大杉栄とその時代年表(636) 1905(明治38)年12月8日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑤;ゼネスト突入期(12月7~8日)②〉 プロホロフ労働者(エスエル)・クラスノブの回想によれば、この日、近くの医師の所で、プレスニャとハモフニキの「協議会」(プレスニャ地区ソヴェト拡大会議と同じか?)があり、工場、鉄道、軍関係、郵便などから代表者が出席し、9日朝のスト開始を決める。 より続く
1905(明治38)年
〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑥;本格的闘争期(12月9~11日)①〉
12月9日
「12月の運動の中心的存在はモスクワであった。……
労働者1万人のデモにコサックが立ちはだかった。大混乱となった。赤旗を手にした2人の婦人労働者が群衆の中から飛び出してコサックの前に走り寄った。彼女らは叫ぶ――『私たちをお射ち。生きてるかぎり、この旗は渡しゃしないから』。コサックたちは呆然とし、ひるむ。決定的な一瞬である。動揺を感じとった群衆はここぞとばかり、『コサックたち、俺たちは素手でいくぞ、それでも俺たちを射つ気か?』と大声で叫んだ。『俺たちを射たなければ、俺たちも射たないぞ』、コサックたちはそう答えたのだ。あっけにとられ、頭にきた将校は気狂いのようにわめき散らした。だが手遅れというものだ。将校の声は憤慨した群衆の叫びにかき消されていた。誰かが短い演説をした。群衆は喚声を挙げてこれを支持した。まもなくコサックはライフルを肩にかけ直し、馬首を転じて走り去った。
人民集会の軍事的包囲は武装なき群衆に粉砕されたものの、それ以後、市内の空気は著しく緊迫したものとなった。群衆はますます膨脹しながら路上にひしめいた。あらゆる噂が、刻々生まれては消えた。誰の顔にも不安の入り混じった快活な興奮の色がある。当時モスクワにいたゴーリキーはこう書いている、『多くの者は革命家がバリケードを築き始めたのだと思っている。これは、もちろん誘惑的な考え方ではあるが、まったく公平だとは言えない。バリケードを最初に築いたのはほかならないごく普通の庶民であり、無党派の人びとであって、事件の核心もまたこの点にあるのだ。トヴェ一ルスカヤ街の最初のいくつかのバリケードは、陽気にふざけながら、絶え間のない洪笑のうちに築かれたのであって、値打ちものの外套を着こんだお堅い紳士から料理女や屋敷番にいたるじつにさまざまな、最近まで“揺ぎなき権力”の防塞であったような人びとがこの楽しい仕事に参加したのである。〔……〕竜騎兵がバリケードめがけて一斉射撃を加えた。数人の負傷者と2人か3人の死者が出た。激昂した号泣、一斉に湧き起こった復讐の叫び、そして万事が一変した。〔……〕一斉射撃があってからというもの、住民はもう遊び半分ではなしに、真剣にバリケードの構築を始め、ドゥバーソフ氏とその竜騎兵から自分の生命を守ろうとしたのである』。……
武装行動隊、つまり革命諸組織の軍隊式に組織された狙撃兵の動きはより活発になった。彼らは警察官に出会うことに徹頭徹尾その武装を解除した。
……ストライキ3日目になるともう軍隊との流血の衝突が始まった。広場で行なわれていた夜間集会を竜騎兵が解散させようとした。ストのため、広場はまっ暗だった。『兄弟たち、俺たちの邪魔をするな、仲間じゃないか!』。兵士たちは傍を通り過ぎていった。だが、ものの15分もすると多勢で戻って来て群衆に襲いかかった。闇と恐怖と悲鳴と罵声。群衆の一部は市電の待合所に避難した。竜騎兵はそれな明け渡すよう要求したの拒絶の回答。一斉射撃が何度か行なわれた。その結果、小学生がひとり殺され、負傷着が数人出た。良心に責められたのか復讐の恐怖にかられたのか、竜騎兵は走り去った。『人殺しめ!』最初の犠牲者をとり囲み、憤然として群衆は拳を握りしめた。『人殺しめ!』一瞬ののち、血のはねかかった待合所は炎につつまれた。『人殺しめ!』群衆は勘定のはけ口を探していた。彼らは障害をものともせず闇と危険の中を前進し、大声で叫んだ。再び発砲があった。『人殺しめ!』群衆はバリケードを築いた。彼らにとってこの作業ははじめての経験だったため、行動は不器用であり、組織だっていなかった。その闇の中で30人から40人の歌声が起こった。『血に汚れたる敵の手に、雄々しき君は斃れぬ…』。また一斉射撃。負傷者と死者がまた出た。近くの建物の中庭が救護所に早変わりした。」(トロツキー『1905年』より)
