〈100年前の世界104〉大正12(1923)年9月3日 【横浜証言集】Ⅰ横浜市南部地域の朝鮮人虐殺証言 「何てっても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」 より続く
大正12(1923)年
9月3日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(2)横浜公園、横浜港方面
⑥塩沢元治 (大阪時事新報記者)
「岸に上がると十七人名の国粋会員が長刀を突きつけた」
死を決して帝都に入る
〔横浜の海岸に上陸〕岸に上がると十七八名の国粋会員が長刀を突きつけた。もう殺されるのだと覚悟を決め荷物を捨てて手を挙げた。「貴様は日本人か」 「大阪から来たなら社会主義者ではないか」 「こんな戦場に飛び込んでくる奴があるか」 1丁ほど進むと道はたにはみるもむごたらしい死体がごろごろ〔・・・〕陸戦隊は右往左往して秩序維持に努め三日夜までに既に六百人の○○〔鮮人〕を○〔殺〕 し〇〇〇〇〇もドンドンされた、言葉付きや顔が似たという許りで○○された者も大分多い 〔・・・〕横浜を1町毎に誰何されつつ東海道にでた記者は徒歩で東京に行くことに決心し騎馬兵が駈け散らして行く街路を1歩宛進んだ 警戒が厳重で道路1町ごとに青年団消防隊国粋会員などが長刀短銃と槍を提げて関所を設けている 東神奈川に着くと三名の○○が騎兵隊に追いまくられて道路に飛び出したので忽ち○されてしまった。
(「大阪時事新報」一九二三年一〇月六日)
⑩夢野久作(作家、当時は新聞記者)
「流言、自警団の様子。囚人」
〔「備後丸通信」第1信。五日〕ランチから飛乗った一青年に、横浜の惨状を問へば、「私の申すのは、本当と信ずる事と、実際見た事ばかりです。一昨日の午後、東京を追はれて横浜に来た不謹慎の徒は、在浜の同類と一緒になって、あらん限りの非人道的暴行益々甚だしいので、青年団、在郷軍人会等で自警団を組織し、陸戦隊と協力して之れを鎌倉方面に逐った。六郷川鉄橋を破壊したのは、追撃を恐れた彼等一味の所業で、実に此許すべからざる、血なき、涙なき不謹慎の徒の暴行は、非人類としての人道上の大罪悪である」と語って、悲憤の涙に咽んだ。船客一同の眉字は物凄く動いた。
〔第三信〕3等船客中に、護身用として日本刀を携帯する者数名あったが、何れも隠し処に困って居た。横浜刑務所では囚人を解放したが、該囚人等は武器を提げて不慎の徒を平げたと云ふ噂と、此一味に与したといふ説がある。
(夢野久作「焼跡細見記」。「九州日報」一九二三年九月一一~一二日)
(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
⑪石坂修一(横浜地裁判事)
「鮮人と見れば直ちに殺してよしといふ布令が出たりと」
九月三日、藤棚の従弟夫婦の消息を探し〔・・・〕従弟夫婦の家は火災を免れ極めて元気、婦は共同炊事に従事し、夫は竹槍を杖いで警戒に当れり。一日以来の鮮人の異状を語ること詳なり。何か印しなければ危険なりとて白布を腕に巻きつけ呉れたり。また曰く、税関より物を持ち来るは自由勝手といふことになりたる故写真器械を一つ持ち出しては如何と。又曰く、鮮人と見れば直に殺してよしといふ布令が出たりと。余は当然之を否定する気持ちなく又肯定する気特もなく、之を怪むもなく又之を賛同する気も起らず何心なく之を聞き居りたり。
(「横浜地方裁判所震災略記」)
(4) 久保山方面
①石橋大司 (一九七四年個人で 「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」建立)
「電信柱に荒縄でしばられた朝鮮人の死体を見た」
横浜市福富町に住んでいた石橋さんは当時、小学2年だった。一家は火に追われた。9月3日、根岸方面に向け家族と一緒に逃げていく途中、久保山の坂で、電信柱に荒縄で後ろ手に縛られた朝鮮人の死体を目撃した。血にまみれていた。家族は無言で通り過ぎた。以後、家族の中でこの日の事が話題にのぼったことはない。「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃したりしているのに口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」 と石橋さん。〔・・・〕 「終わりの近い私にとっては、この碑の建立が生涯たった一つの善行だった」とつぶやいた。
