2025年10月31日金曜日

大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」)

 

田山花袋

大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。 より続く

1906(明治39)年

5月

北原白秋、新詩社に加わる。

5月

島村抱月他「「破戒」を評す」(「早稲田文学」)

5月

(漱石)

「五月頃(日不詳)から、中川芳太郎に依頼し、『文翠論』の草稿繋理をする。(明治四十年三月下旬(日不詳)までに半分以上書き直す。)

五月、食後に胃が痛み、服薬始める。慢性胃カタルとのことで、服薬しながら卒業論文を読む。但し、五月末にも二稲類を服薬する。眼も悪くなる。」(荒正人、前掲書)


5月

田山花袋(36歳)「不如帰物語」(「文章世界」)。蘆花論。花袋は「文章世界」の編集長。

「凡そ明治の著作物中矢野文雄の『経国美談』、柴史朗の『佳人之奇遇』は古い事。近事は最も洛陽の紙価を高かちしめたのは徳富蘆花子の小説『不如帰』を措て他には無いだらう。此書一度現れて、蘆花子の名は九鼎大呂よりも重きを加へられた。仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」

続いて、そのモデルである大山大将の家庭や、三島通庸の息子の弥太郎などのことを述べ、この作品の発行部数が何十万にものぼり、その英訳は学生用として日本だけでも1万部売れたこと、詩人溝口白羊が「家庭新体詩不如帰の歌」というものを出版したこと等を述べた。

またこの作品を主題にしたラッパ節まであるとして、

「病ひにやつれし浪子嬢。夫武男に生き別れ、ふたたび逢はれぬ汽車の窓、一声血に啼くほととぎす、トコトットツト

片手に花持ち腰に剣、ポツケットに浪子の書置を、川島武男の墓詣り、墓前に開いて眼に涙、トコトットツト。」

というのを紹介した。

またその劇化としては明治36年5月本郷座で川上音二郎が上演したもの、昨38年に高田実、河合武雄等が上演したもの等を挙げた。また逗子の浪子不動堂と伊香保温泉がそのために有名になったことを論じ、最後に蘆花の外遊をゴシップめいた筆致で報じた。

蘆花の嫉妬深い性質、その熱狂癖等はしばしば文壇人の噂にのぼっていた。また時々突拍子もないことを始める男で、兄と喧嘩したり、山に籠ったかと思うと、トルストイに逢うために外遊するなどというのも噂のまとになった。

しかし文壇人は、彼のことを笑い話にしながらも、彼が一種の天才的な存在であり、その生活が真剣なものであることには敬意と畏れとを抱いていた。

5月

鈴木三重吉『千鳥』(『ホトトギス』)。漱石が推薦。

5月

大石誠之助「大言小説」(「はまゆふ」掲載);

箇人の人格を高めて、汚れたる現世を清めんとするは、恰も大風の日に市中の塵を静めんとて、戸毎に水を撒けよと言ふが如し。これ余がトルストイズムに全然一致し能はざる理由なり。

5月

米議会、シャーマン法可決。ロックフェラー石油トラストの拡大禁止。

5月

独、戦艦のトン数増大及び大型戦艦通過のためのキール運河拡張を趣旨とする海軍法案可決。英独の海軍増強競争に拍車。

5月1日

日本、安東に領事館設置。

5月1日

韓国統監府の保安規則(4月17日制定)、施行。

5月1日

阪神電鉄の乗務員ら120人、賞与金支給の公平・労働時間の短縮を要求し、ストライキ。

5月1日

新宿御苑開苑式

5月1日

仏、メーデー・ゼネスト。戒厳令下、労働者大デモ行進。3,000人逮捕。

5月1日

イギリスの南ナイジェリア植民地保護領設立。

5月2日

医師法・歯科医師法公布。10月1日、施行。

5月2日

幸徳秋水等の本拠たる桑港の平民社支部は、一応難を免れたものの、全市が焼けたのち、知人たちは他の地へ去り、生活の不自由は終らないので、彼は桑港湾の対岸にあるオークランド市の同志に誘われるまま、5月2日そこへ移った。

しかし、オークランドには難民が溢れ、物価は騰貴し、住宅は払底し、生活が難かしくなった。

同志の竹内鉄五郎が自分の室を幸徳に与え、竹内自身は屋根裏に寝ているような生活であったので、幸徳も居心地がよくなかった。幸徳はそこで雑誌「革命」を出しはじめ、在米の同志に働きかけた。彼はそこから更にバークレイ市に移った。

「革命」の発行を続けていたものの、資金が枯渇して休刊のやむなきに至った。彼はバークレイ市の日本人下宿の地下室に住んでいたが、そこには苦学生を主とする若い同志が集まって、革命党の本拠のような形になった。赤ペンキで塗られたその下宿は「レッド・ハウス」と呼ばれて、一般市民から目の敵にされた。それに日本領事館の圧迫が加わった。

日本からの通信で、国内運動も強い弾圧を受け、堺利彦、西川光二郎等がこの6月に投獄されたことが分った。幸徳は急いで帰国した。

5月3日

英、1517年以来シナイ半島を支配してきたトルコに対し撤退を求める最終勧告。トルコは要求を受入れシナイ半島はエジプト領に。

5月5日

漱石のこの日付け森田草平宛書簡、

「猫の御批評難有頂戴。もう一回でやめる積で居ますが。忙がしくて書けないから閉口だ。所謂写実の極致といふ奴をのべつに御覧に入れてアツと驚ろかせる積丈は成算が出来て居る。然し実際驚ろかすのはいつの事か分〔ら〕ない。」                       (『漱石全集』22巻)

『猫』が写実小説であることに自信をもっている。

5月5日

ロシア皇帝ニコライ2世、セルゲイ・ウィッテ首相を罷免する。後任にイワン・ゴレムイキン伯

5月5日

ブラジルとオランダ領ギアナの国境成立。


つづく

2025年10月30日木曜日

鎌倉散歩 鏑木清方記念美術館の「あの人に会える!清方の代表作〈築地明石町〉三部作」展 川喜多別邸 鶴岡八幡宮源氏池 十月桜 イチョウの色付き 本覚寺のセンダン 2025-10-30

 10月30日(木)晴れ

久しぶりの晴れ。

今日は、鎌倉の鏑木清方記念美術館で開催中の「あの人に会える!清方の代表作〈築地明石町〉三部作」展に出かけた。

実は、「あの人」に会うのは二回目。

この〈築地明石町〉は長らく行方不明だったそうで、2018年に44年ぶりに「発見」され、国立近代美術館(近美)がこれを購入。これにより、金美は三部作全点を揃えて収蔵することになった、購入費用は三点合計で5億4,000万円だったそうだ。

で、2019年、金美で久々お目見えの三部作特別展が開催されたので、11月5日にその特別展に出かけたことがある(その時の記事は下記)。

今回、鎌倉で三部作が揃うのは70年ぶりとのことだった。

狭い美術館なので、混んでたら嫌だなと思ってたけど、実際はガラ空きで三部作独り占め状態だった。(写真は不可)







東京国立近代美術館(竹橋) 『鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開』展に行ってきた 2019-11-04


その後、少し散歩した。

▼川喜多映画記念館の川喜多別邸(和辻哲郎邸)


▼鶴岡八幡宮源氏池

▼若宮大路二の鳥居付近の十月桜

▼通りを隔てた向かい側のホテルのイチョウの色付き

▼本覚寺のセンダン


トランプ大統領と高市首相 米空母で演説(毎日) ← 「イェーイ」と飛び跳ねてはしゃぐ高市が恥ずかしい / イタリアのメローニ首相の場合はコレ! / 「トランプ様のお気に入りであるかのようなイメージ」 / 首都ど真ん中「米軍基地」 同乗ヘリ利用、返還要請も(共同); 離着陸する米軍機は航空法の適用を受けない「首都のど真ん中の外国軍基地」(市民団体)


