2024年6月1日土曜日

大杉栄とその時代年表(148) 1895(明治28)年5月1日~4日 変法運動展開 生活費の工面に苦心する一葉 孤蝶に慕われる一葉 子規、金州で鴎外を訪問 遼東半島全面放棄決定 

 

「占領壌地ヲ還付シ東洋ノ平和ヲ鞏固ニス」(国立公文書館)

大杉栄とその時代年表(147) 1895(明治28)年4月23日~30日 三国干渉 「三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては一歩も譲らざるべし」(陸奥「蹇々録」) 「敷嶋のやまとますらをにえにして いくらかえたるもろこしの原」(一葉) より続く

1895(明治28)年

5月

大院君の孫・李埈鎔(25)、親日派金鶴羽殺害事件首謀者として逮捕。証拠ないまま特別法廷で死刑宣告。大院君の歎願に対し、金弘集・金允植・金魚中は死刑に抗議、朴泳孝は死刑支持。結局配流10年となる。先に逮捕された人々は死刑・終身刑・15年など。大院君派は崩壊。閔妃、井上公使、朴泳孝、星亨(政府顧問官)が絡んだ陰謀。

5月

川上音二郎一座、歌舞伎座進出。

5月

広津柳浪「黒蜥蜴」

5月

一葉、この頃から和歌を教える。

西村の家に寄宿していた穴沢清次郎、野々宮菊子が一葉の生計の為と考えて誘った安井哲子ら女性たち数人、大橋乙羽の妻とき(5月末から)などが通って来る。

安井哲子(一葉の2歳年上、東京師範学校付属小学校に在職、大正12年より東京女子大学学長)の回想。

「私は、なんとなくその住宅の附近の空気が不愉快でしたが、しかし、お目にかかってみると、一葉さんの家族はみな上品で真面目なのに好感が持てました。そして、一週一回、妹さんと野々宮さんと私との三人で、一しょに『源氏物語』の講義を聞き、和歌を詠むのを楽しむやうになりました。惜しいことに、間もなく私がイギリス留学の内命をうけましたので、稽古を中止しましたが、そのために、一葉さんと親しく語る機会を永久に失ってしまひました。」(「教壇の半生」『婦人公論』昭和16・11)

5月

マックス・ウェーバー、教授就任講演「国民国家と経済政策」。同名で公刊。 

5月1日

変法運動展開

科挙受験者のうち康有為ら600名余、「公車上書」(拒和、遷都、変法)。学会組織、学校建設、新聞・雑誌発行、新思想紹介、纏足廃止。

公車:挙人が上京して試験に応じること。

朝野で講和反対の声上がる。

①南洋大臣張之洞(洋務派)は新彊の幾つかをロシアに与え、チベットの一部をイギリスに譲り、両国と日本を戦わせよ。

②この年は3年に1度の会試(科挙の上級試験)の年で多くの挙人が北京に集合。広東の梁啓超ら81人が上書。

広東の康有為(既に学識者として有名)、「皇帝に上る書」に1300人が賛同(妨害により署名は600)。皇帝が自ら罰する詔を下す。売国奴的文官・将軍の処刑。下関条約破棄。遷都しても再戦。清朝は受取り拒否。

但し、上書に署名した挙人にお咎めなく、康有為は試験に合格、進士となる。康・梁は明治維新に倣って清国の近代化を主張、光緒帝はこれを重用(1998年6月11日「戊戌の変法」(百日維新))。

5月1日

慶応義塾、朝鮮人留学生14人、集団で入塾。

5月1日

一葉、久佐賀義孝に無心の手紙。久佐賀は京都へ旅行中で、月末か翌月にならないと帰宅しないだろうとのことで、借金を諦める。(但し、久佐賀からの手紙には、「兼て御依頼之金件は今度丈けは脇方に御繰り替へ被下度委細は追て帰宅之上夫々御面談申上候也」とあり、これまで一度ならず金を融通していたことが示唆されている)

村上浪六のところへも何度となく手紙を送っているが、返信は絶え、何の連絡もない。30円や50円といった金すら貸し渋られる。栄耀栄華の遊びをしたがっているのでも、着物や食事の贅沢を望んでいるのではない。母と妹を養いたいがために、ただ少しの援助を乞うているだけである。できない人にできないことをお願いしているのではなく、頼んで、相手が引き受けたからこそ頼りにしているのだ。頼まれた後に何もせずに過ごすというのは、誰の罪か、と思う。

