⑥フェリス女学院本科五年

「鮮人騒ぎです」

〔西戸部で二日朝〕夜があげて焼跡を見に行く途中、みんな武装しているので一寸きいて見た。「知らないのですか、鮮人騒ぎです。日本人は鮮人に間ちがえられない為に赤布を付けるのです」と言った。それは大変と皆は赤布を付けた。「地震と火事、その上鮮人ではとてもたすからないね」と言った。そばの人が合言葉があるのでと話しているので、私共はきいて見た「「山と川、熱い寒い」と答えた。兄と父は竹槍を持って出かけた。私共はどんなに心配か分らない。日本人が鮮人と間違えられてころされる者も沢山にあった〔・・・〕。私どもはしかたなしに明朝、古郷へそうでで立った」

⑬佐藤伝志 (神奈川県戸部署巡査) 

「虚偽が事実になる時」

神奈川県戸部署の巡査になって間もなく、関東大震災にあった。軽井沢派出所が私の受け持ち交番だった。〔・・・〕2日、夜明けとともに本署に出向いた。

「朝鮮人が暴動を起こす」 の報を聞いたのはこのときである。署の内外は緊張した空気につつまれていた。そんなやさき、数十人の朝鮮人が武装して集会を開いているとの知らせが入った。「それッ」とばかり、居合わせた者全員が現場に急行したが、そこには人影ひとつなかった。右だ、左だ、いや向こうだと走り回っているうちに、恐ろしいもので、朝鮮人暴動は、もはや既成の事実として疑わなくなっていた。だれも彼もがそんな疑心暗鬼になり、私たちも、しまいにはサーベルを振り上げ、本気で追いかけた。

家屋の倒壊、断水、停電、出火〔・・・〕で平静さをまったく失っていた一般住民の激昂ぶりは、私たちに輪をかけてすさまじかった。町内ごとに自警団を組織し、竹ヤリ、日本刀、角材をたずさえ、徒党を組んで”朝鮮人狩り”をやった。町の辻で朝鮮人を取り囲み、袋だたきにしている光景も幾つかあった。いずれも、暴徒とは思えない一般朝鮮人市民であり、人がきをわけて入ってなだめようとするのだが、そのじぶんには、警察官といえどもへタに口出しすると命が危ないというありさまだった。私自身、危うく竹ヤリで突かれ、トビロで頭を割られるところだった。

結局、まる一昼夜探索しても、朝鮮人の武装蜂起を裏付ける事実は何ひとつなく、このままでは犠牲者が出るばかりだということで、署が朝鮮人保護にのりだした。近くの学校の雨天体育場に5~60人を収容したと記憶している。

このあと、3日から私は、県知事宅の警護をいいつかったが、市民、県民のいざこざの収拾や陳情こそあったが、朝鮮人による襲撃や暴動は、まったくなかったことを追述しておきたい。

(「潮」一九七一年六月)

⑯神中生徒

「傷ついた朝鮮人が相当収容され」

二日の昼頃になると、朝鮮人騒ぎがおこり、「今後、不逞鮮人数百名が神中を襲撃してくるという情報が入ったから十四才以上の男子は武器をもって闘うように」 と在郷軍人会や青年団の幹部がいって回った。神中の武器庫が避難民によって破壊され、鉄剣、演習用の空砲等が全部持ち出された。また各自、日本刀、銃剣、鉄棒等を持って校内を歩き回るので物凄千万だった。夜になると、銃声、突撃ラッパ、カン声等が囁、神中の表門通や保土ヶ谷方面でするので、私たちは地震よりもその方の恐ろしさが身にこたえた。(後で思えば日本人同志の錯覚による出来事たったのだが)。

戸部警察署が焼けて神中に本部を移し、博物の教室が留置場に代用された。傷ついた朝鮮人が相当収容され、日赤救護班の治療を受けていた。

三日の夜、生田校長が有泉先生らを連れて提灯を下げて避難民の間を廻り、「奥少将の率いる軍隊が近くの一本松小学校に泊っているから、もし朝鮮人が襲撃してきた場合、皆で大声を出して、「山」 というように、軍隊は 「川」 と答えて、すぐ応援に馳けつけてくれることになっています」 と説明されると、皆安堵した気特になったことは今も忘れません。(昭和41年10月28日)

(「神中・神高・希聖ヶ丘高校百年史」所収「震災当時の神中の思い出」)


つづく


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