「モスクワ蜂起は9日から17日まで9日間続いた。モスクワ蜂起の戦闘要員はそもそもどれくらいの規模であったか。実際にはごく少数だった。政党の武装組織に入っていたのは700人から800人、うち社会民主党が600人、エスエルが200人から300人であった。また、火器で武装した鉄道員約500人が停車場や線路上で行動し、印刷工と店員から成る約400人の志願狙撃兵か補助部隊を形成していた。小人数の志願狙撃隊もいくつかあった。……
人数も少ない武装行動隊が、いったいどうやって何千人もの守備隊と1週間以上も闘うことができたのか。この革命の謎の解答は人民大衆の空気にある。街路、家、塀、通用門をも含めて市全体が政府軍に対して叛逆を企てたのである。100万の住民はパルチザンと正規軍のあいだに人垣となって立ちはだかった。武装行動隊は数百人の規模だった。しかしバリケードの構築や再建には大衆が参加した。さらに多くの大衆が活動的な革命家たちを積極的共感の雰囲気で包み、政府の計画をできるかぎり妨害した。この数十万の支持者はいかなる人びとから成っていたか。小市民、インテリ層、そして何よりも労働者である。政府の側には、買収された街のチンピラを別とすれば、資本家上層があるのみだった。モスクワ市会はいまや決定的にドゥバーソフの腰巾着に成り下った。オクチャブリストのグチコフだけでなく、のちの第2国会議長、カデットのゴロヴィーン氏も総督と馴れ合っていた。
モスクワ蜂起の犠牲者はどの程度だったか。正確なことはわらない。けっして確定されないであろう。47の診療齎・病院のデータによれば、負傷者886名、即死者および負傷後死亡した者174名が記録されている。しかし死老が病院に運び込まれたのはむしろまれであって、普通は各区の警察署に収容された後、秘かにそこから運び去られたのである。あの数日間に、即死者と負傷後死亡した者とで合計454人が墓地に埋葬された。しかし多くの死体は貨車で郊外に運び出されただけだ。蜂起の結果、モスクワの住民のうち、約1000人が殺され、それと同数が負傷したと推定して大過ないであろう。その中には乳児を含めて86人の子供がいた。これらの数字の意味するところは、プロイセン絶対主義が不治の傷を受けたあの1848年の3月革命の結果、ベルリンの舗道には183体の死体が残されただけであったことを想起すれば、ますます明らかとなるだろう。……
蜂起がいたるところで粉砕されたのち、懲罰遠征隊の季節が始まった。この公式名称が示すとおり、その目的は敵との闘争ではなく、敗者に対する報復であった。……
こうして絶対主義は自己の生存のために闘争したのだ。1905年1月9日から、第1国会が召集された1906年4月27日までに、概算で、ただしけっして誇張を含まぬ計算で、ツァーリ政府の手によって1万4000人以上が殺され、1000人以上が死刑に処され、約2万人が負傷(そのうちの多数は死亡)し、逮捕、流刑、監禁された者は7万人に及んだ。高価すぎる犠牲ではなかった。なぜなら、賭けられていたのはツァリーズムの存在そのものだったからである。」(トロツキー『1905年』より)
12月9日
労働者武装部隊の系統的活動開始
8日夜の劇場「水族館」大集会を軍隊が包囲し、大衆はかろうじて脱出したが、昂ぶった神経のまま夜を明かした。兵士の人民側への移行を期待し、現に兵士の対応は穏やかであったために、鎮圧者としての軍隊兵士の出現は人々を慌てさせた。運動指導部はデモの集会への切り替え、兵士との衝突回避を改めて指示し、集会は労働者武装部隊に防衛されて行なわれるようになった。