「(*村上)浪六のもとへも、何となくふみいひやり置しに、絶て音づれもなし。誰れもたれもいひがひなき人々かな。三十金、五十金のはしたなるに、夫すらをしみて出し難しとや。さらば明らかにととのへがたしといひたるぞよき。ゑせ男を作りて、髭かきなぜなど、あはれ見にくしや。」

5月1日

高野房太郎乗船マチアス号、芝罘に寄港。以後中国の各港をまわる

5月2日

一葉の日記より

「二日、早朝書あり。安達の妻より、かねてのかり金催促の趣き。五円斗のなれども、いまは手もとに一銭もなし。難きを如何にせん。其よしいひて、今しばしの日延をと、母君にたのむ。午後帰宅。故なく済みつるよし。かしこにては今年あらたに新室を作りて、それが壁額を我れにしたためもらひたしとて、ひながたよこす。うき世はつねなし。つねは我身貧にしてかれとめるから、無心合力など恐ろしうて、え近づかせじとふるまふを、さるおのれらに我が常住の室の壁上にかかぐる額、書かせんとするよ。さまざまなるかなと打ほほゑまれぬ。」 

午後、野々宮きく子と安井哲子(のち東京女子大学学長)が、和歌と源氏物語の講義を受けに来る。野々官は親切で悪気のない女性ではあるが、かつて鶴田たみ子を妊ましたのは桃水だと吹きこんだこともある。この日は孤蝶のことを話す。

「野々宮は例のあざれ出して、此ほど廊下にてすれ違ひたる馬場ぬしの事を評す。容貌は如何成しかよく見ず。人物のあたへはある人なりといふ。遠慮なき評をかの人に加へば、これより多望の時ならずは失望の時来たらんことうたがふべからず。・・・君にしてかの人の妻たる事をうべなひ給はば、かの人は幸福の人也。君にしてこれをしりぞけ給はんか、かの人は大失望のさま目にみゆるやう也とかたる。そは又ようゐならぬ事よと笑ふに、一座こぞりて笑ふ。

二人(野々宮菊子、安井哲子)は日没近くに帰る。

夜、母と妹邦子は伊勢屋に行き、4円50銭を借りる。早くに就寝。

5月2日

英、南アフリカ会社占領のザンベジ川南方地域、「ローデシア」命名。

5月3日

西駐露公使、ロシアが勧告部分受け入れに満足していないと報告。陸奥外相は、戦争をするほどの覚悟がなくてこれ以上の折衝は無益であること、清国が批准延期を言い出し、このまま続くと「虻も蜂も捕捉しえざるの愚を招く」と結論。

5月3日

一葉、午前から田中みの子の月次会に行く。日没前に帰宅すると、留守の間に孤蝶が来たという。ひどくがっかりして帰ったとのことで、気の毒に思う。

この日の一葉の日記に初めて秋骨の名前の出てくる。「さりし日、孤蝶の君と秋骨ぬしと二人して来る・・・」。その後10回ほどその名が出てくる。一葉日記に名前の記されている回数は、星野天知や、馬場孤蝶(2ヶ月に20回以上来訪)よりは少ない。

「さりし日孤蝶の君と秋骨ぬしとふたりして来る。秋骨少しほほゑみながら、孤蝶君の君に参らせ(*上げたい)度(たき)ものあるよしにさむろふ。うけさせ給ひなんやといふに、そは何をと問ば、何にもあらずと孤蝶子打けす。しばし物語るほどに、過る日、社中打ちつどひて写真うつしたるよしに聞きけるを、一度は見せ給へなどいひ出るに、そは事なし、いざ出し給へと秋骨そそのかせば、孤蝶子笑ひてふところをさぐる。半身像の写真也。例には似ず、あら縞のねんねこといふ物をきてそりかへりたるさま、何やらの親方おぼえてをかし。いとよくうつりたる事とたたゆれば、孤妹子満足におぼすべしと、秋骨かへりみる。」

「源氏物語」のことなど論じていると、〈世間に好き者の他人といってあちらこちらに好色に過ごすかの君をして、余裕がないことを打ち嘆くおかしさよ〉と秋骨がわらう。すると孤蝶は〈恋する身ほど余裕のないものはない〉という。今年73歳になる孤蝶の父馬場来八が、一葉のためにといって筆筒に葦と蟹を彫ったものをくれ、孤蝶がお返しに歌をとなだる。秋骨は、孤蝶が一葉を思うのは一朝一夕のことではないという。挨拶に困って、それはほんとうに有難いことですと答えたが、孤蝶は言葉に窮した。出かけた時は一日も欠かさず手紙を寄越し、野辺の花を摘んで送ってくるのは嬉しいけれども、心苦しい。人には言えないような秘め事を洩らさず語る鬨などはいよいよ哀れ深い。〈あなたをただ姉上のように思います〉などと言い、訪問が五日と空いたことがない。はたしてこの思いはどれだけ続くのだろうか。夏が去って秋が来るのを待つまいと思えば、流れる水が乗せて去ってゆく落花にも似ている。