 〈全文〉

 高市早苗首相とトランプ米大統領が28日、神奈川県の米海軍横須賀基地へのヘリコプター移動で利用した東京都港区六本木のヘリポートは、米軍が管理権を持つ「首都のど真ん中の外国軍基地」(市民団体)だ。離着陸する米軍機は航空法の適用を受けない。都や港区は長年返還・撤去を求めるが政府の腰は重い。

 米軍が終戦後に旧日本軍敷地を接収した米軍専用施設「赤坂プレスセンター」で、防衛省によると面積約2万7千平方メートルの敷地内に事務所などもある。国立新美術館近くで高層ビルが林立する一等地だ。

 都は「基地の存在が周辺のまちづくりの障害になっている」とし、全面返還を国に繰り返し要望している



東京都心に位置する米軍専用施設「赤坂プレスセンター」(下)=28日午後(共同通信社ヘリから)


そこまでやるのか「トランプ氏をノーベル賞に推薦」 高市政権が日本の威信をかけた「涙ぐましい接待外交」(東京); 「本当にトランプ氏がノーベル平和賞にふさわしいと思っている日本国民が どれだけいるのか」「国民の意見は無視されていないか」と、上智大教授の前嶋和弘さん (米国政治外交)。「国民不在の外交だ」 / ふかわりょう 『トランプ大統領の世界的な立ち位置から見てノーベル平和賞というとこまではサービスし過ぎ。イスラエル、パレスチナに対する事とか温暖化だとか、世界的な振る舞いを見るとちょっとおだて過ぎ』    

大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。

 

桜井忠温

大杉栄とその時代年表(662) 1906(明治39)年4月11日~17日 啄木(20)、母校の渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。月給8円。徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」(「渋民日記」) より続く

1906(明治39)年

4月18日

警視庁官制改正。警視庁は内務大臣直属となる。

4月18日

サンフランシスコ大地震。マグニチュード7.8。サンフランシスコだけで死者450人。全体で600人~700人死亡。

滞在中の幸徳、市中の光景に「無政府主義の実現」感銘。交通・食糧無料、運搬・介護・建設など全員で分担。「財産私有は全く消滅した」(「光」)。

3日3晩火事が続き、市街の大部分は焦土となり、30万の罷災者が出た。桑港平民社支部は辛うじて焼失を免れた。

幸徳は、その体験を次のように報じた。

「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た。夫れは外でもない。去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食糧は毎日救助委員より頒与する、食糧の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営は、総て壮丁が義務的に働く。買ふと云ふと云つても商品がないので、金銭は全く無用の物となった。財産私有は全く消滅した。面白いではないか。併し此理想の天地も向ふ数週間しか続かないで、又元の資本私有制に返るのた。惜しいものだ。」


4月19日

宮崎民蔵・相良寅雄、土地復権主義の同志獲得のため全国巡歴に出発。

4月19日

仏、ピエール・キュリー(46)、没。

4月20日

堺利彦「日本社会党に餞す」(「光」第11号)。電車賃値上反対運動で活動家を奪われた社会党を鼓舞激励。

4月20日

(漱石)

「四月二十日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。

四月二十二百(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。

四月二十七日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。(推定)」(荒正人、前掲書)

4月21日

東京地裁重罪裁判に付された河野広中ら日比谷焼打ち事件関連者、全員無罪。検事控訴なく確定。

4月21日

米・カナダ間、アラスカ国境条約成立。

4月22日

田中正造、石川三四郎の「新紀元」社例会で谷中村の実状訴える(「土地兼併の罪悪」)。

この月14日、栃木県知事は谷中村と隣の藤岡村の合併を谷中村村会につきつける。これを契機に、石川三四郎・福田英子らの谷中村視察始まる。廃鉱流出により渡良瀬川・利根川の川床が上り、洪水頻発。政府は治山治水対策に代えて、渡良瀬川・利根川合流地域に遊水地を作ろうとし、谷中村買収を始める(明治37年12月、栃木県会が谷中村買収を議決)。

4月22日

近代五輪開催10周年を記念する中間大会開催(アテネ)。(〜5月2日)

4月23日

ロシア社会民主労働党第4回党大会(ストックホルム大会)で、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの統一に失敗。レーニンの農業綱領が採択される。

4月23日

(荷風)

「四月二十三日 銀行午餐後サウスフェリーとよぶ波止場の公園を歩む。春の海は空と共に青々と晴れ渡りたれば湾頭に屹立するかの自由の女神像はいつよりも更に偉大に打望まれたり。余はこの湾頭遥に大西洋を望めばまだ知らぬ仏蘭西の都と其の芸術の恋しさに今の我が身の果敢なきを思ひ無限の悲愁に打沈めらるゝを常とす。あゝ何事も思ふまじ何事も見まじとて急ぎ銀行に帰り帳簿の上に顔ひたと押当てぬ」(『西遊日誌抄』)

また、この月ニューヨークを訪問したロシアのゴーリキがひどく冷遇された経緯を記す。 


4月25日

桜井忠温『肉弾』刊行。

桜井忠温(ただよし);

明治12年6月11日愛媛県松山市生まれ。松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)

戦場の極限状態で、部下・親友の安否を気づかい、家族を思いやる兵士達を描いた作品。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。

しかし、陸軍上層部はこれを忌避、桜井は7年間執筆中断。大正2年「銃後」、昭和6年「戦いはこれからだ」、昭和8年「大将白川」、昭和14年「将軍木」刊行。陸軍省新聞班長を経て昭和3年少将で退役。昭和12年後備役編入、昭和15年文化奉公会副会長。昭和22年戦犯追放(5年後に解除)、昭和29年執筆再開、「落葉村舎」「哀しきものの記録」を残す。昭和40年9月17日松山市で没(86)。

『肉弾』と並ぶ戦記ものベストセラー『此一戦』を著し、後に反戦思想家になった海軍軍人水野広徳と対比される

4月26日

啄木(20)は高等小学校の生徒を教えられぬことに不満を抱き、この日から「高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始」する。「余は日本一の代用教員である」という心意気である。

啄木は英語の自主講座のみならず、通常の授業でも「先ず手初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る」。「文部省の規定した教授細目は『教育の仮面』にすぎぬのだ」という。

彼のほぼ1年だけ代用教員の活動

夏休みに生徒は禁じられている盆踊りに自ら興じ、生徒にも踊るよう教える。

自宅で早朝、20人ばかりの生徒を集め、「朝読」を行う。

希みどおり高等科の地理歴史と作文の授業を受けもつと、翌1907年(明治40)からは生徒に「自治的精神を涵養せむ」ために、上級生にわざわざ「種々の訊問」を問いかける。

毎日、5分間か、10分間、簡単な英会話を教える。

熱心に子どもに接している。「雪ふる夜も風の夜も、訪ひくる児等のために、十時過ぎまでは予自らの時間といふものなし」(1月13日)。

また、村の青年たちの相談にものり、やがて彼らのために夜学まではじめる。「華氏十七八度といふ寒い晩に風吹き通す教場に立って三時間も声を立てつゞけたので、遂々悪質な流行感冒の襲ふ所となった」。