(朝日新聞一九九三年八月三一日夕刊)
③神奈川県立工業学校建築科三年
「鮮人の死体至る所こすてられてあった」
聞けば父は会社で潰され辛うじて公園へ逃げ込んだと云ふ事である。それから共に久保山へ行き、明3日午前7時根岸の親戚へ行くべく久保山を立った。この間に起った重な事件は鮮人さわぎであらう、如何に鮮人なりと云ヘども皆我が同胞であるにも拘らず鮮人の死体は至る所にすてられてあった。
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(1) 子安地域
④長岡熊雄 (横浜地裁判事)
「余り残酷なる殺害方法で筆にするのもいやだ」
〔三日 「警察部長から鮮人と見れば殺害しても差し支えないという通達が出ている」 と聞かされる〕子安町に出た。荘丁がおびただしく抜刀または竹槍を携えて往来している。〔・・・〕生麦から鶴見に行く。この辺の壮丁も抜刀または竹槍を携えて往来している。路傍に惨殺された死体5~6を見た。余り残酷なる殺害方法で筆にするのもいやだ。
(「横浜地方裁判所震災略記」 所収「震災遭難記」)
(2)高鳥山、反町、二ッ谷橘、東神奈川付近
⑮小林勇 (岩波書店店員。被災当時二〇歳)
「廊下の向うは留置場で、朝鮮人がぎっしり入れられて立っていた」
〔神田の岩波書店で被災。震災二、三日後書き始めて約一か月の震災体験を綴った大学ノートを通覧。三日、鎌倉へ。徒歩で。品川で貨車に乗り六郷で止まる。線路を歩く〕川崎の駅を過ぎた頃、一人の兵隊と一緒になった。軍曹で、長い軍刀を腰にしていた。
線路のわきの暗がりの中に白い着物の人間がねている。傍を通りぬけるのも無気味なので、皆立ち止まった。兵隊は刀を抜き、小山と私は石を拾った。兵隊が誰だ、立てと大声でいったが、全く反応はない。線路から街へ出て歩くことにした。暗い街に提灯が見える。そこには刀、竹槍、鉄砲などを持った人間が屯していて、「こんばんわ」 といわせたり、後頭部を撫でたりして通行人を一々調べている。その頃歩いている人は少なかった。線路の人間のことをきくと 「ああ、あれはもうやっつけてあるんです。二人いる筈ですよ。昨日やったんです」 と彼らは兵隊に平然と答えた。
いたる所で尋問され調べられた。しかし、いつも兵隊が自分の友人だといってことなきを得た。「誰か一人、それっと声をかければ、何と弁解する暇もなくむざむざ殺されてしまうのだ」 とノートには書かれている。この時の朝鮮人虐殺の恐るべき見聞は、若い私にじつにいろいろのことを考えさせる契機となった。
横浜方面には夜空に赤々と火事の火が見えた。もうこれ以上歩きつづげるのは無理と観念し、通りがかりにあった警察に3人は飛び込んだ。たき出しの握飯と沢庵づけがあった。それを無断でしたたか食った。「戦場のような」 警察では私たちに注意する者などいなかった。三人は奥まったところにあった畳敷きの部屋を見つけて寝てしまった。朝になって見ると廊下の向うは留置場で、朝鮮人がぎっしり入れられて立っていた。
この警察は東神奈川署であった。
(小林著「一本の道」岩波書店、一九七五年)
【横浜証言集】4 鶴見地域 (橘樹郡) の朝鮮人虐殺証言
④安藤利一郎 (震災当時二〇歳)
「鮮人の死体が路上に横たわっていた」
〔一日、東京本町で被災。二日、本町へ行って社長に報告。葉山への第一信を依頼される〕 3時間を費やして品川に入った。突然、鮮人襲来の報が伝わった。
3日 (月) 晴 〔三時半大森→六郷橋〕 川崎町に入った。今鶴見方面から来襲するとて各所に密集して万一に備えていた。
青物横丁に出た時、第1師団3連隊の1小隊が警備に前進していた。夜も明けて鶴見に入ったが、すでに鮮人も昼は来るまいと、幾分不安は去ったらしい。生麦から神奈川に入ると神奈川から青木町西部、横浜にかけてことごとく火災のため全滅していた。
