2025年8月7日木曜日

大杉栄とその時代年表(579) 1905(明治38)年5月 小山内薫は「七人」を発行するとともに、「帝国文学」の編纂委員と庶務委員とを兼ねていた。彼は、夏目漱石の原稿を「帝国文学」にもらって載せたが、「七人」にも載せたいと思った。小山内は漱石に「七人」に小説を書くように依頼し、漱石は5月の「七人」に「琴のそら音」という50枚ほどの小説を書いた。

 

小山内薫

大杉栄とその時代年表(578) 1905(明治38)年4月22日~31日 『直言』第12号「婦人号」  木下尚江「醒めよ婦人」(社説)、堺利彦「婦人問題概観」、石川三四郎「独逸軍人の結婚」、英文欄「婦人の状態」、世界之新聞欄「英国婦人選挙権獲得運動の小歴史」、荒畑寒村「東北伝道行商日記」、小田頼造「九州日記」、「如何にして社会主義者となりし乎」など より続く

1905(明治38)年

5月

米の中国人移民制限に対し米貨ボイコット運動が広東・廈門・福州・上海・漢口・天津などの開港場で起こる(~9月)

5月

韓国、憲法研究会結成。

5月

北洋常備軍第五・第六鎮、それぞれ編成、北洋六鎮成る

5月

戦死者3万柱以上が靖国神社に合祀される。

5月

桑木厳翼「イプセンの『ノラ』に就て」(「丁酉倫理会倫理講座講演集」第32)。ノラと良妻賢母主義を重ねる。良妻賢母主義のノラが「精神に自由を与え」られることにより自我を自覚。

5月

小山東助「朝鮮同化論」(「新人」5・6月号)。権力による同化でなく、善政主義による同化を前提とする韓国併合を主張。

5月

漱石(38)、『琴のそら音』(小山内薫の発行する雑誌「七人」)       

夏目漱石『琴のそら音』(青空文庫)

小山内薫は「七人」を発行するとともに、「帝国文学」の編纂委員と庶務委員とを兼ねていた。彼は、夏目漱石の原稿を「帝国文学」にもらって載せたが、「七人」にも載せたいと思った。熊本の第五高等学校で夏目に学んだ縁で、夏目のところによく出入りしていた学生の野村伝四が、「二階の男」という小説を「七人」2月号に載せた。漱石はその「二階の男」を読み、野村に批評を書いた。そこで、小山内は漱石に「七人」に小説を書くように依頼し、漱石は5月の「七人」に「琴のそら音」という50枚ほどの小説を書いた。

この作品は、野村伝四をモデルの一人にしたもの。法学士で近く結婚することとなっている主人公のところへ、友人の文学士で幽霊を研究している男が訪ねて来て、ある出征軍人の妻が病死した時、その幽霊が戦地にいる夫の目に写った、という話をする。主人公は、自分の結婚の相手の女が病気しているのをしきりに気づかっていたが、それは妃憂に終って、当の女性が訪ねて来る、という筋で、現代風の恋愛小説の一種であるが、よい出来ではなかった。

小山内は、「帝国文学」や「七人」に漱石の原稿をもらったが、あまり漱石に接近しなかった。

小山内は漱石の東大での前任ラフカディオハーンの引きとめに努力したためか、漱石の講義には関心を持たなかった。彼の友人の武林磐雄も、漱石の文学論の講義の難解さにあきれて、その講義を聞くのをやめた。

小山内は、文壇の作家たちと親しく交際している点では自分の方が漱石より玄人の文士であるように感じていた。彼は「琴のそら音」をもらったあと、漱石宅へ行ったが、玄関で挨拶しただけで帰った。

漱石もまた小山内があまり文壇を目標として動きすぎるように思われ、気に入らなかった。

この頃漱石は「猫」の一回について15円ぐらい「ホトトギス」から稿料をもらう外、たいていは原稿料なしでものを書いていた。

■雑誌「七人」発行の経緯

ラフカディオハーンの東大引き止め運動がたたってラテン語の試験で落第し、まだ文科大学英文科2年にいた小山内薫(数え24歳)は、明治37年11月、英文科・独文科7人を同人とする同人誌「七人」を出した。

