2023年10月30日月曜日

〈100年前の世界109〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(1) 二村一夫『亀戸事件小論』 1.自由法曹団の調書 2.警察発表と政府の答弁書 3.警察発表の検討 (1)検束の理由   

 

亀戸事件の報道

〈100年前の世界108〉大正12(1923)年9月4日 折口信夫が見た朝鮮人虐殺(横浜から谷中まで歩き、途中増上寺山門では自警団に取り囲まれる。 〈おん身らは誰を殺したと思ふ 折口信夫が見た日本人の別の貌〉(『9月、東京の路上で』より) より続く

大正12(1923)年

9月4日

・【亀戸事件】

南葛労働会の川合義虎(1902~23)・平沢計七(1889~1923)ら10人の労働運動家、亀戸警察署で軍隊(習志野騎兵第13連隊員)に虐殺。ほかに自警団4人と多くの朝鮮人が殺害される。9月末、布施辰治・春日庄次郎(出版産業従業員組合)ら10数人と荒川放水路土手を掘返して死体を捜す。10月10日新聞発表。

3日夜、南葛労働会本部となっている川合義虎の家から、川合と居合わせた労働者山岸実司・鈴木直一・近藤広造・加藤高寿・北島吉蔵が検束され、同会の吉村光治・佐藤欣治、純労働者組合平沢計七が亀戸署に引き立てられる。夜~翌日、亀戸署では多数の朝鮮人が殺害されるが、彼等も、拘留されている自警団員らと共に斬殺。亀戸署は家族に対し、釈放したと欺き事件を隠し続ける。


「東京亀戸署が×余名を×殺した事実遂に暴露して発表さる」

「大震災の起った際、東京亀戸署に多数労働者殺戮の惨事が強行されたが、絶対に秘密を守ると同時に、警視庁は内務省警保局と打ち合はせ、一切掲載の禁止を命じて許さなかったところ、証拠として消すべからざる事実に対し、秘密は到底保たれ得ペくもあらず、遂に十日警視庁はその事実を発表せざるを得ざるに至った」(「大阪毎日新聞」10月11日)

南葛労働組合の属する総同盟と自由法曹団弁護士たちが事件を究明。検束された夜の亀戸署は静かで暴動の起る気配もなかったこと、平沢らは連行され、裸体にされ激しい暴行の上、刺され首まで斬られる。


二村一夫『亀戸事件小論』より要旨

1.自由法曹団の調書

9月3日夜、犠牲者たちが検束された直後から、彼等の家族や南葛労働会の同志たちは事件の真相追求に動いた。また、山崎今朝弥、布施辰治ら自由法曹団の弁護士、総同盟や造機船工労組合などの労働組合もこの活動に加わり、事件の真相究明とその責任を追求した。布施辰治、山崎今朝弥らは、各方面から情報を蒐集して虐殺の事実をつきとめ、亀戸署、警視庁、検察当局、憲兵隊に乗り込んで、事件の公開と司法権の発動を要求した。

 1923年10月10日、事件発生後1ヵ月以上たって、警視庁は亀戸署内で10人の労働運動者と4人の自警団員が殺された事実を認めた。同日、労働総同盟は正式に自由法曹団に対し事件の調査と証拠の蒐集を依頼した。犠牲者遺族も南葛労働会を通じて自由法曹団に事件を依頼した。自由法曹団の弁護士たち、山崎今朝弥、布施辰治をはじめ松谷与二郎、黒田寿男、三輪寿壮、細野三千雄、片山哲、宮島次郎、東海林民蔵、牧野充安、田坂貞雄、吉田三市郎、和光米房、沢田清兵衛、藤田玖平、飯塚友一郎らは分担して、家族や友人から犠牲者の震災後の動静、検束当時の状況などについて聞き、聴取書を作成した(『亀戸労働者殺害事件調書』)。

 この調書は、鈴木文治が「亀戸事件の真相」(『改造』1923年11月号)で、また森戸辰男が「震災と社会思想と反動勢力」(『我等』第6巻第1号、のち森戸辰男『思想と闘争』に収録)で用い、金子洋文がこれを抜粋し、「亀戸の殉難者を哀悼するために」との副題をつけ、1924年1月、種蒔き社から『種蒔き雑記』が出版した。

2.警察発表と政府の答弁書

 大正12年10月11日付の各新聞は、前日の亀戸事件に関する警察発表を大きく報道した。東京朝日、東京日日、報知、時事、大阪毎日の各紙が亀戸警察署長古森繁高、警視庁官房主事正力松太郎らの談話として報ずるところを見ると、細部ではかなりのくいちがいがあるが、ほぼ一致している点は下記。

①9月4日夜、亀戸警察署内で、木村丈四郎、岩本久米雄、鈴木金之助、秋山藤四郎の4名は、田村春吉少尉のひきいる騎兵第13聯隊の兵士によって刺殺された。彼らは、いずれも南葛飾郡砂町久左衛門町の住民で、4日早朝、自警団として立番中に制服の巡査に暴行を加えたため逮捕されていた。殺された理由は、留置場内で騒ぎ立てて警官の手におえず、来援の軍隊が留置場外につれだして制止しようとしたところ、傍にあった薪をふるって反抗したためとされている。