3月20日。卒業生送別会を「一切生徒にやらせ」る。その日、「会の詳しい模様と、それから我が校に関する自分の希望とを細々と響いた手紙を平野郡視学宛に認め」る。

それから2週間余、臨時村会が開かれ、彼は免職となる

啄木の性急さの裏には、村人たちとの確執、殊に父親の問題がある。

父石川一禎は宗費を滞納し、2年前、渋民村宝徳寺住職を罷免された。この事件が尾を引き、啄木一家が故郷に戻ることさえ認めない村人が多かった。父一禎は啄木が故郷に戻ってすぐに、懲戒赦免となるが、この処罪が村の内部を二分させる。一禎が再び住職になることを望む派と、石川一家を追い出す派の二派に分かれる。父一禎は村の空気に反応し、3月5日、家族に無断で家を出てしまう。

父の家出により、結局啄木は故郷渋民村を離れることになる。

彼は父の問題を抱えていただけに、村における自分の立場を得ることに躍起となり、積極的に子どもたちや青年に接近し、一途に自分の教育理念を進めようとした。

4月27日

清国、英とチベット条約(チベットに関する英清条約、西蔵条約)調印。英は不併合・不干渉を約束するが、チベットを統制下に置く。英はチベット国内に入る道路の全てを掌握。他の列強は、英の許可なくチベット領の占領・購入・租借が不可能に。露の拡大政策阻止が目的。

4月27日

「牟婁新報」社長毛利柴庵、出獄。筆禍事件で45日入獄。「牟婁新報」記年号には出獄歓迎の辞(境野黄洋、高島米峰ら)。菅野須賀子「篭城記」掲載。

4月28日

ミラノ万国博覧会開催(〜11月11日)

4月30日

征露凱旋陸軍大観兵式挙行(東京青山練兵場)。

4月30日

「四月三十日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八匹紀英文学」を講義する。

『吾誰は猫である』(十)の稿料として三十八円五十銭、及び『坊っちゃん』の分として、百四十八円(合計百八十六円五十銭)受け取る。

(森田草平、中判の洋罫紙に四十八ページの英文論文を響きあげる。四月十五日(日)か十六日(月)から書き始める。マーローを扱ったものである。)」(荒正人、前掲書)


つづく


日本政府はインフレ抑制で日銀に裁量の余地を-ベッセント米財務長官(Bloomberg); 来日中のベッセント財務長官は29日、低金利を支持する高市早苗首相が、日本銀行に十分な裁量を与え、インフレ期待を安定させて為替の変動を抑えることが極めて重要だとの考えを示した。 / 米財務長官「日銀に利上げ余地を」、日本政府に促す:識者はこうみる(ロイター) / 佐藤千矢子氏 「米国側は『アベノミクスの導入からもう12年も経過して状況は大きく変化してるんだから健全な金融政策をやるべきだ』と…これは高市さんに対する強烈なメッセージ、アベノミクス回帰みたいなことをやられては困るという強烈なメッセージ」

2025年10月29日水曜日

中華料理「驊騮(カリュウ)」で飲茶アフターヌーンティー @ヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテル 2025-10-29

 10月29日(水)曇り

今日は、横浜みなとみらいの中では比較的よく行くインターコンチネンタルホテル(最上階31F)にある、お店として初めての中華料理「驊騮(カリュウ)」で飲茶アフターヌーンティーに行った。

お上品な飲茶。

昔、南洋の国に駐在してた頃によく行ってた飲茶は、お姉さんが手押しワゴンで色んな料理を勧めてくるスタイルだったけど、いまでは懐かしい。

今日はあいにくの曇り空で景色はイマイチ。









▼お店のエントランス

▼ホテル内部
▼お店からの眺め

▼ホテル全景

▼ホテル周辺



日経電子版、「(クマの駆除への自衛隊の支援に関して)自衛隊の武器使用を巡っては、憲法9条の規定もあり厳しく制限されています。」というトンチンカンを書いて、しっかりコミュニティーノートでその「誤り」指摘されるオソマツ。

大杉栄とその時代年表(662) 1906(明治39)年4月11日~17日 啄木(20)、母校の渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。月給8円。徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」(「渋民日記」)

 

石川啄木

大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』) より続く

1906(明治39)年

4月11日

啄木(20)、妻節子の父堀合忠操の縁故で母校の岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員となる。当時同校は遠藤忠志校長以下教員4名生徒283名(高等科68名尋常科215名)。教員秋浜市郎・上野サメ。受持は尋常科第2学年。月給8円

14日初出勤。

「四月十四日本日石川代用教員出勤授業セリ高橋準訓導石川代用教員ノ送迎式ヲ挙行ス 秋浜訓導」(「明治三十九年度日誌渋民尋常高等小学校」)

21日、沼宮内町(現岩手郡岩手町)で徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。身長約158cm、体重約45㎏。 

「予て期したる事ながら、これで漸やく安心した」。

「自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運(*兵役を望まない気運)の動いてるのは、此辺にも現はれて居る。」

14日に渋民小学校の教壇にはじめて立ったとき、「神の如く無垢なる五十幾名の少年少女の心は、これから全たく我が一上一下する鞭に繋がれるのだなと思ふと、自分はさながら聖(たふと)いものの前に出た時の敬虔なる顫動を、全身の脈管に波打たした」(「渋民日記」)と記している。

啄木が感激したのは、彼自身に教員資格がないにもかかわらず、郡視学が許可してくれたためであるのと、彼自身もこの学校で学んだからである。

啄木は「幼なくしてこの村の小学校に学んだ頃、 - 神童と人に持て囃された頃から、既に予は同窓の友の父兄たる彼等から或る嫉視を享けて居た」と書く。啄木には村人を見返したという思いもあった。

しかし不満もある。「八円の月給で一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る」

漱石『坊っちゃん』の主人公が街鉄の技手になって月給25円(中学教師の時は40円)。東京の職人の日当は大工と左官65銭、石工80銭、煉瓦職90銭、普通人夫35銭である。街鉄の技手は職人より少し収入が良い程度。月給8円は、普通人夫が月25日働いて得る賃金を下廻る。しかも5人家族では、物価の安い渋民村でも生活は困窮した。


「月に三十円もあれば、田舎にては、楽に暮らせると - ひよつと思へる。」(『悲しき玩具』)と啄木は歌に託して嘆く。


4月11日

(漱石)

「四月十一日 (水)、鈴木三重吉の実家(広島市猿楽町。第五師団練兵場に近い)から、手紙と『千鳥』(原稿)を送ってくる。『千鳥』を読み感心し、「千鳥は傑作である。」「三重吉君萬歳だ。」と手紙を出す。高浜虚子宛に、「僕の門下生からこんな面白いものをかく人が出るかと思ふと先生は顔色なし。」と響き、『ホトトギス』に推薦する。朝、門柱を見ると夏目金之助という文字の両側から猫が向いあっている図を掲げてある。午後、辻村鑑訪ねて来る。門札をはずして、持ち帰って貰う。

四月中旬(日不詳)、高浜虚子来たので、二人で鈴木三重吉の『千鳥』を朗読する。」(荒正人、前掲書)

4月11日

帝国鉄道会計法公布。

4月11日

屠場法公布。

4月12日

日置臨時代理大使、米国務長官に対し日本は満州の門戸開放を尊重すべき旨通告。(5月1日より安東、6月1日より奉天を開放)

4月14日

台湾南西部大地震。全半壊1万余戸。

4月14日

西園寺首相、満州視察に出発。大蔵次官若槻礼次郎、外務省政務局長山座円次郎、農商務省農務局長酒匂常明、鉄道作業局建設部長野村竜太郎と。~5月15日。大連、旅順、奉天など視察。満州は、日露講和で日露軍撤兵が決定したが日本の軍政署は活動継続中。

