1905(明治38)年
5月1日
平民社、初のメーデー茶話会開催。
講演:石川三四郎(メーデーの歴史)、堺利彦(メーデーの国際的意義)、木下尚江(普通選挙と政治的自由獲得の必要性)。余興。
5月1日
大蔵省、第5回国庫債券1億円発行。
5月1日
島崎藤村(数え34)、4月29日に家族を連れて上京し、この日から西大久保405番地の新しい家に落ちついた。明治32年に結婚して小諸に赴任し、足かけ7年間、旧師木村熊二の経営する小諸義塾の教師を務めた。
彼の借りた家は、新築したばかりの四間ほどの平家。新宿駅北方、檪(くぬぎ)林の多い郊外に開けた住宅地。少し前に1人で上京した際、大久保に住んでいるもと同僚で画家の三宅克己を訪ね、植木屋の屋敷内に建築中の家を借りる約束をしておいた。入って見ると、壁もまだよく乾いていない、建具も粗末な間に合せのものであった。
5月初めに出た「文芸倶楽部」5月号の「時報」欄。
「◎文士の覚醒 新体詩を以て有名なる島崎藤村氏は、従来信濃小諸に教鞭を執って詩作に余念なかりしが、今回感ずる所あって東上し府下大久保に居を卜して、自費出版の業を開始すべく、既に四百余頁の大作を成就し、之れを血祭として大に雄を文壇に競はんとする計画ある由、其成功と否とは知らず意気壮とすべきにあらずや、而も氏は全く新体詩の筆を絶つべしと。」
藤村は上京して間もなく、5月6日に三女縫子を脳膜炎で喪うという悲運に見舞われた。
5月8日、葬式などを終えて、彼はこの数日の経過を日記体の手紙にして神津猛に報告した。
「四月廿九日
当日はわざわざ御見送り被下、御厚志辱く存上候。御蔭様にて無事安着致候間、乍憚御安心被下度候。
新宿にて荷物を受とり大久保へ行きて見れば、新居未だ落成せず。例の四畳の小室は漸く天井板をはり、畳を入れる最中といふ混雑。幸にも大屋の親切にて他に宿を求めず、植木屋の奥座敷に一同疲労を忘れ、荷物の間に眠り申候。
三十日
新居の落成を急ぐ。三宅氏(*克己)来訪、知合のもの手伝ひに来る。
五月一日
漸く戸じまりの出来る丈になり、同日は小生のみ新居にうつり夜十二時頃迄に荷物大凡とり出し、混雑せる家具の中に一夜を明す。
二日
家族一同引移る。この日は殆ど柳行李を開きて家具のとりかたづけにかヽる。
家は新しければ心地よし、引越の荷物は瀬戸物にいたる迄破損せず、勝手道具の古き迄皆用ふペし。- 三女縫子すこしく種痘の後の余熱に苦しむ。
三日
同様、田山氏(*花袋)来り喜ぶ。荷物大凡かたづく。
四日
この夜金尾文淵堂なる書店の主人来訪、「文芸倶楽部」紙上にて小生の出板事業を聞きたりとて、その一手販売の委托を乞ひに来る。書肆(しよし)の機敏可驚、尤も思ふよしありて発売上の相談は『破戒』の完成まで一切せざることになし(田山氏の注意もありて)同書店へも此旨通じ申候。同夜縫子の容体よろしからず。
五日
縫子につきて医師の診察を求むるに急性脳膜炎とあり、一日荊妻と共に看護、終宵眠を成さず。
六日
午前十時縫子死去。(一年と一ヵ月の短生涯)感慨胸を突いて湧出致候。
七日
近き長光寺といふへ埋葬、植木屋の親切にて万事手落なく式をすまし候。尤も小児の事ゆへ、友人等へも埋葬後通知致候。亡児は微笑童女と小生自分にて命名。 - 例の鮫島先生(*小諸義塾の同僚)より給はりし石楠木の花、玩具の猫、兎の巾着等を棺の中に納め申候。荊妻は乳をしぼりて手向けるなど、愚痴の真情御憫笑被下度候。
この日、雨は若葉を流れて一層寂蓼の情を増す。
縫子の死は小生に深き感動と決心とを与へ申候。
八日
友人親戚等来訪。小諸へ礼状四十通ばかりを書く。今夕貴兄よりの御手紙に接す、真情流露、あゝ貴兄が感情の温くして深き、拝眉の心地にて披見、小生既に貴兄のごとき知己を得たり、- おのれを知るものにめぐり逢ふは、既に天のめぐみなる、 - 御手紙を拝して猛然素志を貫かずんば止まじとの力を得申候。
実は数日未の疲労に加へて新しき悲哀を感じ、荊妻の傍に慟哭するあり。一時は茫然たる有様なりしも、今朝より勇気を回復し諸事を整とん致し、一層心の堅くなりしやに思はれ候。決して御心配被下間敷候。
小生はいよいよ明日より筆執ることに相成可申、すこしは身の周囲も落付き候。尤もそのかたはらには小諸出身青年の会へ臨み尋ね来る多くの人に接し、以大利へ遊学するといふ有嶋壬生馬なる友人を送り、その他わづらはしき業務の果すベきもあれど、 - 十五日過ぎには十分に著作の時を得る見込に御座候。
大久保は今若葉のにはひに満ち、空気も身に適し、甚だ心神の旺盛を感申候。申上度こともあれど今回はこれにて筆とめ申候。乍末筆令閨へもよろしく御伝声被下度候。
五月八日夜 嶋崎生
神津兄座右」
縫子が死んで暫く経ったある晩、妻の冬子が、急に目が見えなくなったと言う。翌朝、明るい中では、何でもなかったが、眼科医は、過労だと思うから、働きすぎないよう、また栄養を十分にとるように、と言った。島崎家では生活を切りつめ、粗食をつづけた結果、冬子は鳥目になった。その後、藤村は家族の栄養に気をつけるようになったが、厳しい生活態度は変らなかった。
藤村は田山花袋、蒲原有明、その他多くの友人の訪問を受けた。前年夏に函館へ行ったとき青森で逢った鳴海要吉、その後も藤村と手紙のやりとりをしていて、5月初めに上京し、仲間の秋田徳三のいる雑司ケ谷の下宿に同居していた。鳴海は作家の書生になりたいと希望していたので、藤村は彼を田山花袋に紹介し、鳴海は牛込区弁天町42番地の田山家で書生として暮すことになった。その家には花袋の女弟子なる岡田美知代がよく出入りしていた。
花袋は、前年9月20日に戦地から帰り博文館の勤務に戻り、再び「大日本地誌」編纂に当ったが、この年(明治38年)1月、「第二軍従征日記」を出版した。
藤村の上京を機会として、それまで柳田国男(法制局の参事官)の家や麻布の龍土軒などで花袋や独歩や有明などが集まって催していた外国文学の談話会が、積極的に毎月第一土曜日に開かれることとなった。
その会には花袋等の外、信州出身の工学士で文芸評論を書いている臨川中沢重雄や、法学士の江木翼(たすく)なども出席した。中沢は前年東大工学部を卒業して、東京電鉄の技師をしていた。
5月1日
(漱石)
「五月一日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで」 Hamlet を講義する。
五月二日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
5月1日
ワルシャワ、メーデーのデモ行進中、労働者と露軍が衝突。死者100人、負傷者多数。
5月3日
海軍軍令部に、29日にバルチック艦隊がヴァン・フォン湾に停泊との情報。海軍は、第3艦隊を待機していると推理。
5月3日
石川啄木(19)処女詩集「あこがれ」出版。全77篇、定価50銭、序文与謝野鉄幹、序詩上田敏。装幀は同郷の友人石掛友道、詩集の扉には「此書を尾崎行雄氏に献じ併て遥に故郷の山河に捧ぐ」との献辞。高等小学校時代の級友小田島真平の兄尚三の出征記念として、その経営する小田島書房から発行。
中旬、「あこがれ」を携えて牛込区大久保余丁町48番地に病臥中の綱島梁川を見舞う。
平出修(28)は、『帝国文学』の記者評に反駁して、啄木に期待を寄せる。
・・・。記者は又我等が同人石川啄木の詩集『あこがれ』を評して、「ひとりよがりの風あり・・・詩人自身にのみ理解せられ、読者にはよく理解し得られざるもの」なりと云へり。されども我等が見所を以て云へば、今の最も新しき詩風のなかにありて、啄木の詩は極めて明晰なるものなり。(中略)。この少年詩人の創造力は、我等寧ろ今の世の驚歎に価するを思ふ。若し又、啄木が用ふる所の新様の語に、たまたま泣菫有明二氏の詩中に見ゆる語あればとて、そは二氏の専用にもあらざるべし。况んや啄木の自ら撰択せし語彙は甚だ豊富にして、遒麗、清新、その日本語の美を知れるは、彼の土井晩翠氏等の企て及ぼざる所なるをや。(後略)
5月3日
早稲田大学の労働者講話会発足。
つづく

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