2023年10月15日日曜日

〈100年前の世界094〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;江東区/亀戸、亀戸警察署、深川〉 「私は86名の朝鮮人を銃と刀で射殺したり斬殺したりするのをまのあたりにみた。9月2日の夜から3日の朝にかけて、亀井戸警察署の練武場に収容されていた朝鮮人は三百余名にのぼっていたが、この日午後1時には騎兵一個中隊が来て同警察を監視しはじめた。そのときから田村という男が指揮をとるようになったのだが、軍人たちは練武場へ入って来たかと思うと3名を呼び出し、練武場入口でかれらを銃殺してしまった。このとき指揮者は、銃声がきこえると附近の人に恐怖感を与えるから、銃の代りに刀で殺せと命令した。」  

 

関東大震災で火災に見舞われた東京・銀座

〈100年前の世界093〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;江東区〉 大島事件 「目下東京地方にある支那人は約4500名にして、内2千名は労働者なるところ、9月3日大島7丁目に於て、鮮人放火嫌疑に関連して支那人及び朝鮮人300名乃至400名3回にわたり、銃殺または撲殺せられたり。」 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;江東区/亀戸〉

関憲祐

〔3日、亀戸駅で〕駅構内は乗車する避難民で大混雑、乗車もままならない。憲祐〔父〕は警備の憲兵に頼みこんで、やっと乗車することができた。

その時に目撃したのは憲兵が、朝鮮人を射殺する光景だった。紺色の服を着た男が、機関車の下に隠れていたが発見された。男はエイ〔母〕のそばを走り抜け逃げたが、銃声と同時に倒れた。網膜に焼きついた男の姿は忘れることがない。

(関幸造『描かれた絆 - 昭和の女の一生』光陽出版社、1992年)


司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

①2日午後10時、吾嬬町亀戸275番地で、田中金義外1名が、朝鮮人1名を棍棒又は割木で乱打し殺害した。

②3日午後2時、亀戸町大字柳島405で、小川勝太郎外1名が、曹昌純(チョジャンスン)外l名に日本刀で斬り付け重傷を負わせた。

③3日午後3時、亀戸町神町巡査派出所付近で河野市太郎が閔春容(ミンチュニョン)を棍棒で頭部その他に乱打し殺害した。

(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」

9月3日午後4時頃、亀戸駅構内で騎十三機上等兵が朝鮮人1名を刺殺した。

(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)


『国民新聞』(1923年10月21日)

「亀戸を中心に殺害犯人の逮捕」

9月2日午後10時府下亀戸町276番地にて不逞鮮人なりと称し年齢30歳姓不詳の鮮人を殺害した犯人同町亀戸276土工河合金太郎(26)同田中金蔵(37)の所為と判明殺人罪として令状を発し共犯者として米本熊吉外1名は起訴猶予となった。

9月3日午後3時南葛飾郡亀戸遊園地3700地先路地内にて放火をしたという疑いから同所の青年団員の為めに閔春容(30)は殺害され同曹昌純(21)は重傷を負った。犯人は府下隅田村隅田1325土工清水三四郎(28)亀戸町字柳島新地1161職工小川勝太郎(31)同無職後野兵吉(22)同河野市太郎(25)寺島町61人夫請負業鈴木眞貫(31)の5名と判明いずれも収監さる。


〈1100の証言;江東区/亀戸警察署〉

島上善五郎〔労働運動家。当時19歳。深川森下で桜災〕

〔3日〕どこからともなく社会主義者と朝鮮人が山の手方面で暴動を起こしている、との無気味な流言が流れてきました。ほどなく亀戸署の特高刑事がやって来て、石毛〔留吉〕君を連行していきました。石毛君は亀戸警察に3晩ほどとめられ、顔の相が変わるほど殴られて帰されてきました。純労働者組合の平沢計七、南葛労働会の川合義虎ら9人の青年は、夕闇をつんざく悲鳴を残して殺されました。両手の掌を銃剣で突き刺され、危ないところを少年であったために助けられた若い労働者もいたそうです。

労技会〔向島・隅田にあった日本車輛の労働組合〕幹部の塚本君は、自警団に追い回され、白鬚橋上で槍で刺され、苦しまぎれに隅田川に飛び込んだところを、船に乗って迫ってきた自警団の一員に刺殺されました。

(関東大震災を記録する全編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)


崔承萬(チェスンマン)〔独立運動家、教育家、済州島知事(1951~53)。当時東京朝鮮基督教青年会館総務〕

亀井戸署で働いていた羅丸山(ナファンサン)氏の目撃談を紹介する。

私は86名の朝鮮人を銃と刀で射殺したり斬殺したりするのをまのあたりにみた。9月2日の夜から3日の朝にかけて、亀井戸警察署の練武場に収容されていた朝鮮人は三百余名にのぼっていたが、この日午後1時には騎兵一個中隊が来て同警察を監視しはじめた。そのときから田村という男が指揮をとるようになったのだが、軍人たちは練武場へ入って来たかと思うと3名を呼び出し、練武場入口でかれらを銃殺してしまった。このとき指揮者は、銃声がきこえると附近の人に恐怖感を与えるから、銃の代りに刀で殺せと命令した。そこで軍人たちはいっせいに刀を抜いて83名を一時に殺したが、そのなかには妊娠中の婦人もいて、腹を斬ったところ胎児が出て来たが、その泣き声に、胎児まで刺し殺してしまった。殺された屍体は翌暁2時にトラックでどこかへ運ばれて行ったがその他の人もどうなったか知る由もない」といっている。殺害された者の原籍と姓名は数名を除いてはわかっていない。

朴庚得(24)京畿道開城郡長瑞面九下里

金在根(44)全南順昌郡豊山面年昇里

趙妙城(妊娠中の女性)済州島大静面仁城里

趙正洙 右同

趙正夏 右岡

(「関東大震災の思い出」崔承萬著・極熊崔承萬文集出版同志曾編『極熊筆耕』寶晋齋、1970年→『コリア評論』1970年4月~7月号、コリア評論社)"

「騎兵一個中隊が来て同警察を監視しはじめた。そのときから田村という男」は騎兵第13連隊田村少尉のことで、彼はのちにこの亀戸警察署内で「亀戸事件」を起こしている。


〈1100の証言;江東区/深川〉

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕

〔3日、十五銀行〕深川支店の前には鮮人が3人殺されておった。電柱に括り付けられて日本刀で切られておった。それは山下支店長が実際を見て来ての話であった。

(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

つづく

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