小山内薫は、明治33年頃から内村鑑三の熱心な弟子となり、その「聖書之研究」の編輯を手伝ったり、伝道旅行に歩いたりした。

しかし、伝道旅行を共にした友人の妹と関係して苦しんだが、結局、その女性は許婚と結婚した。この事件は彼の精神を荒廃させ、彼は信仰を棄てた。

明治35年暮、詩人として崇拝していた島崎藤村が「明星」に発表した「藁草履」に感動し、小諸に藤村を訪ねた

また、森鴎外にも近づき、メーテルリンクの「群盲」を訳して鴎外の雑誌「万年艸」に発表してもらい、その縁で俳優伊井蓉峰を知った。伊井は隅田川の中洲の真砂座を常打小屋としていたが、明治37年7月から小山内はドーデエの「サッフォー」やシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」を翻案して提供し、演劇の世界でも一人前に働き、多少の収入を得た。

小山内はまた交際のあった蒲原有明に連れられて、麻布・龍土軒で開かれる独歩や花袋や柳田国男などの会合にも出かけ、次第に文壇人の間に知られるようになっていた。

彼は大学の仲間7人を集め、初めは「七星」という雑誌を出すことにしていたので、明治37年9月、その抱負を書いた手紙を小諸の藤村へ送った。

藤村は、その巻紙の手紙に朱墨で傍書きをして返事とし、そのまま小山内へ送り返した。


「申しわけもなき御無沙汰いたし候。『七星』も愈十一月のはじめを期してうぶ声をあぐる事と相成候につきては、今より『産衣の世話、襁褓の用意』も致さねば成らず(略)殊に初産のわけもなき気づかはしさ御察しよしなに願上候。〔藤村傍書 - 対話として朱書御高覧被下度候。さて小生よりも御同様御無沙汰いたし候。不相変御精励の御旨、何よりと存上候。(略)〕

「われらの雑誌は勿論独立的に所謂外助はなるべくこれを避くるつもりに候へども、ひきかへて内助は極めて必要に候。〔藤村傍書 - なるべく独立にしたきものに候。雑誌事業には、小生も多少の経験あり、今より御苦心のほど思ひやられ候。〕この程も蒲原君のかたい処を見込んで、資金の保管を頼みに参るつもりに候。〔藤村傍書 - この人ならばたしかに候。〕有明君も『七星』の会計係は余りゾッとし給はぬなるべけれど、悪縁と諦め給ふやう説きつけ申すべき所存に候。

「われらの雑誌の内容は、作にもあれ、翻訳にもあれ、詩にあれ、小説にあれ、なるべく人生に触れたるものを集め〔藤村傍書 - 風涛自ら岸に上るとやらにありたし。〕 ヒュウマン、ハアトにアッピールせざる自家の女々しき感慨などは、成るべくこれを排するつりに候。(略)

「われらは成るべく同志七人にて雑誌をつくりあげてゆく所存に候。〔藤村傍書 - この点尤も賛成なり。この気概なくば新しく雑誌を起すの必要なし。〕先日貴兄に願ふ処ありしも、決して無理にもとにはあらず。われらの手引となるべき御言葉のひとつも賜らばと存じ候のみに候。蒲原其他の諸兄へも同様に候。〔藤村傍書 - 少し思ふこともありて差ひかへ申候。初期のうちは殊に七人のみの雑誌を拝見いたし度候。〕 (略)」

そして明治37年11月、小山内薫等は「七星」を「七人」に改めて雑誌を発行した。表紙には若い画家で藤村の崇拝者であった有島壬生馬が七つの能面を描いた。この雑誌は、初めの頁に同人たち7人の名前を載せているだけで、外部の原稿の外、同人の筆になるものはみな無署名であった(同人外では蒲原有明の詩を載せたので、その分だけは署名してあった)。

5月

東京朝日新聞主筆の池辺三山、社会面の改革に乗り出し、まず、右田寅彦が、演劇改良と称して記者仲間の先頭に立って上演した文士劇を問題にする。その観客に芸妓などもまじっていたのは「少々物好きすぎはしないか」と。