②その後、9月4日深夜から5日早朝にかけて平沢計七、川合義虎、山岸実司、北島吉蔵、鈴木直一、近藤広造、加藤高寿、吉村光治、佐藤欣治、中筋宇八の10名の労働運動者は、亀戸署の演武場横の広場で習志野騎兵第13聯隊の兵士によって殺害された。彼らは、震災後おれ達の世がきたと革命歌をうたい、「朝鮮人が毒薬を井戸に入れた」など流言を放っていると附近の者が密告してきたため3日夜検束された。彼等は留置場内でも革命歌をうたい、多数の留置人を煽動して手がつけられないので、軍隊に制止方を依頼したところ、更に反抗したため殺された。

③死体は附近の空地に運び出し、他の多数の死体とともに石油をかけて焼いた。家族からの問い合わせには「既に釈放した」と答えさせた。

④軍隊の処置は衛戌勤務令第12によつた適法のものであると認めた。

 なお、年末に開かれた第47帝国議会において、衆議院議員横山勝太郎は亀戸事件について質問書を提出し、12月20日、内務大臣後藤新平、陸軍大臣田中義一の連名で答弁書が発表された。

衆議院議員横山勝太郎君提出労働者刺殺ニ関スル質問ニ対スル答辯書

一、大正十二年九月三日亀戸警察署ニ於テ労働者平沢計七等九人ヲ検束シタルハ震火災ニ依ル人心動揺ノ際或ハ革命歌ヲ高唱シ或ハ流言蜚語ヲ放ツ等当時ノ状況ニ徴シ頗ル不穏ノ言動アリシヲ以テ公安保持上其ノ必要アリト認メタルニ因ル

二、右被検束者ハ検束後ト雖モ盛ニ革命歌ヲ高唱シ喧騒ヲ極メ警察官ノ命ニ服セサルノミナラス他ノ検束者ヲ煽動シ警察官ノミニテハ到底其ノ警護ヲ完ウシ能ハサリシヲ以テ当該警察署長ヨリ同付近ニアリタル警備隊ニ其ノ応援ヲ求メタリ依テ該部隊ハ直ニ之ニ赴キ警察官ト共ニ平沢計七外八名ノ者ヲ監房外ニ離隔シタルモ彼等ハ尚鎮静セス甚シク抵抗シ暴挙遂ニ同署内ニ収容セル約七百六十名ノ収容者ニ波及セムトシ事態頗ル重大ナルヲ認メ兵器ヲ用ウルニアラサレハ到底拾収シ能ハサルニ到リタルヲ以テ当該部隊指揮官ハ衛戌勤務令第十二ニ基キ部下ヲシテ彼等ヲ刺殺セシメタリ

三、右被害者ノ屍体ヲ直ニ遺族ニ引渡スニ於テハ一般人心ノ動揺ヲ惹起スル虞アリシヲ以テ治安維持ノ必要上之ヲ遺族ニ通スルコト能ハス而シテ屍体ハ腐敗ニ傾ケル為メ亀戸警察署ハ行旅死亡人取扱ノ例ニ依リ之ヲ吾嬬役場ニ引渡シタルニ同町役場ハ之ヲ火葬ニ付シタリ

四、前記ノ事実ヲ大正十二年十月十日迄公表セサリシハ当時人心尚安定セス治安維持ノ必要上未タ其ノ時期ニアラスト認メタルニ因ル

 右答辯候也(『官報号外』大正十二年十二月二十一日──第四十七帝国議会衆議院議事速記録第七号)


3.警察発表の検討

(1)検束の理由

 政府の答弁書では、検束理由は「革命歌ヲ高唱シ或ハ流言蜚語ヲ放ツ等当時ノ状況ニ徴シ頗ル不穏ノ言動アリシヲ以テ公安保持上其ノ必要アリト認メタルニ因ル」となっている。10月10日の古森亀戸署長談として各紙が伝えたところもまた革命歌であり、流言輩語である。しかし、警察は平沢らが革命歌をうたったり、流言を放つていることを直接確認していない。

 「附近のものが密告してきたのでおどろいて引っ張って来た」(東京日日)のであり、「頗りに流言蜚語を放ち住民を煽動したため益々町民の激昂を買ひ亀戸署に1日以来の彼等の行動を訴へ取締方を願出たので、…検束した」(報知)のである。

 「附近の住民」とか「町民」といってその氏名を明らかにしていないのは、密告の性質上当然かも知れないが、警察の主張の信頼性を弱めている。また、「附近の住民」が、「鮮人が井戸に毒を入れた」「鮮人が押寄せる」と平沢らが云っているのを「流言蜚語を放つもの」として激昂して取締方を願出たと云うのもはなはだ奇妙である。9月3日の時点では、少くとも一般民衆にとって「鮮人襲来」は決して流言蜚語ではなく事実だと考えられていた。

 これに対し、自由法曹団の聴取書で家族や友人が犠牲者の検束までの行動について証言しているところは、きわめて具体的でリアリティーがある。彼らに「不穏の行動」などまったくなかった。なお、古森亀戸署長が、家族に対しては検束は保護検束であった」と新聞報道とは異った弁明をしている事実も注意する必要がある。(南喜一聴取書)


つづく

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