大正12(1923)年
9月3日
〈1100の証言;北区〉
木村東介〔美術収集家〕
〔3日〕汽車が徐行のまま赤羽駅を過ぎて荒川土手にさしかかった頃、異様な人込みを見てしまった。それは、14、5歳の朝鮮少年を高手小手にいましめて、土手に引っぱってゆくいきり立つ400~500人の日本人の群集である。たかがたった一人の少年ではないか? それを400~500人の群集が、大捕物でもしたように土手に引きずって行く群集心理。もしこの中に少年を助けようとする勇者がいだとしたら、その人はその場で裏切り者として滅多斬りにされるほど人々の心は興奮し、殺気に燃え立っている。
(木村東介『上野界隈』大西書店、1979年)
中村晃一郎
9月3日に東京へ見に行った。赤羽から十条あたり一面の田圃の畦道の彼方を40~50名の一隊が歩いていた。同乗していた制服の警官が語っているのを聞いた。”あれは朝鮮人を連行している警官の一隊で、赤羽工兵隊へ連行して処刑するらしい。東京、横浜一帯では、井戸へ毒を投込んだから、日本人は皆殺しになるそうだ。だから朝鮮人は皆殺してしまうんだ”。
又、荒川の船橋(渡し)のあたり、赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だと言われたのを覚えている。また、上野駅でトラック一杯の血まみれになった朝鮮人を見た。
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史 - 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会、1974年)
藤沼栄四郎〔社会運動家、南葛労働会創設者〕
私の妻の妹は赤羽で朝鮮人の夫婦者2家族を同居させており、その人たちは何処にも行かず家にいたが、3日ごろ憲兵と制服の巡査が来て連れ出したので、後を見送っていると、赤羽の土堤の上に4人を立たせ、憲兵がドスで4人の首を切り落し川の中へ突き落した。
(『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社)
王子響察署
9月1日午後4時、突如として鮮人放火の流言管内に起り、更に2日以降に至りては、毒薬の撒布・爆弾の投擲・殺人・掠奪等、あらゆる暴行の状態を伝えたり。これに於て民衆の恐怖と激昂とは、やがて自警団の設置となり、彼等は戎(じゆう)・兇器を携えて鮮人の逮捕に没頭し、2日深更までに本署に同行し来れる者百余名に上りしが、3日午前5時頃に及びては、町村の要所に関門を設けて通行人を訊問し、いやしくも挙動不審なる者は、その鮮人と、同胞たるとを問わず、ことごとくこれを本署に拉致し、はなはだしきは制服を着用せる警察官をも誰何するに至れり。
而して署員の戒諭に対して反抗して曰く、「今や警察力は不備の状態に在るを以て、自衛上不逞鮮人の逮捕を為すのみ、然るにこれを咎むるは何ぞや」とて命を用いざるの有様なれば、治安保持の上に於て仮借すべきにあらざるを思い、3日戎・兇器の携帯、交通遮断、流言の流布等を厳禁する旨、各自警団に通告してこれを戒めたりしが、幾もなく警視庁よりもまたこれが通牒に接したり。
然るに名を自警団に仮り、不良の行動に出づるものあり、就中、尾久町方面に於ける土工親分20名の如きは、2日以来南足立郡江北村西新井村の農家14戸より食料品を強奪せるを始め、或は、掠奪・窃盗を為し、或は物資配給所を襲撃し、或は殺人を為す等、純然たる暴徒なりしを以て、翌3日直にこれを検挙すると共に、巡察隊を組織して非違の警戒に努むる中、秋田県人某等の鮮人と誤認せられて、田端自警団員の為に、将に危害を加えられんとするを救助し、府下寺島村の職工某等が六連銃及び槍を携えて、王子町字下十条慂を徘徊中同地の自警団と衝突し、将に大乱闘を惹起せんとせるを鎮撫せり。
曾々9月5日警視庁の命に依り、自警団の徹底的取締を為すや。民衆は却て警察を非難し、戎・兇器の携帯を強要して巳まず、殊に数百名の自警団の如きは、本署に来りて喧騒を極め、不穏の言辞を弄したれども、説諭再三に及びて漸くその意を諒せしが、爾後命に背く者に対しては毫も容赦せず。流言所犯者及び悪自警団の領袖、並に博徒親分数名を検挙せり。
その後鮮人に関する流言の概ね訛伝なるを知るや、「曩日(のうじつ)の流言は、社会主義者の放てるものにして、陰謀の手段に供せんとするなり」と云えるが如き蜚語新に生じ、主義者の身辺また危険なるを認め、更に彼等を検束して保護を加え、又収容せる鮮人に対しては、或は就職の途を講じ、或は身元引請人に交付する等、その意を安んずるに努めたり。
(『大正大震災誌』警視庁、1925年)
『下野新聞』(1923年9月7日)
「帰来した青年団 情況報告」 (本県青年団活動報告)
(第一班)〔略〕3日午前2時岩淵に到着夜営した。然るに同地に鮮人が既に侵入し暴動起り、軍隊の活動で20余名を捕縛、現行犯2名を銃殺し尚数名の潜伏の模様ありしを以て一同厳重に警戒し徹宵した。
当時東京は一面紅空を呈し、時々銃声や爆発の音がドンと聞え物凄く、午前5時一同出発徒歩で赤羽王子間にさしかかるや警備の軍隊より宣告があった、「王子から東京は鮮人盛んに暴行を働きつつあり。もし鮮人を発見した時はぶち殺せ」と命じた。尚「井戸の水に毒薬投入されあるから一切飲むな」と命じた。〔略〕牛込下谷当りは青年団抜剣して実弾を打ちつつ警備した。
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