「三山が攻撃した右田の文士劇とは、つざのようなものであった。明治三十八年五月十一日、東京・歌舞伎座で、いわゆる第一回の文士劇が幕を開けた。「若葉会」と称するこの演劇会に参加したのは、右田寅彦をはじめ時事、二六、毎日、人民、報知、都などの記者で、東日の岡本綺堂も出演するはずだったが、社内の反対でとりやめ、そのかわりに右田の推薦で東朝の栗島狭衣が加わった。観客は俳陵、演劇関係者、文士などにかぎり、寄付をつのって入場無料としたが、実際には茶屋の女将や芸妓連が相当顔をみせた。」(『朝日新聞社史 明治縞』)


右田は責任をとって辞表を提出、慰留を受けて明治40年末までは在社したが、三面主任は同年3月、渋川玄耳に取って代られた。"

5月

田岡嶺雲、「作家ならざる二小説家」と題し、夏目漱石・木下尚江を推称して「其作る所、則ち意深く語永く、光焔あり活趣あり、他の群小説家を推倒して、今の浅俗浮魔なる所謂寫實小説以外に一新生面を拓けり、二人者共に其作物未だ多からずと雖ども、想ふに其當さに来るべき文壇の新傾向を指導する先達たらん欺」と評す。(『天鼓』第四号、五月一日刊) (半月刊、後に不定期刊)

5月

東京砲兵工廠群馬県岩鼻火薬製造所に、ダイナマイト製造所設置。11月から製造開始。ダイナマイトの国産化。

5月

英外相、日英攻守同盟提案。

5月

独領カメルーンで蜂起。

5月

国際労働者保護ベルリン会議、婦人の夜間労働について討議。

5月

トロツキー、フィンランドに身を隠し、その地で永続革命論を仕上げる。

「私が暮らしていたフィンランドの環境は、およそ永続革命を思い出させるようなものではなかった。丘陵、松林、湖水、秋の澄みきった空気、そして静寂。9月末、私はフィンランドのさらに奥へと引っ込み、森の湖畔にぽつんと建っている『ラウハ』というペンションに落ち着いた。この名前はフィンランド語で『静寂』という意味である。

 秋を向かえた広大なペンションは、完全に静まり返っていた。スウェーデンの作家がイギリスの女優といっしょにこの数日間をペンションで過ごしていたが、勘定を払わずに旅だった。宿の主人は彼らを追ってヘルシングフォルス[ヘルシンキ]に急行した。女主人は重い病でふせっていて、シャンパンの助けを借りてどうにか心臓を動かしていた。もっとも、私は一度も彼女の姿を見たことはなかったが。主人の留守中に彼女は死んだ。彼女の遺体は私の上の部屋に安置された。給仕長は主人を探しにヘルシングフォルスに向かった。客へのサービス係としてボーイが1人残されただけになった。

大量の初雪が降った。松林は一面の雪に覆われた。ペンションは死んだように静まりかえっていた。ボーイは地下にある台所へと姿を消した。私の上には死んだ女主人が眠っていた。私は1人きりだった。それはまさしく『ラウハ』、静寂そのものだった。人の姿はなく、物音ひとつ聞こえなかった。私はひたすら書き、散歩した。

ある日の晩、郵便配達人が一束のペテルブルクの新聞を持ってきた。私は片っぱしから開いて読んだ。それはまさに、開け放たれた窓から暴風雨が飛び込んできたようなものだった。ストライキが発生し、またたくまに広がり、都市から都市へと波及しつつあった。ホテルの静寂の中で、新聞のガサガサいう音が雪崩の轟音のように私の耳に響いた。革命は全速力で進行しつつあった。

私は急いでボーイに勘定を払い、馬車を呼びつけ、『静寂』を置き去りにしたまま、雪崩に向かって馬を走らせた。そしてその夜、すでに私は、ペテルブルクにある総合技術高専の講堂の演壇に立っていた。」(トロツキー『わが生涯』)


つづく


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