2025年7月4日金曜日

大杉栄とその時代年表(545) 1904(明治37)年11月21日~26日 第3回旅順総攻撃 1日目(11月26日) 攻撃目標;松樹山、二龍山、東鶏冠山 午前8時、砲撃開始。午後1時、総攻撃。正面攻撃失敗。決死隊「白襷隊」3千余進撃。大半死傷。

 

白襷隊

大杉栄とその時代年表(544) 1904(明治37)年11月15日~20日 『平民新聞』第52号事件(「小学教師に告ぐ」)公判 1審判決 『平民新聞』発禁 幸徳・西川禁固5ヶ月 罰金50円 別に西川禁固2ヶ月 控訴 / 社会主義協会、結社禁止 より続く

1904(明治37)年

11月21日

大山総司令官、第3軍に旅順港内を眺望できる高地(203高地)一帯への攻撃・占領厳命。

11月21日

米、労働連盟大会、日本人・韓国人労働者排斥決議。

11月22日

第3軍司令部乃木大将に旅順攻撃、激励、勅語下命。山県参謀長より漢詩が送られる。

11月22日

幸徳秋水(33)、横浜伊勢佐木町の相生座での社会主義演説会で「家庭と社会主義」を講演。

11月22日

乃木大将、11月26日総攻撃下命。

11月23日

非常特別税(織物消費税・塩専売・米籾輸入税)反対運動

無所属代議士田口卯吉(「東京経済雑誌」社長)・島田三郎(「毎日新聞」社長)の呼掛けで、この日、全国各市選出代議士(総数73中42人が参加)が協議。連日、政府、政友・憲本両党に訴え。

主力の無所属議員17人は「有志会」を組織。第21議会では、板倉中・大縄久雄・浅野陽吉が反対討論を行う(第20議会では増税反対を唱える者なし)。

戦後の悪税反対運動の発端となる。また、この過程で講和反対運動に中小商工業者が参画するベースができる。

11月23日

独露間の同盟交渉(7月28日~)、露が仏の同意を条件としたため失敗。

11月24日

阪鶴鉄道、舞鶴~宮津間航路、定期運行開始。

11月24日

(漱石)

「十一月二十四日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

若月保治(紫蘭)(明治三十六年七月、東京市図太学文科大学英文学科卒)の就職の件で松本を通じ、八田へ依頼する。後に、石川県加賀小松中学校に就職する。」(荒正人、前掲書)

11月24日

ロシア・バルチック艦隊独立支隊、スエズ運河入口ポートサイド着。石炭積込制限受ける。

11月25日

特別支隊(「白襷隊」)編成。第1師団第2旅団長中村覚少将。3105名。

11月25日

石川三四郎・斉藤兼次郎、「平民新聞」発禁を予期して予め後図を策し、「日本平民新聞」発行届出、警視庁受理拒否。

12月1日、同氏ら、学術雑誌「平和」発行届出。警視庁受理拒否。

翌明治38年1月18日、「曙新聞」、発行届出。再々度差し戻し。

11月25日

英字新聞『神戸クロニクル』社説、11月20日付『平民新聞』英文欄を引用して政府の弾圧を非難。

(大要)

「『平民新聞』の英文欄記者は、吾人は政府の鎮圧手段のために少しも損害をうける者ではない、なぜなら社会主義者は迫害に会うごとに前進するからであると書いた。新聞発行禁止の命をうけ経営者の二人は五カ月の禁錮を宣告された今日と雖も、彼等の意見は決して変ぜぬであろう。政府が社会党を鎮圧せんとするのは、その社会組織の意見のためよりも寧ろ彼等が現時の戦争を非難するためである。しかし政府の弾圧政策はよく戦争に対する非難を防遏し得るだろうか。戦争がますます進行して人民の犠牲が一層増大するに至れば、戦争熱は冷却して却って政府に対する不平と憤怒が生ずる。実際、誰でも地方に旅行して地方人民と話して見ると、開戦当時の熱心が非常に衰え、初めは戦争が数カ月ですむと思っていたのに、旅順陥落の約束がいつも裏切られ、家族または親戚に一人の戦死傷者をも出さざる者なく、不満が甚だしいことを認めずにはいられない。

故にもし政府が禁錮、罰金、新聞の発行禁止を以てかかる感情の発露を防遏しようとすれば、次いで行なわれるものは秘密の手段であろう。そして政府は必ず、思いがけない公憤の強烈な爆発に驚かされるであろう。社会主義に関しては過去五十年間の欧米歴史を一瞥すれば、意見の鎮圧が不得策なのは十分に解るではないか。少数者といえども正理を有す、日本政府が多数一時の感情と調和しないというので少数者の意見を撲滅せんとするのは、政府自身の利害のためにも危険なることを悟らねはならぬ。」

11月25日

「平民新聞」大演説会。神田錦旗館。西川「普通選挙の請願」・堺「新聞紙と紳士閥」・幸徳「ビスマルクの社会党弾圧」、中止。ついで解散命令。

「一千名ばかりの来聴者はたちまち総立ちとなり……叫喚し、拍手し、騒擾恰(あたか)かも鼎(かなえ)の沸くが如かりしも前回の青年会館における程に至らずして鏡静」した。