4月14日

オハイオ州、群衆3千がはやし立て暴徒が黒人2人を焼殺。

4月15日

堺利彦編集「社会主義研究」第2号発行。

クロポトキン稿、白柳訳「無政府主義の哲学」など無政府主義の紹介研究が大半をうめる。

4月16日

荒畑寒村、「牟婁新報」を退社し田辺を去る。堺利彦宅に戻る。折から、3月15日の電車賃値上げ反対運動で活動家が拘引されていたため、「光」編集手伝い、「社会主義研究」「家庭雑誌」の雑務をこなし、夜は神田の正則英語学校に通う。

4月16日

新橋~神戸間に最急行列車運転開始。150マイル未満1等1円、2等60銭、3等30銭。急行料金徴収の最初。

新橋・品川・横浜・国府津・山北・沼津・静岡・堀之内・天寵川・浜松・豊橋・名古屋・岐阜・大垣・米原・能登川・馬場・京都・大阪・三ノ宮・神戸。時速44キロ。所要時間13時間40分。

4月17日

韓国統監府、保安規則制定[府]。治安取締規定。5月1日施行。

4月17日

児玉源太郎、台湾総督を解かれ、参謀総長に就任。

4月17日

日本製紙所組合、規約改正し、日本製紙連合会と改称。

4月17日


(漱石)

「四月十七日(火)、野村伝四宛手紙に、末松謙澄『日本の面影』(英文)の翻訳に関して、誰か訳者を世話して欲しいと頼み、具体的条件も伝える。(この話は少し前にも依頼した事がある)

出版社では、訳稿の締切が六月十日(日)、稿料は、原書一ページに付き一円五十銭である。三百七十二円になるから、珍仕事としてはよかった。野村伝四は、森田草平・栗原元春を推薦し、二人は、五月初めに着手する。但し、森田草平は、.""Rising Sun"" だと去っている。詳細はよく分らぬ。」(荒正人、前掲書)


つづく


2025年10月28日火曜日

ニューヨーク市長選挙 ; ゾーラン・マムダニ:「ニューヨーカーは誰も、生きるために必要なものから価格によって締め出されるべきではありません…政府の仕事は、その尊厳を提供することです。」 「尊厳、友達よ、それは『自由』と言うもう一つの方法です。」 / AOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス): 「この街は、飢饉から逃れたアイルランド人、ファシズムから逃れたイタリア人、ホロコーストから逃れたユダヤ人、奴隷制度とジム・クロウ法から逃れたアフリカ系アメリカ人、より良い生活を求めたラテン系の人々、自分たちのために立ち上がった先住民、クイーンズで、ブルックリンで、ブロンクスで、マンハッタンで、スタテンアイランドで結束したアジア系アメリカ人によって築かれた。」 / 26人の億万長者が、ゾーラン・マムダニのニューヨーク市長選挙キャンペーンを阻止するために2200万ドル以上を注ぎ込んでいます。 ブルームバーグ、アックマン、ウォルトン、ウィン、ローダー。このリストは、億万長者がパニックに陥った名簿のようです。   

高市首相の投稿に国内外から批判。「加害の歴史にこそ目を向けるべき」などの声(ハフポスト) ; ASEAN首脳会議で訪れたマレーシアにある、日本人墓地と国家記念碑を訪問した高市早苗首相。投稿には無神経だとする声などが寄せられている。

高市政権の今なぜ「日本国旗損壊罪」法案が? 愛国心と見せかけて、実は国民の「批判」を抑え込みたい思惑が(東京) / 参政党が「日本国旗損壊罪」法案を参院に単独提出 神谷宗幣代表、自民・維新と「ぜひ一緒にやりたい」(東京); 参政党が、日本国旗を冒瀆する目的で損壊・汚損する行為を罰する「国旗損壊罪」法案(刑法改正案)を参院に単独で提出しました。自民党や日本維新の会も国旗損壊罪の新設を目指しており、3党が協力すれば成立する可能性があります。 / 参政党「国旗損壊罪」提出に吉村・維新代表「ひと声かけてくれれば良かったのに」(関西テレビ)

「悪行14選」 現職はデマ対応で防戦一方に 宮城知事選、何が起きた(毎日 有料記事)

幻冬舎が「名誉毀損訴訟」で敗訴 地裁「そもそも前提事実が存在しない」“異例”判断…訴えられたネットメディア「なぜ提起」疑問示す(弁護士JPニュ-ス)

大杉栄とその時代年表(661) 1906(明治39)年4月10日 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。 漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

 


大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記) より続く

1906(明治39)年

4月10日

『吾輩は猫である』 (十) 〔『ホトトギス』4月号4月10日刊〕 (9巻7号)

招魂社(靖国神社)へお嫁に行きたいと言い出す主人の三人の娘(とん子、すん子、坊ば)

「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしやうかと思ってるの」・・・

「御ねえ様も招魂社がすき?わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きませう。ね?いや?いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまふわ」

「坊ばも行くの」と遂には坊ばさん迄が招魂社へ嫁に行く事になった。斯様(かよう)に三人が顔を揃へて招魂社へ嫁に行けたら、主人も嘸(さぞ)楽であらう。


恐らく、この娘たちは、招魂社には(戦死した)偉い人、大事な人が祀られていると言われていたのであろう。だから、自分たちはそういう人の花嫁になろう、一身を捧げようと言い出したのだろう。

漱石は、たわいない子供の会話の中に、日本政府が戦死者を美化し神としてほめたたえることによって、兵士たちの死の恐怖や戦死者の恨みや遺族の悲しみなどを鎮め、戦争を継続するために利用した靖国神社の役割を鋭くとらえている。

『坊っちゃん』 〔『ホトトギス』4月号4月10日刊〕(9号7巻) (坊っちゃん号)

■小説の結末;

 「其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、屋賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくつても至極満足の様子であつたが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹つて死んで仕舞った。・・・」


 「この小説は主人公の無鉄砲な行動力と勧善懲悪の倫理性に支えられて明るい。けれど、つけ加えられたような結末は一転してほの暗い。淋しい印象は婆やの死から発しているのはむろんだが、校長狸が「一月立つか立たないのに」と驚くほど、短期間に職を離れた坊っちゃんが、人を頼って街鉄の技手になったことにも起因していると思える。」


 「『坊っちゃん』は、国家が教育体系を整備したために生まれた、社会の新しい階層化を背景に書かれている。主人公坊っちゃんはそれとは逆に官吏になる途から外れ、中学教師というエリートからも外れ、立身出世から次第に落ちこぼれてゆく。行き着いたのが街鉄の技手である。

漱石が金銭について細かく記したのは、金のみがまかり通る世の中への反撥がある。主人公の身分を次第に零落させたのは立身出世主義への反撥がある。」(松山巌『群集』)

街鉄は「東京市街鉄道株式会社」のことで、技手は技師の下に属する。月給は25円。辞した中学教師の月給は40円なので、読者は妨っちゃんの新しい職と月収を知って、彼の零落を悟った。


■『坊ちゃん』に挿まれている金にまつわる話;

坊ちゃんは父母の没後、兄から600円を渡され、「是を資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使ふがいゝ、其代りあとは構はない」といわれる。彼は600円を200円ずつ使って3年間勉強しようと物理学校に入学する。その後、就職先の四国まで、学資の余り30円ほどをもって行き、「汽車と汽船の切符代と雑費」で16円ほどを使う。

宿代に少し見得を張り5円。団子2皿7銭。温泉の入浴料金8銭、氷水1銭5厘。教頭赤シャツの下宿は立派な玄関構えの家でありながら、家賃は9円50銭。「田舎へ来て九円五十銭払へばこんな家へ這入れるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやらうと思つた位な玄関だ」とある。

