2025年10月1日水曜日

大杉栄とその時代年表(634) 1905(明治38)年12月1日~6日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起③;蜂起前夜〉 12月6日夜の第4回モスクワ・ソヴィエト会議 翌7日正午を期してのゼネスト突入決定 激「全ての労働者、兵士、そして市民へ」採択 署名者はモスクワ・ソヴィエト、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルの各モスクワ組織

 

モスクワ蜂起における労働者のバリケード

大杉栄とその時代年表(633) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起②;11月22日モスクワ・ソヴィエト結成前後〉 モスクワ・ソヴィエトは地区ソヴィエトを従えた(モスクワ市17地区全てに結成されてはいない)。ペテルブルクでは全市ソヴィエトが強力で地区ソヴィエトは弱体であったが、モスクワはその逆で、なかでもプレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエトはモデル的活動をなしたとされている。 より続く

1905(明治38)年

12月 

〈1905年12月モスクワ武装蜂起③;蜂起前夜〉


12月初

全ロシア鉄道同盟ニコライ線ペテルブルク委員会が結成。

12月2日

ペテルブルク・ソヴィエト「財政宣言」。

翌3日、267人の大量逮捕で壊滅的打撃を受ける(第1次ペテルブルク・ソヴィエトの崩壊)

その際、当局が押収した3日の執行委員会議事録には、執行委が12月5日に予定されている全ロシア鉄道同盟と連絡をとって、組織的ストに即刻入り、それを武装蜂起へと至らすこと、とあった。

ペテルブルクでは、モスクワに一歩先行してゼネスト→武装蜂起の実施を図ろうとしていたが、ソヴィエトを失い、ペテルブルク側はその実現をモスクワに頼ることになる。

12月2日

ツァーリ政府、軍事裁判でそのスト参加者を4ケ月〜16ケ月、その指導者を4年以上拘留する「臨時規則」を出し、同時に運輸相は全ロシア鉄道同盟を「禁じられた組織」として鉄道当局がそれと関わらないことを命じる。

12月2日

モスクワ守備隊第2擲弾兵ロストフ連隊の反乱

この日朝、連隊司令官シマンスキーが好ましからざる下士たちの逮捕を開始したので、志願兵らが先導して、中隊ごとに「武器を取れ」と伝えると、蜂起になった、という。

まず反乱したのは第1、第2大隊で、それに第3、第4大隊と機関銃中隊が合流した。反乱兵たちは士官を兵営から追い出して、各中隊から1名を選出し、連隊を「運営する」ための連隊委員会を結成し、さらに要求の作成に着手し、あわせて連隊を防衛するために機関銃を各所に配した。この2日の夜、兵士の気分は高揚し、実戦の前にやるように、彼らの多くが下着を替えた。

同夜、モスクワ軍管区に各部隊司令官が集会し、対策を講じたが、誰もが反乱拡大をおそれ、自分の兵士を鎮圧に差し向けようとはせず、トヴェーリから騎馬砲兵を呼ぶことのみを決めた。


12月2日

この日、モスクワのプレスニヤ=ハモフニキ地区ソヴィエト会議(11企業43人出席)。

軍隊兵士の動向について検討して、兵士革命運動をフォローし、それをプロレタリアート運動に協調させること、モスクワ・ソヴィエトに武装蜂起の可能性を伝達し、工場集会で兵士との連帯を煽動することを確認。

絹織物工場ジロー(労働者3,600人)の代表は、幾つかの連隊の兵士と同工場労働者が接触しており、前者が後者に武器取り扱い方法を教授していると報告。

12月3日

労働者らは既に街頭行動を開始。警官との間の武力衝突で警官1名が死亡。警察資料は逮捕したその発砲者は労働者武装部隊と推定した。


12月3日

ロストフ連隊兵営の集会で、連隊委員会が徹夜で作成した要求が報告された。それは憲法制定会議召集、土地の社会化、死刑廃止、政治犯釈放、軍隊の警察的任務の廃止、兵役を二年に短縮、生地での軍務、極東からの軍隊帰還〔促進〕、当該蜂起参加者への恩赦を内容としており、連隊当局へ提出された。この日、兵営外へ打って出ることが再々議論されたようだが、結局は実行されない。要求が一部の新聞に載ったこともあり、他連隊の動向が注目された。

