1905(明治38)年
〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑦;本格的闘争期(12月9~11日)②〉
12月9日
〔プレスニャ地区の状況〕
この日、労働者は隊列を組んで街頭に出て、二ージナヤ・プレスニャで5,000人の示威行動となり、地区を一巡して、プロホロフ工場大食堂へ戻る。
午後1時、再集合し2,000人が中小工場の「はぎ取り」にがかる。300~400人がダニーロフカのアレクサンドル兵営へ向かうと、兵士たちは武装解除されて、街頭へは出れないと答えた。警官と交戦しつつ、シレーデル工場を停止させ、夕闇となったため、プロホロフへ戻る。
市中心部より立ち遅れたプレスニャでは、急いで組織的中心の創出に取りかかった。プロホロフ労働者イヴァノブが言うように、9日夜の集会で、プロホロフ労働者たちが指導者たちに決定的な行動を求めたことがこれらの組織化に作用をした。
プレスニャにはプロホロフに拠点をおく「革命委員会」と地区「部隊」の結集を図る「本部」の二大組織が並存していて、「部隊」長が両方に顔を出し、後者もプロホロフ(大食堂)に設置され、これら2組織の境界は不分明である。いずれにせよ、プロホロフ工場に革命諸党派と労働者らの統一戦線が形成されたことは確かである。
プレスニャで最もまとまって「部隊」が存在したのはマモントフ、シミット、プロホロフの3工場とブレスト鉄道である。
①マモントフ工場;9日に400人参加の集会を開いたが、蜂起反対者も多く、その場に残った30人程が全員「部隊」に入り、「部隊」長にシハーノブがなった。最終的に隊員は60人程に達した。この工場主は工場防衛のために武器を購入したが、それを労働者が革命のために使ったともいわれる。
②シミット工場;工場主シミットが労働者に協力的でり、12月以前にモーゼルとブローニングで武装した36人の「部隊」がすでにあった。シミットは、1904年の父親の死により、経営舎となった時は大学生で、1905年5月から9時間労働日を導入し、賃上げ、労働者医療、病気とスト時の賃金完全支給、労働者食堂や図書館の整備をやり、他工場のスト支援資金を提供し、夏期に帰村する労働者に農村に非合法文献の普及を依頼するなどをして、労働者から尊敬を集めていた。1905年革命時に革命派への資金提供をなしたことで著名なサッヴァ・モロゾフと並び、まさに革命的な資本家であった。
「部隊」の隊長はニコラーエフで、プロホロフ工場学校を卒業して同工場に入った後、モスクワ及び郊外の機械車掌製造工場、電気工場、ブレスト鉄道を経て、1905五年夏にシミット工場に仕上げ工として勤めた。その後、ペテルブルク・ナルヴァ地区で働き、11月末に再び同工場へ戻っていた。
③プロホロフ工場;工場主プロホロフはリベラルで学問好きな人物として労働者間で評判は良く、蜂起時も労働者への食糧供給を続け、12月9日には賃金も支給した。労働者代表はそれの1%をスト資金にした。
エスエル党モスクワ委員会の指示で、プレスニャ地区組織者となったモロゾフによれば、1905年秋にオルグをした結果、約30人からなる「部隊」がつくられた。同工場捺染工アクーロフ(=オシーポフ)は、工場付近のエスエルのアジトに秋にかけて武器を貯蔵したが、それでも武器は大変少なく、最終的に武装した者は200人にとどまった。
④ブレスト鉄道;関係する関連資料に乏しい。「部隊」長ロザノブは他の、特にグラチェフ工場の「部隊」がそこに加わっていたという。数的にはブレスト20~30人、グラチェフ15人という資料があるが、この資料は「部隊」員数全般を過小評価する傾向にあるものである。
「本部」は、これら「部隊」を統合し、組織的有機的な機動を期待して、12月9日には「部隊」を10組に分けたが、実際にはそのようには動かなかった。「部隊」自体が多様で、工場等の拠点毎に編成され、武装の度合いも異なり、しかも上部組織(革命党派)が不同で、一致した歩調を保つことが困難であった。さらに「本部」の指令が後手に回っていた。
「本部」にあてられたプロホロフ工場大食堂では、ボリシェヴィキのセドイ派とエスエルのメドヴェヂ派が半々に分かれて陣取っていたし、シミット「部隊」のニコラエフの回想によれば、各工場の「部隊」は独立単位であり、ようやく蜂起最終盤になって、シミットとプロホロフの両「部隊」の組織的結合が図られた。シミットのルキヤーノブによれば、「部隊」は絶えず市中心部へ行こうとしたが、どこからも指令がなく、それを果せないでいた。
こうした「本部」に対する不満を孕みつつプレスニャでの蜂起は進展した。中央にいたセドイに言うには、状況は全般的に良好で、「本部」はプレスニャを5つの戦闘区に分割し、各「部隊」に最寄り区を分担させ、特にクードリンスカヤ広場からプレスニャ関門までの「第一級の意味を有する」区を「本部」自体で担当したという。ここで言う分担ないし担当は、持ち場を確保するという意味であって、プレスニャから外部へ打って出るのではなく、プレスニャの防衛=解放区化であった。
更にセドイによれば、「本部」には財政、武器、弾薬、医療、裁判の各担当がいて、「政治審理局」なる懲罰機構もあり、その代表者フィドレロフスキーは労働者を厳しく扱ったカザークの大佐1名を銃殺した。12月8日ないし9日にはプロホロフの大食堂で2人の同志の「挑発行為」に対する裁判があり、自宅拘禁を決定している。「本部」はパン屋に地区住民向けにパンを焼かせ、居酒屋を閉鎖するなどもして、一時的にしろ、プレスニャはあたかも「自治共和国」となり、住民は「本部」を共和国政府とみなして、許認可をそこに求めた。
つづく

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