主人公坊っちゃんは、文中の記述から判断すると、明治15年4月か5月の生まれ。明治29年に母が亡くなり、明治30年春、兄は高等商業学校に、彼自身は中学校に入学する。いずれも5年制。明治35年正月に父が没し、その年兄弟共に学校を卒業する。兄は就職し実業家の途を進む。彼は7月頃、偶然通りかかった物理学校で生徒募集の広告を見て入学。明治38年9月頃、四国の中学に数学教師として赴任する。

もし清の思い通り、官吏になることを希んだのなら、坊っちゃんは中学卒業時点で、専門学校であろうと法律学校へ進むべきであった。このときから彼は清が思い描いた「将来立身出世して立派なものになる」コースから外れる。それでも物理学校卒はかなりの高学歴である。専門学校は坊ちゃんが卒業した時点では、まだ公私併せて50校ほどしかなかった。


坊っちゃんが辞めるきっかけとなる、中学校生徒と師範学校生徒との「衝突」;

坊っちゃんは 「中学と師範とはどこの県下でも犬と猿の様に仲がわるいさうだ。なぜだかわからないが、丸で気風が合はない」と考えるが、師範学校と中学校とでは求める人材が異なる。

師範学校は、卒業後10年間地元で教職に就くことが義務づけられている代わりに、学費は地方税によってまかなわれた。師範学校生徒は貧しい家庭の子弟が多く、上級学校へ進学する途は開かれていない。

逆に中学校生徒は学費は払わねはならず、資格を得ることもないが、より高い学業への途が残されていた。

各地の師範学校と中学校の生徒とが反目する原因は学歴の差にあった。学歴によって将来の身分が定まる学歴社会である。

■漱石は小説『坊つちやん』についてどう言っているのだろう。(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』より)


「漱石は『坊つちやん』を推賞してくれた英文学者の大谷繞石に、その返信の中で、登場人物の山嵐(堀田)の如きは、「中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事」、野だいこ(吉川)の如きは、「累々然としてコロガリ居」り、「小生も中学にて此類型を二三目撃致し」、「サスが高等学校には是程劇(ママ)しき奴」はなく、「(尤も同類は沢山)」ある。

要するに、「高等学校は校長抔に無暗にとり入る必要なさ故」、山嵐や坊っちゃんの如きものがいないのは、人間として存在していないのでなくて、「居れば免職になるから居らぬ訳」、と述べ、作者漱石の好みとして、「僕は教育者として適任と見倣さるゝ狸や赤シヤツよりも不適任なる山嵐や坊つちゃんを愛している」(『漱石全集』二二巻)と言う。


漱石は俳人村上霽月にも、『坊つちやん』を褒めてくれたその返信に、「赤しやつも野田もうらなりも皆空想的な人間」、津田の所(漱石が下宿した津田安五郎方)は少し書いたが、「過半はいゝ加減なもの」、「実歴譚でもない様に候」と答えている。褒めてくれる人は大概は愉快だといい、村上霽月もそう言っている。漱石は「ある人はあれをよんで」神経衰弱が癒ったと言っている」(同二二巻)と追記のように書いている。


また漱石は談話「文学談」の中で


人生観と云つたとて、そんなにむづかしいものぢやない。手近な話が、『坊ちやん』の中の坊ちやんといふ人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさへすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云ふてよいのです。                                (『淑石全集』二五巻)


と語っている。


4月10日

(漱石)

「四月十日 (火)、嵐。夜遅く、差出人の署名のない葉書来る。「先生は高名な文学者だから門標なぞなくても世間によく知れてゐるけれど、先生の門標を見ると雨風にさらされて文字が見にくゝなってゐる。どうせ門標を懸ける位ならはっきりした方がよいと思って新しいものを差上げる。お用ひにならうとなるまいと御随意です。


辻村鑑の記憶(昭和二十八年)による。この門標は、郵送してきたものではなく、打ち付けたものと想像される。古い門標をどう処理したかはよく分らぬ。」(荒正人、前掲書)


4月10日

啄木(20)の知らせで父一禍帰郷。その後啄木一家の宝徳寺再任の懇請により檀家一同協議の結果、すでに提出中の代儲住職中村義寛の住職跡目願を撤回、一被の再任を曹洞宗宗務局に願い出る。

4月10日

(露暦3/28)露、ゲオルギー・ガポン神父、殺害。


つづく


2025年10月27日月曜日

アイルランド大統領に強硬左派の68歳下院議員 野党の支持集め圧勝(朝日)

高市内閣7割超えも自民党支持率36% 石破政権より低い40代以上 - 日本経済新聞 ; 高市早苗内閣の支持率は74%と近年の自民党内閣では高い水準だった。一方で自民党の政党支持率は回復しきっていない。の揺り戻しがみえない。

大杉栄とその時代年表(660) 1906(明治39)年4月1日~9日 「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」(トルストイ会見に向かう徳富蘆花の日記)

 

徳富蘆花

大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。 より続く

1906(明治39)年

4月上旬

荒畑寒村、田辺より大阪・奈良・京都で遊び帰京。堺家に寄食し、「光」編集発行手伝い、「社会主義研究」「家庭雑誌」の雑務。夜は正則英語学校通い。

4月1日

京漢鉄道、全線開通。

4月1日

陸軍戸山学校、騎兵実施学校、野戦学校、要塞砲兵射撃学校、各開校。

4月1日

森鴎外(45)、功三級金璃勲章を授けられ、また勲二等に叙せられ、旭日重光章を授けられる。叙勲2ヶ月後、「常磐会」が創立され、山県有朋との関係は密接となる。

4月1日

京都博覧協会主催凱旋記念内国生産品博覧会、京都御苑内で開会(~5月31日)。

4月1日

第五高等学校工学部、分離独立して熊本高等工業学校設置。高等学校の専門学科、すべて解消。

4月1日

兵庫県の山陽鉄道播但線、新井-和田山間開通。

4月1日

(漱石)

「四月一日(日)、『ホトトギス』(四月号)で『坊っちゃん』を読む。原稿を遅らせたことが原因とは知りながらも、四月一日(日)に発売になっているとよいと思う。(発売は四月十日(火)である。定価五十二銭。部数五千五百部。発行間際に定価をあげ、部数も増やす)

高浜虚子宛手紙に、「模試験しらべで多忙しかも来客頻繁。どうか春晴に乗じて一日川があって帆懸舟の通る所へ行って遊びたい。夫から東京座の二十四孝といふものが見たい。」と述べる。

島崎藤村の『破戒』、三分の一ほど読み、商涼虚子・森田草平宛手紙で激賞し、一読を勧める。

四月三日 (火)、『破戒』読み了え、深く感動する。


近松半二と竹本三郎兵衛合作の時代物浄瑠璃で『本朝廿四孝』が原題である。」(荒正人、前掲書)