この日夜、最初にして最後の兵士ソヴィエト結成会議がひらかれた。それには46弾子連隊、3工兵大隊、1カザーク連隊、革命3党派軍事組織から130人程が参加。各隊の代表は兵士たちが革命に共感的で、彼らは市民の蜂起を支持し、抑圧することはしないであろうと口々に述べたという。

しかし実際は、ロストフ連隊兵士たちと革命家たちとの接触はうまくいってなかった。兵士集会に出たボ.リシェヴィキとエスエルの煽動家は演説して、兵士らに極めて不愉快な印象を与えた。革命のテーマ全般を語る彼らの言葉は兵士たちには理解不能で、しかも不用意なことに、彼らは何回ともなくツァーリに否定的に言及した。また、やってきた婦人煽動家が語り、「女もまた俺たちを教えようとした」ことは彼らの好まぬところであった。さらにある煽動家がピストルをバンドにつるしていたことも兵士には不作法に見えt。

モスクワ軍管区参謀本部長が1893~6年徴兵兵士を予備役とし、1897~8年組を除隊させるだろうという士官らの話や他の連隊では1901年徴兵兵士の除隊がなされているという噂も、これ以上反乱を続ければ「恩恵」にあずかれぬと考える兵士に大きく作用した。また、彼らは12月6日にツァーリがなすであろう約束にも期待をかけていた。


12月3日

モスクワ鉄道管理局の全線代表者たちが要求作成に集合。一部代表者から郵便電信ストに連帯する形でのゼネストが主張されたが、事態の流動性を考慮して決定は保留された。

12月4日

280人が参加した電気機械組立・据付け工集会ではロストフ連隊の反乱について煽動があり、全員が最後まで闘う意思を表明した。

こうしたモスクワの労働者の高揚も革命派たちの重い腰をあげさせるのに寄与した。


12月4日

この日朝、ロストフ連隊委員会の集会

参加した兵士らは、自分たちを公然とツァーリに敵対させようとしているとして、運動指導者たちに強く不満を述べ始めた。特に第3、第4工兵大隊の兵士たちはこれ以上の反乱継続を望まないと宣言して大隊へ戻り、司令官の命を受けた兵士が連隊委員会を逮捕した。

かくしてロストフ連隊では57人の逮捕者を出して、わずか2日間の反乱は終った

反乱は「日本人とユダヤ人が組織した」とする風説が広まった。


12月4日

「鉄道戒厳状態規則」が勅令として出され、鉄道管理局、軍隊移動担当者、鉄道憲兵部担当者から成る特別委員会がつくられ、それは懲罰列車を管理した。

12月4日

ボリシェヴィキ中央委員会の代表としてペテルブルクからモスクワヘリュビッチが来て、ボリシェヴィキ・モスクワ委員会に蜂起の主導権をとるように言い、大きな議論になった。この時点で同委は自己の力量を疑っていて、蜂起準備は完了していないと考えていた

12月4日

モスクワ・ソヴィエト第3回会議。

「財政宣言」への署名を決定した後、兵士運動への対応を議論したが、労働者代議員から、ロストフ反乱を全市的蜂起への契機にしえなかった執行委及び革命諸党派に対する非難が相次いだ。兵士の気分はまだ高揚しているとする状況認識のもと、兵士の革命的気分の衰退と政府の攻勢とを阻止するために、ソヴィエトと革命諸党派はゼネスト=蜂起を即時に提起することを強いられるところとなった。

しかし、彼らはここでも独自にそれへ踏み切る自信はなく、翌5日に全工場労働者の集会でこの問題を検討し、そこでの労働者の意向に依拠して、次のソヴィエト会議で最終決定をなすことにした。

12月4日

この日、メンシェヴィキ全市協議会。250人の出席。

ペテルブルクでは労働者がゼネスト入りをめざし、その勢いをかろうじて抑制していること、ロストフ連隊では多数の逮捕者を出したが、兵士の気分は逆に高揚していること、モスクワの工場労働者はいつでも動ける状態にあること、等を特に印刷工労組代表が発言し、全体としてはメンシェヴィキが運動を主導していることを示すために、それに踏み切るべきことを確認。

