大正12(1923)年
9月4日
〈おん身らは誰を殺したと思ふ 折口信夫が見た日本人の別の貌〉(『9月、東京の路上で』より)
国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ
大正12年の地震の時、九月四日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかを生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくまつてしまつた。歌としては相当な位置にあるものだと思うが、芯にある固いものが、どこまでもこの歌の美しさを不自由ならしめている。」(自歌自註「東京詠物集」)
9月1日、折口は二度日の沖縄旅行を終えて帰る途中の門司港にいた。その後、3日夜に横浜に上陸、4日正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻った。
彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見た。サディスティックな自警団の振る舞いに「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3ヵ月や半年、元通りにならなかった」。
この夕方、彼は増上寺門前で自警団に取り囲まれた。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。
このショックは従来の「滑らかを拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈超空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。
夜になった-。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう
かはゆい子どもが-
大道で、ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音-。
不逞帰順民の死骸の-。(*1)
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名にかいて-。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんぎあい
あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。
あのとき殺されたのは、誰だったのだろうか。何だったのだろうか。
折口信夫『砂けぶり』には、「一」と「二」がある
砂けぶり 一
夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう
かはゆい子どもが―
大道で ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音―。
不逞帰順民の死骸の―。
おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名において―。
おそろしい呪文だ。
陛下万歳 ばあんざあい
砂けぶり 二
焼け原に 芽を出した
ごふつくばりの力芝め
だが きさまが憎めない
たつた 一かたまりの 青々した草だもの
両国の上で、水の色を見よう。
せめてものやすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ
水死の女の印象
黒くちゞかんだ藤の葉
よごれ朽つて静かな髪の毛
―あゝ そこにも こゝにも
横浜からあるいて来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい気がします
深川だ。
あゝ まつさをな空だ―。
野菜でも作らう。
この青天井のするどさ。
夜になつた―。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で金棒ひいて
夜警に出掛けようか
井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめだらう
かはゆい子どもが―
大道で しばつて居たつけ―。
あの音―。
帰順民のむくろの―。(*2)
命をもつて目賭した
一瞬の芸術
苦痛に陶酔した
涅槃の大恐怖
おん身らは誰をころしたと思ふ。
かの尊い御名において―。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい
我らの死は、
涅槃を無視する―。
擾乱の歓喜と
飽満する痛苦と
・(*1)(*2);初出と決定稿の違い
・「砂けぶり」を対象にしてその意義と限界を研究した論考があるが(↓)、読み切れていない。
永井真平『折口信夫の「朝鮮人」表象――朝鮮人になって了ひたい様な気がします』
つづく
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