4月1日

アルバート・アインシュタイン、ベルン特許局2級技術専門職に昇進。年報4500スイス・フランに上がる。

4月1日

サンフランシスコで日本人学童の排斥事件が起こる。

4月1日

幸徳秋水、桑港平民社で婦人講演会。

7日、オークランドで社会主義研究会。

4月2日

労働者観桜会

4月2日

9月1日からの大連港開放、閣議決定。

4月2日

急行列車券規程公布。

4月16日、新橋~神戸間に最急行列車運転開始。150マイル未満1等1円、2等60銭、3等30銭。急行料金徴収の最初。

4月4日

大韓自強会結成。

4月4日

徳冨蘆花(37)、横浜港から備後丸で出航、トルストイ訪問の旅に出る。8月4日帰国。

蘆花は、伊香保を出て、安中教会で柏木義円牧師に頼んで妻に洗礼をしてもらった。

東京の兄蘇峰の家で旅行の支度をした。手持ちの600円余では旅費に足りないと言って、兄は金をくれたがったが、それを断り、郵船備後丸の特別3等切符を買った。

妻は、かねて志していた英語を習うために東洋英和女学校に臨時生徒として入学し、その寄宿舎に入り、健次郎の本の印税で暮すことになった。

船が神戸に入ったとき、蘆花は京都で関西旅行中の兄と一緒になり、姉の湯浅初子を訪ねたり、新島襄の基に詣でたりした。

7日、神戸を出帆。見送りに大阪の出版社で、雑誌「小天地」を出していた金尾文淵堂の若主人金尾種次郎が乗っていた。金尾は門司まで蘆花に同行するという。彼は何とか蘆花の本を出版したいと思っていた。

蘆花が聖エルサレムとトルストイ家を訪う旅に出ると聞いて、彼は何とかして旅行記の出版権を得たいと考えて、門司まで備後丸に同行したが、それは叶わなかった。

9日、門司を抜錨。


彼の日記。

「さらば日本よ。余は爾(なんじ)を愛せざる能はず。爾は幼稚なれども、確に大なる未来を有す。爾が理想を高くし、志を大にし、自ら新(あらた)にして、此美なる国土に爾を生み玉へる天の恩寵に背かざれ。爾の頭より月桂冠を脱ぎ棄てよ。『剣を執る者は剣にて亡びむ』。知らずや、爾が戦は今後、爾が敵は北にあらず、東にあらず、西にあらず、はた南にあらず、爾が敵は爾、爾が罪、爾は爾自身に克たぎる可からざるを。」


蘆花の特別三等室というのは、左舷の下甲板にある四毘半ほどの室であった。室には洗面台が一つあり、室の三方の壁に、上下二つずつの寝台が計六つ作りつけになっていた。同室の客は、南米のブラジルに行くという人が一人、イタリアのミラノにある博覧会に行くという人が二人、またオーストリア人の新聞記者で、女のことで刑に触れたという噂のある男が一人だった。

扉を開くと隣室が並の三等室で、そこは寝台と言っても蚕棚のようなものに蒲の筵を敷いただけのものが並んでいる薄暗い室であった。そこにいるのはアメリカへ行く学生、濠洲に行く労働者などの日本人、それから中国人達であった。

一二等の室には外交官、陸海軍の武官、文部省からの留学生、船会社の社員などで満員であった。その中に左団次と松居松葉がいた。

船は上海に3日、香港に2日、シンガポールに3日、ペナンに2日、コロンボに3日という順で寄港し、コロンボからエジプトのポートサイドまでは2週間どこへも寄港せずに進んだ。

4月7日

廃兵院法公布(法)。戦闘または公務傷痍軍人救護施設。

8月6日廃兵院条例公布(勅)。陸軍大臣の監督下で、所在地所管師団が管理、入院資格など規程。

4月7日

啄木(20)、渋民小学校への就職の件について村役場から呼び出しを受け、履歴書を提出する。

4月7日

イタリアのヴェスヴィオ火山噴火。死傷者数百人。

4月7日

モロッコ問題に関するアルヘシラス議定書調印。

4月8日

仏、労働総同盟(CGT)、8時間労働を要求してゼネスト。パリに軍隊集結。

4月9日

「(四月九日 (月)、渋川柳次郎(玄耳)、熊本市に帰還する。やがて、第一師団法官部へ転勤の命令受ける。四月末に、家族と共に麻布区市兵衛町 (現・港区六本木) に居を樅える。)」(荒正人、前掲書)

4月9日

露仏借款成立。


つづく

2025年10月26日日曜日

米ワーナー再編 台頭する新メディア王、言論に「トランプ勢力圏」(日経); パラマウントを併合したスカイダンスは傘下のCBSテレビでトランプ批判を押さえつけた。このままワーナーも買収するとCNNまでがトランプ翼賛体制に取り込まれ、テレビはNBCを除いてすべてトランプに屈する / ABCテレビの親会社ディズニーはトランプとの対立を避けて和解。新聞はワシントン・ポスト紙のオーナー、ジェフ・ベゾスがトランプにひさまずき、ニューヨーク・タイムズ紙だけがトランプと孤独に闘っている状況。     

ウラジミール・プーチンとヴィクトル・オルバンに反抗し、ハンガリーの抗議者たちが独裁主義に反対する声を上げるために街頭に繰り出しました。このことは主流メディアではほとんど無視されています。

高橋純子氏(サンデーモーニング); NHK党が参院で自民党会派に加わった。 立花さんは インタビューで選挙は金儲けと言った。バカどもの力を使う、人から命令されることに慣れている人たちと言った。 その勢力と手を組む。一方 裏金議員 を堂々と復権させた 自民党はずいぶんハレンチな政党になった

 

大杉栄とその時代年表(659) 1906(明治39)年4月 蒋介石の初来日 初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

 

日本留学時の蒋介石

大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 ) より続く

1906(明治39)年

4月

三井物産会社、三泰紡織有限公司設立。

4月

海老名弾正「国民の洗礼」(「新人」)。国家至上主義。

4月

添田唖蝉坊の登場

この年の春、荒畑寒村は堺家に居候して『光』『家庭雑誌』『社会主義研究』などの編集を手伝っていた(『うめ草すて石』)。その頃、世間でラッパ節という俗謡が流行っていたので、『光』でも社会党ラッパ節を募ったところ、多くの投書が集まったので面白いものを誌上に載せた。すると、ある日、「長髪白皙の美じょうぶ」が訪ねて来て堺に面会を求めた。

寒村は、どこかで見たような男だと思いながら堺に取り次いだ。男は添田唖蝉坊と名乗り、社会党ラッパ節を版に刷って売ることを許可してほしいという。もちろん堺に異議があるはずがない。その会話を聞いていた寒村は「この男だ、横浜の遊廓へ毎晩のように歌の呼び売りに来たのは」と思い出したという。娼妓たちが美声に聞き惚れていた壮士こそ、堺を訪ねてきた唖蝉坊だった。

その後、唖蝉坊の妻のタケも社会主義運動に加わり、堺の妻の為子と一緒に電車賃値上げ反対のビラをまいて警官に検束されたり、西川光二郎の妻の文子らと婦人演説会を開催している。

添田唖蝉坊が1916(大正5)年に出した『唖蝉坊新流行歌集』の序文は、堺利彦が書いている。

添田唖蝉坊の流行歌は、諷刺が利いていて思わずニヤリとせずにはいられないものが多い。「ア、ノンキだね」とくり返す大正時代の「ノンキ節」も広く知られているが1907年につくられた「あゝ金の世」など、現代の日本を皮肉った歌のようにも思えてくる。

堺の2歳年下の唖蝉坊は、横須賀で働いていたときに壮士節を聴いて感激し、各地を放浪しながら壮士節を歌うようになった。条約改正、廃娼問題、選挙干渉など政治に関する話題を歌にし、歌詞を印刷した冊子を売って日銭を得た。彼が通りに立って歌い始めると、黒山のような人だかりになったという。

1941(昭和16)年出版の『唖蝉坊流生記』には、時節柄、社会主義者との交友についてはあまり書かれていない。同書で唖蝉坊は堺との出会いを次のように述べている。

私は堺枯川を元園町に訪ねた。敬ふ気持ちがあつたが、着流しに兵児帯を無雑作に巻きつけて、「わたし、堺です」と出て来た、そのはじめての印象がよかつた。其の時堺氏は「家庭雑誌」をやってゐたが、一方新聞に、ラッパ節の替唄を募集したのが恩はしくないので、私のを入れたいといふのであった。私はラッパ節を新作した。社会主義喇叭節と題したら、社会党喇叭節の方がいゝといふので、私は党といふ字が嫌だつたが、それに従った。