〈12月前半の兵士の状況〉

モスクワ蜂起時の兵士の動向は、全国的には下降線にあった兵士革命運動の中に位置づけられる。

兵士の反乱は11月後半にピーク。10月末に15件、11月前半に44件、11月後半に89件、12月前半に50件に低下、12月後半は16件。モスクワ武装蜂起の12月前半期の内訳は、15件が満州とシベリアからヨーロッパ・ロシアへの帰途で、11件がカフカースで各々発生し、残るほとんどが12月第一週に中央部ロシアで起きている。

12月5日

29路線代表者協議会(議長はペレヴェルゼフ)、鉄道ゼネストを表明

代表者のほとんどは鉄道ゼネスト不可避とみたが、全員が成功を確信していた訳ではなかった。

ある者は、協議会はゼネスト宣言問題で一致していず動揺していたが、一般労働者の革命的気分に押されて、ゼネストに賛成したといい、別の物は、協議会はゼネスト成功を疑っていたが、ソヴェトと左翼諸党派はそれを決めており、中央ビュローはそれを避ける可能性を見い出せなかったとする。更にある者は、協議会は戦闘的気分からほど遠く、ボリシェヴィキが直接鉄道労働者に訴えるとおどしたので、協議会は慌ててゼネストを認めたという。

従って、全ロシア鉄道同盟が自らすすんで鉄道ゼネストの主導権をとったとは判断しにくい。


12月5日

この日、モスクワで労働者集会。労働者は高揚し、蜂起を当然視する雰囲気にある。

この日夜、プレスニャとハモフニキの幾つかの交番が労働者により襲撃され、警官4人が死傷。

この日夜、フィードレル実科学校でボリシェヴィキ全市協議会。

軍事組織者ヴァシーリエフは革命側の軍事力は900〜1,000人(ボリシェヴィキとエスエル各300、メンシェヴィキ100、他300)であり、一方、モスクワ守備隊1万4,999人のうち、政府に忠誠なのは4,000人と推定されると発言。出席した全ロシア鉄道同盟代表は自分達はゼネストを決定したといい、イスフもメンシェヴィキ協議会はそれを認めたと報告し、ペテルブルクからのリュピッチもモスクワ蜂起をうながした。

結果、蜂起への発展をふくんだゼネストを開始することが確認された。


12月6日

この日朝、連合委員会。

同日夜のソヴィエト会議に出すべきストライキ声明案の検討。ボリシェヴィキ側はゼネストと蜂起を同時によびかけることを主張し、メンシェヴィキ側は同時に蜂起を言うことに反対し、結局、妥協して、ゼネストをよびかけるが、その際、出来る限りそれを武装蜂起へと転化するよう努力することで一致した。

運動の指導主体として、「情報ビュロー」を指導部とする提案が出され、これに連合委の他、エスエル2人と全ロシア鉄道同盟1人を加えることにした。


12月6日

この日夜、モスクワ・ソヴィエト会議(第4回)

出席した29路線代表者協議会代表たちは各線に適当な指令を出すためソヴィエト側からのスト宣言の合図を待っていると述べた。鉄道側からペレヴェルゼフが「連合ソヴィエト」に入った。

結果、翌7日正午を期して、ゼネスト突入が決定された。そして、激「全ての労働者、兵士、そして市民へ」が採択された。


「同志の労働者、兵士そして市民の諸君!

(略)

同志の労働者、兵士そして市民諸君、闘いに勇敢であれ!

犯罪的ツァーリ政府打倒!

ゼネストと武装蜂起万才!

普遍的憲法制定会議万才!

民主共和国万才!」


ゼネストと武装蜂起を手段として、人民代表制的な憲法制定会議を制定し、それを通じて民主共和国の実現をめざすことをうたったこの激の署名者はモスクワ・ソヴィエトとボリシェヴィキ、メンシェヴィキそしてエスエルの各モスクワ組織である。

蜂起の決定過程で明らかなことは、

①逡巡を重ねつつのなし崩し的な決行に至った

②準備の悪さが目立ち、ゼネストから蜂起へどう成長転化させるか具体的プログラムに欠けていた

③その一方で、革命3党派と同盟のいわばゆるい統一戦線が結成された

だが、こうしたゼネストへの動きに連動して、中間層は10月程動かない。これまでのラジカルとリベラルの共闘はここで終る。


つづく


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