大正12(1923)年
9月3日
【東京府南綾瀬村の事件】(藤野裕子『民衆虐殺』より)
事件の概要
南綾瀬村は現在の足立区の南部にあり、現場となった地域は、荒川放水路沿いにあった。虐殺は、9月3,4日の2日間にわたった。当時村内にあった4軒長屋が、荒川放水路の工事に従事していた土木労働者の飯場になっていて、長屋の一つに9人の朝鮮人が居住していた。
9月3日夜、朝鮮人の居住する長屋を日本人の自警団ら150人ほどが襲撃し、中にいた9人のうち7人を殺害した。きっかけは、自警団が長屋の朝鮮人を連行するように、警察に訴えたことにあった。
武器を持った自警団が長屋を囲むなか、警官は中にいた朝鮮人に対し、出てくるように申し入れたが、彼らは応じなかった。外に出れば何をされるかわからず、おいそれと応じられなかったのだと思われる。
交渉が始まってから2時間後、突如部屋の灯が消えて、中にいた朝鮮人2人がビール瓶を投げながら飛び出してきた。瓶の割れる音を聞いた自警団は「そら、爆弾だぞ」と叫んで、飛び出してきた朝鮮人の腹を竹槍で突き、よってたかって殴打した。これを機に、自警団は長屋に踏み込み、中にいた朝鮮人を斬りつけ、殴り倒し、外に引きずり出して、殺害した。
ビール瓶を投げたこと以外、長屋の朝鮮人たちは全くの無抵抗だった。しかし、「朝鮮人暴動」の流言が飛び交うなかでは、ほんの少しの抵抗でも「暴動」を裏付ける証拠と受け取られてしまう。
この状況で9人のうち2人は奇跡的に逃げ出せた。しかし翌4日朝、逃げた2人のうち1人が近隣で発見され、殺害された。もう1人の行方は、少なくとも裁判記録からはわからない。
三つの自警団
現場にいたとされる日本人の人数は150~200人であり、3日夜には大勢でやみくもに朝鮮人を殴打しているが、この事件の裁判でも被告になった11人にすぎない。民間の加害者のほんの一部のみが刑事罰に問われた点は、他の裁判と同様である。
その11人の住所・本籍や供述をふまえると、虐殺現場には少なくとも三種類の自警団がいた。
①本籍・住所とも南綾瀬村の村民で構成された、いわゆる地付きの自警団。
②住所は南綾瀬村であるが、本籍が千葉県・群馬県などばらばらな人たちで構成されたもの。土木工事その他の理由で南綾瀬村に新たに移り住んできた人たちでつくった自警団。供述によれば、南綾瀬村に来てから3~10ヵ月の者が多い。
③騒ぎを聞いて隣町の南足立郡千住町から現場に騒けつけた自警団で、被告の住所・本籍とも千住町である。
軍隊の影響
各被告の供述が示しているのは、四ツ木橋付近で軍隊が朝鮮人を虐殺したことが、南綾瀬村での虐殺と深く関わっていることである。複数の被告が、四ツ木橋での話を聞き、それによって朝鮮人への殺意が芽生えたのだと供述している。
ある被告が述べる9月2日の状況。
「そうこうする内に、大部兵隊がやって来、朝鮮人が爆裂弾を投げたり、綿に油を付けたものを家へ投げ込んで火災を起したり、日本人を殺したり悪い事ばかりするので、四ツ木橋方面で大分軍隊の為めに殺されたと云う様な話があり、私はそれを真実と思い、今も鮮人が飛び込んで来るかも判らない、もし来たならば鮮人と格闘してもこれを取り押さえ、村の人や避難民の為めに害を除こう、手向かったならば殺して仕舞うと固く心に期して居りました。(被告人第一回予審調書、『都市と暴動の民衆史』)」
そういう話をしたのが、南綾瀬村にやってきた兵隊のようにも読める。
もしそうであれば、流言を軍隊が広めていたことに加え、四ツ木橋での軍隊による虐殺を軍隊自身が認めていたことの二つの証拠になる。しかし、そうでなかったとしても、軍隊が四ツ木橋で朝鮮人を殺したことが、「朝鮮人が放火した」という流言に信憑性を与えたことは読み取れる。
他の被告も、四ツ木の土手で大勢の朝鮮人が殺されているのを見に行ったことで、「鮮人は実際火を放ったり何か悪い事をするに違いない」と思い、自分の村に来て悪さをしようとしたらやっつけてやろうと考えたと供述している。
流言だけでなく、虐殺(特に軍隊による虐殺)が、このように殺されるくらいだから悪いことをしたに達いないという真実味を流言に付与し、さらなる虐穀が生み出される。流言と虐殺の連鎖である。
身を挺す義侠心
被告人の一人は、四ツ木橋で軍隊によって殺害された死体を見て、「自分もやっつけてみたいという様な気を起こした」と述べている。この「やっつけてみたい」という表現からは、加害者の能動性が垣間見える。
この能動性の一つは、国家権力とは異なる、自分たちの力の世界がこの危機を支えるという感覚であろう。南綾瀬村の虐殺において、朝鮮人が住んでいた長屋に率先して乗り込んで、朝鮮人を殴りつけ、翌朝にも朝鮮人1人を竹槍で刺した人物は、自警団の第二グループ、土木工車のために一時的に南綾瀬村に移り住んできていた人物だった。
彼の供述によれば、9月2日朝、余震が頻繁にあるため、家族とともに長屋前の空き地に避難していると、焼け出されて逃げてきた避難民が通りかかった。避難してきた人たちは「朝鮮人にこういう目に遭わせられ、頼んで行くところもなく困った事だ」といい、「水を飲ませてくれ」と頼んだ。彼は避難民に水を飲ませて、にぎりめしを与えたという。
その後、軍隊による四ツ木橋での殺害について聞き、「今も鮮人が飛び込んで来るかも判らない、もし来たならば鮮人と格闘してもこれを取り押さえ、村の人や避難民の為めに害を除こう、手向かったならば殺して仕舞う」と固く心に期したのである。
よそ者でありながら、村民や避難民のために立ち上がろうとする義侠的な精神を、ここに見ることができる。
虐殺と「男らしさ」
腕っ節の強さ、豪快さ、剛胆さ、弱きを助ける義侠心を価値あるものと見なす文化が、男性労働者のあいだで形成されていた。富や学がなくとも、自己の矜持を保てるオルタナティブな価値体系である。
流言が広がるなか、想像上の「レイピスト」から日本人女性を守ろうとする「男らしさ」が、日本人男性を虐殺へと駆り立てていた。南綾瀬村のケースも、「男らしさ」の一つである、身を挺して弱きを助ける義侠心が、朝鮮人を虐殺する方向に作用していた。
報復の恐怖
被告の一人は、長屋の持ち主から「まだ七人しか殺していない。あと二人いるが、その二人がどこかに行って報告をし、軍勢を引き連れて来るようなことがあっては、今度は自分どもがやられるから、今晩は警戒してもらいたい」と頼んできたと証言している。
そもそも「不逞鮮人」という呼称自体、植民地支配に対する朝鮮人からの報復を予感するからこそ、生まれた言葉といえる。その偏見によって想像上の「テロリスト」が襲ってくるという流言が生まれ、朝鮮人を殺害した。殺害すると、今度は存在するはずもない想像上の「軍勢」がつくり出され、報復の不安にさいなまれて新たな殺害へと駆り立てられる。
こうした感情の動きは、各地で行われた虐殺が徹底的で執拗であったことの要因の一つと思われる。
つづく
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