1905(明治38)年
12月
〈1905年12月モスクワ武装蜂起②;11月22日モスクワ・ソヴィエト結成前後〉
10月26日
クロンシュタットに水兵の暴動。勤務・待遇の不満。10月ストライキ、労働運動の高揚が大きな影堺を及ぼす。
翌27日、ぺテルブルクから派遣された軍隊により鎮圧。
10月29日
ペテルブルク・ソヴィエト会議、殆ど討論することなく満場一致で、賃金基準の引上げ、10月31日からぺテルブルクの全工場が8時間労働に入ることを決議。
〈政府側の反撃;バルト県とシベリヤへの懲罰的軍事行動〉
11月~12月、バルト諸県へペテルブルクの最強軍団で編成された懲罰隊を派遣。革命に対して体制側がとった最大の軍事行動となり、約1,000人の犠牲者を出して、1906年1月末までに同地方を鎮圧。また、シベリアに対しても、モスクワ蜂起以前ににこうした組織的計画的な懲罰がなされた。
周縁地方での軍事行動は体制維持に直接役立つとともに、全国に政府側の革命に対する攻勢を印象づけるアピール効果も大きかった。
11月2日
この日、ワルシャワ線のペテルブルク駅でスト入りして急行列車を止める。
3日、ニコライ線とバルト線の機関士は列車運行を拒否。
クロンシタット水兵に対する軍事裁判及びポーランド戒厳令施行に抗議するペテルブルク・ソヴェトが8時間労働日導入の勢いに乗って、ペテルブルク・ソヴィエトが打ち上げたゼネストに呼応。
しかし、全ロシア鉄道同盟中央ビュローは全体としてスト参加をみあわせる。新たな鉄道ゼネストにそなえて力を温存した。
11月11日
セバストポリで軍隊反乱。政府軍が鎮圧。
11月12日
ペテルブルク・ソヴィエト会議、「即刻の、あらゆる場所での8時間労働」は一時的に中止せざるを得ないと結論
11月13日
トロツキー(26)、メンシェヴィキと協力して大衆的政治機関紙「ナチャーロ(出発)」創刊
11月22日
第1回モスクワ・ソヴィエト会議。
11月初旬、専門職業家連盟、全ロシア鉄道同盟、そしてそれらのストライキ委員会に対抗すべく、メンシェヴィキとボリシェヴィキが一致して、両派の共同行動調整機関としてロシア社会民主党モスクワ連合委員会が結成され、この連合委が中心となってエスエルにも呼びかけてソヴィエト結成のはこびとなった。
執行委員会は3党派各2人、地区代表労働者8人の計14人構成。このうち党派の6人が幹部会を形成し、実質的にモスクワ・ソヴィエトは社会民主党系がリードするところとなった。
このソヴィエトは蜂起までに計4回の会議を開催したが、代議員は200人規模で、当時の労働者がメンシェヴィズムとボリシェヴィズムを明確に区別しえなかったこともあって、彼らの大半は無党派であった。
モスクワ・ソヴィエトは地区ソヴィエトを従えた(モスクワ市17地区全てに結成されてはいない)。ペテルブルクでは全市ソヴィエトが強力で地区ソヴィエトは弱体であったが、モスクワはその逆で、なかでもプレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエトはモデル的活動をなしたとされている。
地区ソヴィエトは当該地区工場の実態を検討し、ソヴィエト執行委の指令の具体的実施方法を考えたが、指令の解釈をめぐり執行委と対立することがありえた。地区ソヴィエトの行動は多分に自律的であり、蜂起時に地区相互間及び地区一中央間の連絡が分断すると、それはなかば自動的に当該地区の運動指導部となるよう運命付けられていた。
11月24日
11月中旬の郵便電信ストは広範な民衆の支持を得た。鉄道員は業務的性格からこれに深く関わる立場にあり、中でもニコライ線はこのストに熱心で、同線電信士は政府及び個人の暗号電報受け付けを拒否した。この動きは11月24日から12月4日まで続き、これにべテルブルク鉄道導電信士も合流し、12月初めには全ロシア鉄道同盟ニコライ線ペテルブルク委員会が結成され、運動の維持と展開が図られた。
11月25日
モスクワのプレスニヤ=ハモフニキ地区ソヴィエト会議は11工場から45人を集めて、工場管理をやり、集会の自由を得る必要を討議している。
11月25日
この日、モスクワ守備にあたっている第1ドン・カザーク連隊の2大隊、要求リストを出して、パトロール出動を拒否。他での兵士反乱の情報に刺激された兵士独自の動きであった。
11月後半期、革命3党派は各々、軍事組織を持っているが、それらが直接兵士を工作して、反乱に立ち上がらせた様子はない。
11月26日
モスクワ守備隊第3、第5予備工兵大隊、隣接する第221トロイツェ=セルギエフ予備歩兵連隊の大隊と合流して集会し、要求を提示。契機となったのは革命的な演説をした工兵の逮捕で、同僚たちはその即時釈放を求めると同時に他の要求も出した。
11月26日
ペテルブルク・ソヴィエト議長フルスタリョフ=ノサーリ、逮捕。新「執行ビュロー」にはトロツキーとオブホフ工場労働者ズルィドイネフ及びヴヴェジェンスキ=スヴェルチコフの3人が選ばれ、集団指導体制として再建された。
ソヴィエト多数派は即時抗議のゼネストを主張したが、全ロシア鉄道同盟が12月5日まで動こうとしないため、ソヴィエト側はゼネスト突入を一旦見送った。人々は同盟の動向に注目した。
11月27日
第2回モスクワ・ソヴィエト会議。
前日のべテルブルク・ソヴィエト逮捕の報を受けて政府の攻勢本格化を知り、緊張の中で、工兵を中心とする兵士運動との共闘が検討される。方向性は確認されても具体的対応を拱(こまぬ)いた。
工兵が出席して、武装蜂起を説き、武器庫のソヴィエトへの引き渡しを述べるが、ソヴィエト側は時期の悪さを理由にこの提案を斥ける。従来、モスクワ守備隊での反乱主唱部分は砲兵であったが、大半が極東へ派遣されたこと、更に守備隊への工兵補充にあたり、各隊の司令官らが「期待出来ぬ分子」を送り出してきたため、革命的な工兵が集積していた。
11月27日
モスクワ守備隊第2擲弾兵ロストフ連隊に工兵の動きを鎮圧すべく出動命令が下り、兵士たちに不満と嫌気が轡積してゆく。12月2日の反乱に繋がる。
11月28日
モスクワ=ブレスト線の活動家、逮捕。
11月29日
ツァーリ政府、鉄道員と電信電話局員のストに対し、地元当局に非常措置をとる権限を与える。
11月29日
~12月2日。工兵に続いて擲郷弾兵連隊等で各連隊毎の要求を追求する動きが出て来る。運動は要求追及にとどまっているうちに、12月1日、第4擲弾兵連隊の集会に同司令官が出てきて、12月6日にはツァーリが「兵士と農民に対する慈悲に関する詔書」を出すから、行動を自重すべきことを説いた
11月30日
カザン線の電信士5名が銃殺される。
つづく

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