*孤蝶は一葉よりも3歳年上。

*日記に記録のあるものだけでも、明治28年4月17日~6月16日の61日間に23回来訪。

5月4日

米英露独4国公使、外部(外務省)に公文書を送り、鉄道利権を日本のみに与えるのは、朝鮮・各国商民に不利益だと警告。

5月4日

子規(28歳)、金州で森鴎外(33歳、軍医監=大佐相当官)を訪問。


「正岡常規来り訪ふ俳諧の事を談ず」(鴎外「徂征日記」5月4日)

「和親成れりと云ふ報に接す子規来り別る几菫等の歌仙一巻を手写して我に贈る」(同10日)


翌年の子規「松蘿玉液」では、

「○鴎外漁史 一言を発すれば衆口斎に之れを攻撃す 是れあながちに其説の誤れるを駁するといふにはあらで只鴎外は生意気なりやつゝけろやつゝけろといふが如き観無きにあらず。吾無学にして其説の可否を判ずるに苦むと雖もしかも其無学なる吾等にさへ筋も理屈もなき攻撃と思はるゝもの少からず。吾今迄は鴎外を左程えらい者とも知らざりしを庇鋒(へつぽこ)文学者は己の無能をあらはさじとて却て鴎外の名を成したり。あら笑止。」


鴎外は、子規から俳句や連句について話を聞かされ、大いに刺激されたのか、友人で軍医の神保濤太郎と歌仙(連句)を巻いている。鴎外が従軍中に書きつづった「徂征日記」には、このとき二人が詠んだ連句三十六旬が書き写されていて、鴎外は発句で、「生面の人も親しき春日哉」と詠んでいる。「生面」は「初対面」を意味するので、子規はこの時初めて鴎外に会ったと思われる。

5月4日

閣議、3国の勧告を呑み、遼東半島全面放棄決定。

10日、還付に関する詔勅。軍の動揺を恐れる。

「明治二十八年四月二十九日、露京発西公使の別電にも、露国の底意は、一旦日本が遼東半島に於て良軍港を領有すれば、その勢力同半島内に局限せずして、将来遂に朝鮮全国並びに満州北部豊穰の地方をも併合し、海に陸に露国の領土を危くすべしとの鬼胎を懐き居る模様ありと云ひ来りたることあれば、露国政府は猜眼以て我国を視、その憶測頗る過大に失するが如くなれども、兎も角もその内心の日本をして清国大陸に於て寸土尺壌たりとも侵略せしめざるに在るは、炳然火を□るが如し。これ以上は我に於て砲火以てその曲直を決するの覚悟なくして徒に樽爼の間に折衝するは頗る無益の事に属し、かつ、この頃清国は既に三国干渉の事を口実とし、批准交換の期限を延引せむことを提議し来れり。而して清国がこの提議を為せしは、全く露国の教唆に出でたることは頗る信拠すべき事実あり。かかる形勢を何時までも継続するときは、茲に外交上両個未定の問題を錯雑せしめ、遂に所謂虻も蜂も捕捉し得ざるの愚を招くの虞あり。余は、最早当初の廟議に基づき、露・独・仏三国に対しては全然譲歩するも、清国に対しては一歩も譲らずとの趣意を実行するの時機なりと断定し、五月四日を以て余が京都の旅寓に於て当時滞京の閣僚及大本営の重臣を会合し(この日来会者は伊藤総理の外、松方大蔵大臣、西郷海軍大臣、野村内務大臣、樺山海軍軍令部長なりし)今は三国の勧告は全然これを聴容し、先ず外交上一方の葛藤を割断し、他の一方に於ける批准交換の毫も猶予せずしてこれを断行せしむるの得策たるべきことを縷陳し・・・」(「蹇々録」)。

5月4日

一葉、萩の舎稽古。田中みの子が遅くなるというので、代わりに早朝に行く。昼少し前にみの子が来る。堤よし子の紹介で波多野初枝が入門。午後早々にみの子が帰る。「古今集」の講義を一人で行う。塾生が帰る頃、中島歌子は頭痛のため床に就く。夜、孤蝶と禿木が来訪。雨が降り出したので、禿木に傘を貸す。


つづく


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