4月

この頃、蒋介石(19歳)、第一回目の来日

明治39年、清国で日本留学ブームが起きていた年、蒋介石(19歳)は、軍人に憧れて矢も楯もたまらず、なんの準備もなく郷里の浙江省を出てきてしまった

そして、日本に来てみて分かったこと。日本陸軍士官学校へ入学できないのは無論のこと、その前段階として日本にある清国人専用の軍人予備学校にも入る資格がない。しかも清国人専用の軍人予備学校へ入るには、まず清国国内の軍人学校の学生になり、清国政府の実施する選抜試験に合格して正式に派遣される必要があった。

途方に暮れたが、気を取り直して日本語でも勉強しようと、日本へ亡命した改良派知識人・梁啓超が創設した清華学校へ入学した。

・・・清華学校は日本語以外に英語や代数、三角、幾何、物理、化学などの全科履修生がいたほか、1科目だけ選択する専科履修生もいた。蒋介石がどのような身分で在籍したかは不明だが、子供時代から頑固で気性が荒く、勉強嫌いで落ち着きがなかったというから、日本語だけの専科履修生だったと推測される。清華学校は、蒋介石が学んだ後に短期間で閉校されてしまう。

蒋介石は1887年10月31日、浙江省奉化県(現、奉化市)渓口鎮の塩商人の家に生まれた。父・蒋粛菴は働き者だったが、次々に妻に死に別れ、三番目の妻・彩玉との間に蒋介石を長男として4人の子供が生まれた。蒋介石、幼名は周泰、学名を志清、字は瑞元、号を介石という。後半生は、辛亥革命後に孫文から拝命した「中正」をずっと名乗りつづけた。

彼は幼時より頑強な体格で、無鉄砲なうえに人一倍我が強かった。5歳から家庭教師についたが長続きせず、祖父と父親がつづけて亡くなったことから家産が傾いた。

母は孤軍奮闘して子供たちを養い、14歳になった蒋介石に4歳年上の毛福梅を嫁に取らせたが、遊びたい盛りの蒋介石は結婚に興味がなかった。16歳になった1902年、母は家庭教師毛思誠先生をあてがい、科挙の第一段階の子供用試験である「童試」を受けさせたが不合格。蒋介石は「もう二度と受験などしない!」と宣言して、勝手に新式教育を行う鳳麓学堂へ入学したが、激昂型の性格に手を焼いた周囲の学生たちから「紅臉将軍」(真っ赤な顔をして怒る威張り屋)とあだ名をつけられ、ここも2年で退学。

今度は軍人になりたいと言い出して、勝手に日本へ行ってしまった。後のことだが、母親から子供を作るよう懇々と説得された蒋介石は、日本と郷里を行ったり来たりしながら、1910年3月、22歳のときに長男を授かり蒋経国と名付けた。

初来日して、東京で日本語を学んでいたところへ、幼なじみの周淡游が留学してきた。彼は警察官を養成する東京警監学校に入学したが、ふたりは毎日のようにつるんで銀座へ繰り出し、遊び歩いた。その周淡游の縁で、同郷出身の陳其美と知り合った。これが蒋介石の未来を運命づける決定的な出来事となる。

陳其美(30歳)は、「冒険こそ天職なり」と公言して憚らず、上海の裏社会とも通じていた。蒋介石はすっかり魅了され、周淡游と3人で義兄弟の契りを結び「桃園の義兄弟」と豪語した。だが年の瀬になり、母からもらった留学資金もそろそろ底をつく頃、郷里の母から妹が結婚するから帰国せよと言ってきた。

1906年12月、蒋介石は日本滞在僅か9ヶ月にして帰国した。

帰国後は、郷里でぶらぶらしていた時、清国初の近代的な陸軍士官学校・通国陸軍速成学堂が創設されることになり、第一期生を募集するとの情報を耳にした。勇んで応募した蒋介石は首尾よく合格し、さらに日本語を少し話せることを売りにして、日本留学の選抜試験にも合格した。2年越しの日本への軍事留学の夢を叶えた。

4月

足尾で日本鉱山労働会結成。この頃、足尾銅山の長岡鶴造の労働至誠会に長岡の同志南助松が夕張炭坑から移り運動は活況を呈す。

4月

大阪・天満・金巾・三重・岡山の5紡績会社により、日本綿布輸出組合設立。満州市場への綿布輸出組合。1912年解散。

4月

富士製紙、富士工場改造。資本金460万円に増加。

4月

報徳会設立。

4月

ロシア、フランス銀行家、フランス政府後援のもと22億5千万フラン借款を露ツァーリ政府に供与。

4月

ロシア、第1回選挙でカデットが多数党に。

4月

ロシア社会民主労働党第4回統一大会(ストックホルム大会)。トロツキーは獄中にあり欠席。後、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキは再分裂。

4月

アンリ・マチス(37)、G.スタイン宅でピカソと会う。


つづく

2025年10月25日土曜日

戸塚の「七福」で昼飲み 2025-10-24

 10月24日(金、昨日)曇のち雨

前の会社の(私よりは)若い人が、ほぼ年一回ペースで「呑み」の声をかけてくれる。

いつもは関内とか桜木町なんだけど、今年は珍しく戸塚で、ということになった。

で、戸塚の「七福」というお店で昼飲み。

ハイボールを2杯戴いて、それから日本酒へ。いろいろ戴いた。

次に、昔よく行っていた焼鳥屋さんに行こうということになって、そこでは焼き鳥を少しと日本酒を戴いた。













▼昔馴染みの焼鳥屋さんで、、、


同志社大学吉田徹教授 ⇒クルド人コミュニティで問題になっている川口市の犯罪率は20年前の四分の一に落ちている。 それを「一部の人たち」と一部の政治家が言う。政治家がやることは不安感を煽ることではない。 / 久江雅彦さん ⇒小野田紀美さんの「医療費を払わずに帰国する事例が後を絶たない」と高市さんの「通訳が間に合わず不起訴に」「(外国人が)奈良のシカに暴行を加えている」発言は、両方とも当局は否定している。世界の真ん中で咲き誇れないですよ。捜査当局は信用できないと国内外に宣言している。         

松本洋平文科相の過去に非難が集まる…起用は「炎上商法」とまで言われ 南京事件の大虐殺を否定する映画に賛意?(読売)

大杉栄とその時代年表(658) 1906(明治39)年3月25日~31日 「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。」(「早稲田文学」の島村抱月の批評 )

 

『破戒』初版

大杉栄とその時代年表(657) 1906(明治39)年3月19日~23日 「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといって、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。...然しこの二つの矛盾は只余一人の性情ではない。一般人類に共通なる永劫不易の性情である。自己発展と自他融合と、この二つは宇宙の二大根本基礎である。.....茲に一解あり、意志といふ言葉の語義を拡張して、愛を、自他融合の意志と解くことである。乃ちシヨウペンハウエルに従つて宇宙の根本を意志とし、この意志に自己発展と自他融合の二面ありと解する事である。」(啄木日記) より続く

1906(明治39)年

3月25日

清国、教育宗旨5条宣示。

3月25日

島崎藤村、『破戒』を自費出版。

四六判仮綴じ、切り落しで578頁、表紙は薄緑色を地にして、緑蔭を思わせる濃い青色で題字が印刷されている。口絵2葉、地図1葉入り、定価70銭。

藤村は、以後の著作をこの形式の自費出版で刊行し続ける積りで、この書の表紙に「緑蔭叢書第一篇」と刷り込んだ。

見返しには、「緑蔭叢書は藤村の著作を刊行するものにして、一年一冊もしくは二年一冊、成るに随ひ篇を重ぬるの予定なり。されば世にある多くの叢書に比べて、多少其性質を異にするもの。紙数の如き毎篇必ずしも、一定し難しといヘども、板本の素質はすべて読者のために親切ならむことを旨とす。」とある。

扉には、「この書の世に出づるにいたりたるは、函館にある秦慶治氏、及び信濃にある神津猛氏のたまものなり。労作終るの日にあたりて、このものがたりを二人の恩人のまへにさゝぐ」と印刷されてある。藤村は浄書した原稿を製本して神津猛に贈った。

『破戒』の売れ行きは、予想をはるかに越えた。

この日、初版1,500部のうち製本の出来上った550部を神田の上田屋へ届けた。藤村は、本を積んだ荷車の後について、数寄屋橋の秀英舎から神保町の上田屋まで、足駄ばきでついて歩いた。そして、店員たちに丼ものを取って労をねぎらった。だがその本の部数が揃わぬうちに売捌店からの取りものが殺到して、それに応じ切れなくなり、やむなく上田屋では本を2階に隠し、28日になって全部揃ってから売り出した。

発売の広告の出たのは4月1日であるが、5日頃すでに再版1,500部の印刷に取りかかった。その売れ行きは藤村を喜ばせたが、また不安にもし、薄気味悪くも感じさせた。

藤村が『破戒』を書いている間、妻の冬子の苦労は大きかった。

上京早々2歳の三女を失い、そのあとお産をした。仕方なく女中を使ったが、出版計画のために家計は極度に切りつめなければならなくなった。そのためか彼女は栄養失調になって夜盲症にかかった。

「破戒」再版を印刷中の4月7日、5歳の次女孝子が急性腸カタルにかかり、本郷の大学病院で急死した。

更に、7歳の長女緑は5月末頃からハシカにかかり、経過がよくなく、大学病院に入れたが、6月12日、病気が悪化し、脳膜炎になって死んだ。

藤村は『破戒』の執筆出版のためにあまり生活を無理したので、妻は鳥目になり、3人の子供は栄養失調で死んだ、という伝説が文壇にひろがった。

『破戒』はこの年のうちに、更に3版、4版、5版と版を重ねた。

『破戒』の反響

「文章世界」4月号(第2号)で田山花袋が匿名による「時評」でこの作品を論じた。

「読売新聞」では、中島孤島が「閑是非録」なる欄で論じた。

正宗白鳥は「読売新聞」に「『破戒』を読む」を載せ、徳田秋江も「日日新聞」に同じ題の批評を書いた。

「早稲田文学」5月号は、大塚楠緒子、柳田国男、正宗白鳥、中島孤島、小川未明、徳田秋江、島村抱月の7人がこの作品の批評を書いた。


「早稲田文学」の島村抱月の批評

「『破戒』はたしかに我が文壇に於げろ近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪へぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝はつた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。我が小説壇に一期を劃するもの、若しくは劃せんとしつゝあつた幾多の前駆者を総括して、最も鮮やかに新機運の旆旗(はいき)を掲げたものとしては、予は比の作に満腔の敬意を捧ぐるに躊躇しない。(略)」

「文章世界」の田山花袋の批評

「(略)兎に角此作が、わが文壇に始めて自然主義の描法を完全に行はうとしたのは、確かなる事実であらうと思ふ。今迄にも随分自然派のカラーのあった作も作家もあつたが、それは唯ある動機に由つて其一局部が其思潮に触れたばかり、根本から其方針を以て筆を著け、徹頭徹尾、其思ふ所に進んだのは此篇を以て最初としなければならぬ。此点だけでも大に紹介する価値がある。」

正宗白鳥の批評

「(略)外部からの直接の迫害よりも、主人公が心中の苦しみ、疑心暗鬼を生じての不安の情を写し、又主人公を初めから潔白神の如き人とせず、新平民を恥とせずと理の上から信じながら、矢張これを恥として公明正大でない態度に出づる所の有るのか面白い。」

夏目漱石の4月1日付け森田草平(英文科3年)宛の手紙

「破戒は二三前買ひました。先日紅緑(*佐藤紅緑)が来て破戒の著者は此著述をやる為めに裏店へ邁入つて二年とか三年とか苦心したと聞いて急に島崎先生に対し(て)も是非一部買はねばならぬ気になりすぐ買つて来ました。(略)夫から半分程よみました。第一に気に入つたのは文章であります。普通の小説家の様に人工的な余計な細工がない。そして真面目にすらすら、すたすた書いてある所が頗るよろしい。(略)単に通人や遊蕩児や所謂文士がかき下すものと大に趣を異にして居るからです。まだ後半はよまないから批評は出来ないが恐らく傑作でせう。今迄の日本の小説界にこんな種類のものはなからうと思ふのです。(略)」

同じく4月3日付け葉書

「破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也。金色夜叉の如きは二三十年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ。君四月の藝苑に於て大に藤村先生を紹介すべし(略)」

3月25日

ハンガリー、アーヒム・アンドラーシュ、独立社会主義農民党結成。土地改革・普通選挙など要求。

11月5日殺害。党分裂。

3月26

駐日米大使、西園寺外相に満州における日本官憲の通商妨害に抗議。門戸開放、機会均等など申し入れ。

3月26

大日本麦酒株式会社創立。日本麦酒・大阪麦酒・札幌麦酒の3社が合同。

3月27

八幡製鉄所第1期拡張計画案、議会通過。鋼材18万キログラム目標。

3月27

鉄道国有化について。

三井財閥をバックにした竹越与三郎が「国有鉄道は富豪退治であると云ふかも知らぬが、決してさうではない、富豪保護である」と国有化賛成演説。

対象となる17社の買収額は、実際の建設費3億3,889万円の約1.4倍、4億7,054万円。それに加え、各社の貯蔵物品や事業分の費用を足し、借入金を差し引きした額に5分利付きの公債を発行した。あまりの巨額なため、10年かけて買収を完了することになった。

ここに眼をつけ、私鉄各社は法案成立後も工事を申請。100円で工事を行うと、単純計算で国は290円で買い取らねばならない。

法案公布後の1ヶ月間に、申請された工事費は1,200円にのぼり買収額はその倍の2350万円となった。

3月28

第22帝国議会閉会。

鉄道国有法案に関する修正箇条を朗読し、採決しようとすると)「進歩党より無用々々の声盛んに起り、政大両派は之に反抗し・・・大騒擾を惹き起せり」(東京朝日新聞)

3月28

第7回日比谷焼き打ち事件公判

3月28

長崎県高島炭坑貝瀬坑でガス爆発。坑夫332人死亡。

3月31

京釜鉄道買収法公布(法)。京釜鉄道を韓国統監府所轄とする。

3月31

駐日英大使、南満州において日本軍がロシアの満州占領当時よりも欧米人に対し閉鎖的行動をとっていると、伊藤博文韓国統監に対して善処を求める。清国側も日本の軍政が続いていることに強い不満を持つ。

3月31

関税定率法改正公布。関税自主権回復に向けた第一歩

3月31

鉄道国有法公布。一地方の交通を目的とする鉄道を除き、すべて国有化。10年以内に日本鉄道など17の私鉄を買収。10月1日施行。1907年10月1日買収完了。 

3月31

朝永振一郎、誕生。

3月

(漱石)

「三月末(日不詳)、島崎藤村の『破戒』を買い、読み始める。」(荒正人、前掲書)


つづく