火災と鮮人の暴動のため横浜市民は多くの生命を失っていた。鮮人の死体が路上に横たわっていた。
〔九月六日〕鮮人来襲も虚報だ。すでに数日、鮮人とても飢餓にていこうする力もあるまい。飛行機からも宣伝ビラをまいていた。実は東京、横浜から一帯震揺地は戦々恐々の有様だ。戒厳令もしかれ、各地から救済も段々食料、被服の供給がなったから心配ないと宣伝している。暴利取締令も出た。軍隊は各地に派出されて安寧秩序を保っていた。
(関東大震災を記録する会編「手記・関東大震災」新評論、一九七五年所収「安藤利一郎日記」)
⑪東京日日新聞
「殺されて鶴見川へ提げ込まれ路傍にさらされ」
鶴見神社境内では三日白昼二名の鮮人土工が百余名の自警団に包囲されて殺され死体は附近の鶴見川へ投げ込まれた。
潮田海岸浅野造船所付近でも三日夜鮮人人夫一名殺され 生麦及び新子安では二日朝から三日夜にかけて飴売り二名と土工五名の鮮人が殺されて路傍にさらされてあった。
(一九二三年一〇月二一日付)
小田原警察署管内の状況
三日午前七時頃避遭難者等により京浜地方の朝鮮人暴行の流言を伝える者あり、やがて刻一刻に蜚語盛んとなり殊に在郷軍人の服装をなし宣伝するものありしによりて部民はこれを信ずるにいたり、函嶺を越えて静岡県方面に避難せんと、旧東海道を歩行し、五人あるいは八、九人隊伍を組みて陸続通過しつつありてこれらは何れも腕に赤布を巻き付け甲斐々々しき扮装をなすも、食に窮して小田原付近避難民に飢を訴えて食を乞うものあり、不安に駆らるる避難民は京浜間の状況を知らんとしてこれを尋ねるに至り、避難通行者は京浜方面に於ては横浜刑務所の解放により囚徒は八方に出没し、宛然猛虎を放ちたるが如く在住鮮人等は隊伍を組みて財物を掠奪し、或は婦女に対して獣欲を遂ぐるが如き事件各所に起り、これに憤慨したる罹災民は手に武器、兇器を持し、自警団と称して団体を組織し、鮮人その他不逞者に備えつつあり、現に戸塚方面までの通行路には各所にその団体の活動を目撃したりとの説をなしたるより、たちまち小田原町一帯に伝わりて益々人心恟々たる折柄漸次不逞の徒及不逞鮮人は小田原方面に侵入し来るべしとの誤報伝わるに至りたり、当署は交通、通信機関の破壊によりこれが真偽を糾すに由なく九月三日午後七時頃より前羽村及国府津町酒匂川河畔に巡査二名及消防組員四、五名を交代に勤務せしめ置きたり、偶々九月三日午後七時頃部内居住鮮人二名、食をもとめんと小田原町を彿循するや、罹災民等は不逞鮮人襲来せりと誤報を伝えたりしも、警察署に於てこれを保護し、また大磯署より鮮人保護の目的を以て伝逓押送し来りたるありてこれを松田署に押送するや、不逞鮮人逮捕と早合点するものさえ顕わるるに至りたる矢先き松田方面より函嶺に向いたる避難通行者によりて、午後三時足柄村多古付近の井戸に毒薬を投たし(ママ)るが如き、流言蛮語伝わり取り調べたるも、鮮人の出没毒薬投入の形跡なく、これが事実の周知に努めつつありしに午後一一時頃に至り、酒匂川畔に鮮人約五〇〇名来襲せりとの誤説伝わりまたまた居住民は武器、兇器を持してこれに対抗せんとしたるも、当署に於てはさきに配置したる巡査との連絡を採りつつありし故に、これが虚報なるを説きて人心の安定を計りたるため、何ら殺傷事件の発生を見ざりしが、流言蜚語はかくして京浜方面より東海道筋を漸次西方に伝播せり、同署管内に於ては九月三日午前五時頃京浜方面よりの避難民により宣伝されて箱根、湯河原方面に流布せられ、いずれも殺気立ちたるに際し土肥村に於ては多数鮮人土工の居住者多きより、居住者もまた神経過敏となりたるに、九月四日午後六時たまたま鮮人土工と日本人土工の喧嘩より鮮人の暴行と誤認し、遂に五人を殺傷するに至りたる状況にして、九月三日より五日に至る短期間なりといえども、部内一般都民はこれがため恐威を感じ婦女子の夜間通行者なきのみならず灯火を得るに困難なるものありしと、鮮人の襲来を恐れて灯火を滅するなど、当時の人心は恟々たりしも六日に至りこれら鮮人騒ぎもようやくその声を絶つに至れり。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