11月25日

ロシア・バルチック艦隊独立支隊、スエズ運河入り。

11月26日

第3回旅順総攻撃

午前8時、砲撃開始。午後1時、総攻撃。正面攻撃失敗。決死隊「白襷隊」3千余進撃。大半死傷。

〈概況〉

この日、乃木希典大将率いる第3軍は、第3次総攻撃を開始。攻撃開始時点での目標は、旅順東北部の望台一帯の高地を占領することとされていた。このため、第2次総攻撃と同様に、松樹山、二龍山、東鶏冠山といった高地の砲台(海上の艦船を攻撃するために海岸に大砲を設置した台座)や堡塁(陸上の部隊を攻撃するために大砲を設置した台座、または石やコンクリートで固めた陣地)に対する突撃が行われた。

しかし、犠牲は増す一方で攻略が一向に進まなかったため、翌日の11月27日には攻撃目標が変更される。

第1師団(松村務本中将):

第2旅団第2連隊(渡辺祺十郎大佐)(松樹山攻撃隊)。第1大隊(馬場鉾之助少佐)を突撃隊にして、第1・2突撃隊が突撃するが大半が死傷。退却。午後5時30分、第3大隊が第2次突撃、失敗、退却。

第9師団:

二龍山堡塁に向った右翼左の第18旅団(平佐良蔵少将)第36連隊第1大隊(田中貫一少佐)、第1中隊1個小隊を突進させるが、殆どが死傷。田中大隊長は退却下命。

右翼中央の第19連隊(服部直彦中佐)第1大隊が突撃するが死傷者続出。うち第4中隊は十数人が敵塁に突入するが、全滅。

予備隊第2大隊が増派されるが、ロシア側の抵抗強靭で両大隊併せて70に減少。

盤龍山第1砲台に向った左翼の第6旅団(一戸兵衛少将)第7連隊は第2大隊第5中隊・第3大隊第11中隊が突撃し、ほぼ全滅。両大隊より4中隊を増派するも、敵砲台の囲壁に到達する者なし。

盤龍山望台に向った左翼の第6旅団第35連隊(佐藤兼毅中佐)第1大隊(峰田俊少佐)が突撃、第3中隊半数と第4中隊数十人が囲壁に到達するが、やがて全員死傷。峰田少佐負傷。第2大隊2中隊が続くが、過半を失う。第6旅団一戸少将は第35連隊に攻撃中止命令。

午後3時30分、右翼第19・36連隊が攻撃再開。第36連隊第3大隊長原田清次郎少佐戦死。第19連隊長服部中佐負傷。

第11師団(土屋光春中将):

①第22旅団(前田隆礼少将)第43連隊(西山保之大佐)は第1大隊(渡辺小太郎少佐)から突撃隊を選抜し望台東斜面に向う。選抜隊は大半を損失、続く第4中隊一部が囲壁に辿りつく。続く第1・2中隊は到達できず。連隊長西山大佐負傷。

②第10旅団(山中信義少将)第22連隊(青木助次郎大佐)は東鶏冠山北堡塁に向う。正面攻撃の第1大隊4中隊はいずれも死傷。続く第3大隊(佐々木栄次郎少佐)第11中隊は陣地を出て20m地点で全滅。第1大隊長福地守太郎少佐・第2大隊長厚東秀吉大尉戦死、第3大隊長佐々木少佐負傷。

③第10旅団第44連隊(石原大佐)は東鶏冠山第2堡塁に向う。第1大隊3中隊が突撃するが前進中断。

④第22旅団第12連隊(新山良知大佐)は東鶏冠山に向う。第3大隊(志岐守治少佐)は第1~4突撃隊を編成。第1突撃隊第10中隊長代理橋本鹿之助中尉が敵散兵壕に単身突入、中隊および第2突撃隊第9中隊が続き、散兵壕を奪取。ロシア兵は三方から散兵壕に迫る。志岐大隊長・第11中隊長北原信次大尉・第9中隊長村田利行大尉・第12中隊長筑士大尉負傷。午後3時過ぎ、ロシア軍の逆襲。午後4時10分、突撃陣地の確保も危うくなり、散兵壕より退却。第12連隊はほぼ全滅状況(第2大隊:死傷313・残兵137、第3大隊:死傷372・残兵49)。

午後5時、乃木大将、「白襷隊」に松樹山4砲台付近の敵塁占領下命(敵をひきつけ来援を待て)。

午後8時50分、第1師団特別連隊2大隊が突撃、先頭は散兵壕に飛び込む。そこには地雷炸裂と手榴弾「雨注」。次に、第11師団第12連隊第1大隊が続くが散兵壕に至らず、大隊長児玉象一郎少佐ら死傷。

午後9時30分、第25連隊第2大隊が散兵壕に向うが、先発した第35連隊第2大隊が退却してきて、突撃の状況にはない。

11月26日

ロシア・バルチック艦隊、フランス領ガボンのリーブビル港外20カイリの領海外に到着。現地のフランス知事は、同港で載炭せず70カイリ離れたロペス湾での作業を要請。載炭後、12月1日、ガボン発。


つづく

0 件のコメント: