1905(明治38)年
5月4日
(漱石)
「五月四日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
5月5日
帆船「第3八幡丸」、北海道南西部沖でウラジオ艦隊により沈没。船長を拘引。
9日午後6時、青森県深浦沖で島根県の帆船がロシア艦2隻と遭遇。
5月5日
朝、ネボガトフ少将のロシア第3艦隊11隻(うち軍艦5隻)、シンガポール沖通過。
5月7日
東京市選出田口卯吉没による補欠選挙の運動開始。
東京市人口180万で有権者は16,813人。政友会江間俊一・進歩党林謙三、木下尚江が立候補(木下尚江は普通選挙実現を政治綱領に掲げる)。
8日、平民社前に「木下尚江君を候補者に推薦す、社会主義同志」の大看板。
9日、「万朝報」「国民新聞」に木下推薦広告。
13日、立候補宣言・推薦文を配布。検束。
連日の演説会は開会と同時に中止(7日夜の神田区三崎町の吉田屋、8日夜の芝区兼房町の玉翁事、11日夜の神田の今金、12日夜の京橋区因幡町の市川亭、13日夜の下谷区2丁町の足立屋)。
14日、『直言』15号に決意表明、宣言書を発表
15日夜のYMCAは警察の干渉により会場貸与を拒否。
16日、投票日、木下の得票数は32票。
5月7日
『直言』第14号発行
深尾少翁「黄金政治の模範村」。千葉県野田町の支配機構分析。
5月1日平民社メーデー記念会での石川三四郎の講演(メーデーの歴史)の紹介記事
5月7日
イタリア人中心の移民1万人、ニューヨーク着。
5月7日
米サンフランシスコ港で、日本人・韓国人排斥同盟結成。
5月7日
バルチック艦隊、フランス官憲の退去要求のため、ヴァン・フォン湾を出てクアベに入港。
5月8日
この日付け、夏目漱石の村上霽月宛手紙
「小生は教師なれど教師として成功するよりはへボ文学者として世に立つ方が性に合ふかと存候につき是からは此方面にて一奮発仕る積に候然し何しろ本職の余暇にやる事故大したものも不出来只お笑ひ草のみに候」。
4月7日付け大塚保治宛手紙でも
「僕は今大学の講義を作つて居る。いやでたまらない。学校を辞職したくなつた。学校の講義より猫でもかいて居る方がいゝ」
と書く。
「五月八日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。
五月九日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
5月8日
ロシア、パーベル・ミリュコーフ、労働組合連合会を組織。国会設置と普通選挙制の導入を提唱。
5月9日
愛知県尾西織物同業組合組織。
5月9日
ベトナム、ヴァン・フォン湾沖でバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)、第3太平洋艦隊を編入。合計57隻となる。
10日・11日、一旦ヴァン・フォン湾に入港し、14日に出航。
〈バルチック艦隊、これまでの経緯まとめ〉
前年1904年(明治37年)10月15日、第2太平洋艦隊はバルト海のリバウ軍港を出航。司令長官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー少将(後に中将へ昇進)、副司令官ドミトリー・フェリケルザム少将。極東のウラジオストクまでは約1万6400カイリ、3万㎞余の大航海。
10月21日深夜、第2太平洋艦隊は北海を航行中にイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃(ドッガーバンク事件)。以後第2太平洋艦隊はイギリス海軍艦隊の追尾を受けることになる。
11月3日、タンジール(モロッコ)で第2太平洋艦隊は喜望峰を回る本隊とスエズ運河を通過する支隊に分かれる。本来、第2太平洋艦隊の戦艦はスエズ運河を通過できる大きさで設計されたが、実際には建造の不手際と追加資材の搭載による重量超過で喫水がスエズマックスを上回っているものもあった。
スエズ支隊はズダ湾で黒海から来た義勇艦隊の仮装巡洋艦と合流した後、11月26日にスエズ運河を通過し、12月30日にフランス領マダガスカル島のノシベ 港へ入った。
本隊は12月19日に喜望峰を通過し、翌1905年(明治38年)1月9日にノシベ港で支隊と合流した。
ロジェストヴェンスキーは、この時点で1月1日に旅順要塞が陥落し、旅順艦隊が事実上壊滅したことを知らされる。これにより日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航目的は達成困難になり遠征を中止することも考えられ、艦隊は同地に一時とどまった。
ロシア海軍上層部は対処を検討した結果、第2太平洋艦隊の遠征を続行させ、本国に残っていた旧式艦艇で新たに第3太平洋艦隊(司令官ニコライ・ネボガトフ少将)を編成し合流させ、日本艦隊と砲撃力を互角に近づけ、制海権奪還を目指すこと決定した。
この通知を受けたロジェストヴェンスキーは反対の返電を送った。現在の戦力では制海権奪還が不可能である、第3太平洋艦隊は老朽、衰退、上部建造不良であり却って負担となる、唯一可能な方策は第2太平洋艦隊でウラジオストクに入り通商破壊をすることである、という。
2月15日、第3太平洋艦隊はリバウ港を出航した。その知らせを聞いたロジェストヴェンスキーは病気と称して辞職を願ったが許されなかった。
長期にわたるマダガスカル逗留により、乗組員の規律は乱れ、先行きに絶望し自殺者も後を絶たない状況であった。
3月16日、第2太平洋艦隊はノシベを出航した。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。
4月5日、マラッカ海峡に入り、4月14日にフランス領インドシナのカムラン湾に入り第3太平洋艦隊を待った。この時にも、ロジェストヴェンスキーは本国に第3太平洋艦隊を待たずにウラジオストクへ急航したいと打電したが許可されなかった。
4月21日にフランスより退去要求を受けたが、4月26日にバンフォン湾の国際法違反にならない場所で投錨した。
第3太平洋艦隊は3月26日にはスエズ運河を通過し、5月9日に第2太平洋艦隊と合流を果たした。
5月10日
上海、米の移民制限反対の米商品ボイコット開始。(~8月)
5月10日
漱石、談話筆記「批評家の立場」(『新潮』5月号)。(『文學評論』第2編「十八世紀の状況一般」の第七「娯楽」として収録される)
5月10日
この日付け啄木の金田一京助あて手紙
「故郷の事にては、この呑気の小生も懊悩に懊悩を重ね煩悶に煩悶を重ね一時は皆ナンデモ捨てゝ田舎の先生にでも成らうとも考へた位。結局矢つ張本月中には一家上京の事に不止得相纏り申候。(略)詩集の方は題は『あこがれ』と致し、上田敏氏の序詩一篇有之候。数日前印刷の方も全部出来上りと相成り候へども、和田英作氏の表紙画未だ出来ざる為め猶こゝ四五日の後にあらざれば製本済とならざるペく候。(略)」
啄木は駒込神明町に家を予約し、結婚することになっている堀合節子とそこで暮そうと思っていた。しかしこの詩集出版では家を持つ計画を実現できなかった。
この頃、父の一禎は渋民村を離れ、盛岡の堀合家に近くに住んでいたが、堀合家では早く啄木と節子の結婚式を挙げてほしいと言って来た。5月20日が結婚式の日と定められ、啄木に帰郷をうながす手紙が届いた。啄木はその数日前に東京を出発したが、その日、彼は盛岡に現われなかった。結婚式は花婿がいないまま挙げらた。
5月11日
(漱石)
「五月十一日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
「「今日の講義を聴いて先生の文學観の中で私の先日提出した卒菜論文が先生と甚しく異なった考へである事を知った。それは三つの點でこれを心づいたのである。即ちその一は個性を取扱った文學に對する観察が全く異なってゐる事、その二は文學者の主義の有無を對象として文學の優劣を批判する事の可否についての考へ方の全く異なってゐる事、その三は古語を使用する事の可否に就いての批判的態度の全く異なってゐる事、即ち此の三點である。先生は第一の問題に對して個性を中心として書いた文學は永久性に缺けけてゐるとの御意見である。私は全くこれに反對してゐ
る。私は作者が個性を主張する事に依りて、その作品の價値を高めるものだと信じてゐる。次に第二の點に就いて先生は作著が或る主義を持って書く事は、その作品をして永久的のものと成す事が不可能であるのみならず、さういふ一つの理想をもって書いた作品は、文學としての価値を高めるものでないとお考へになってゐるやうに見えるが、私はこれに反對する。次に先生は俗語を用ひて書いた文學書は、古語詩に雅語を用ひて書いたものに比して永久的で、又普遍的だとお話しになったが、私はそれは程度の問題であって、文學が藝術品である限りは、雅語・古語を巧みに使用する事は場合に依りては大いに必要だと考へてゐる。先生は『吾輩ハデアル』に於て、古雅の言葉は少しも御使用になって居らないのは、このお考へからであって、それは明らかに現代文學の行詰りを打開する爲に意義ある事だと私も考へてゐるが、しかし、几ゆる文學は悉く『猫』の表現法で書いてもよろしいといふ結論にはならない。『みをつくし』一派の文體の中にも私達は名状し得べからざる風格を見出す。」 (金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)
5月11日
スペイン、サルバドール・ダリ、誕生。
5月11日
アルバート・アインシュタイン、ブラウン運動の論文が受理される(『物理学年報』誌による)。
つづく

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