労働者武装部隊(以降、「部隊」)はこの年9月スト時に印刷労働者間に出現した。10月ゼネスト期のモスクワ大学包囲戦時には、学生間に『大学「部隊」』と『カフカース「部隊」』(同地方出身学生が構成)が存在し、黒百人組から集会を防衛した。10月20日のバウマン葬儀には数百名の「部隊」が葬列の防御に登場した。この後、自由業者・学生たちインテリらの「部隊」は合流して、『自由地区「部隊」』を結成し、さらに『守勢「部隊」』が自発的な住民組織として出現した。
従って、10月末には革命3党派、学生、インテリらの「部隊」を結集して『「部隊」長連立ソヴィエト』が形成された。その主任務は大衆的ポグロムに対する防衛であった。
12月蜂起では、地区住民により『守勢「部隊」』としての「自衛特別委員会」が登場したし。他に、鉄道員、党派も各々独自の「部隊」を有した。
12月9日
この日は各地区ソヴェトの集会が行なわれ、市周縁部には中心部とは全く異なる風景があった。
プレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエト集会では、16工場が高揚し、6工場は平常通りであるとの報告に続いて、ルイバコフ工場では、多くの労働者が農村へ戻っているといわれた。この労働者の帰村問題は時間の経過とともに大衆的様相を呈し、蜂起時の顕著な労働者行動様式となるが、運動の初期段階にすでにそれが出現していた。
ザモスクヴォレーチエ、ブトウイルスキー、ゴラドスコイの各地区ソヴィエトもこの日に集会をし、ザモスクヴォレーチエでは次の決定をみた。①ソヴェト執行委に工場主に対し工場から軍隊を遠ざけるよう依頼させる ②黒百人組的喫茶店の閉鎖③モスクワ市会にその全権解除とその全資本のソヴェトへの引渡しを要求④必要ある場合、巨大食料店を奪略⑤全ての集会は逮捕者釈放を要求のこと。
12月9日
この日のソヴィエト執行委員会は銀行からの預金引出し促進とパン屋が黒パンのみを焼くことの認可等をして、格別に戦闘戦術問題を議論してはいない。
12月9日
バリケードの構築が始まる。
この日夕方、ストラストナヤ広場での大衆集会(300~400人)を竜騎兵が包囲。竜騎兵は逮捕活動にとりかかり、人々は逃げ惑った。約50人は広場奥の市電停車屋へ避難したが、そこを攻撃され、コミサロフ技術学校生徒1名が死亡し、停車屋は燃上した。襲撃を受けた群集は、いわば本能的に身を守るためのバリケードを構築し始めた。さらに彼らは通りを北上して凱旋門広場に至り、そこで電信柱を切り倒してバリケードをつくった。
これらがこの蜂起時で最初のバリケードであり、組織的な指示はなく、極めて自然発生的になされた。
夜10時、凱旋門に150人程がやってきてバリケードを構築。見よう見まねで構築している一般住民の所へ「部隊」がきて、それを指導する、そして住民たちが「部隊」を支援するという光景が観察された。
バリケードの拡張は物理的に地区間の連絡を切断し、全市ソヴィエトの機能を低下させ、逆に地区ソヴィエトを活性化させることになる。
12月9日
この日夜、「フィードレル名称カルヴァン派教会実科学校」で行なわれた「部隊」員と鉄道員らの集会を竜騎兵と警官の一隊が急襲した。校長フィードレルは革命運動に共感し、同校がモスクワの革命派の代表的アジトであることを当局は知っていた。激しい戦闘となったが、爆弾を投じたが、結局、双方あわせて数名の死者と20名前後の負傷者が出て、同校は制圧された。後の起訴状によれば、逮捕115人程で、そのうち学生・生徒36人、鉄道員23人(モスクワーカザン線17人)であった。警察側は逮捕した「部隊」員をエスエル系と認定した。
この会戦を契機に、政府側は軍事的鎮圧のみにたよることとなった。総督ドゥバーソフは同夜半におよんで、軍事力で各個打破を図る極端な弾圧策の採用を決心し、さらに警察に従属する独自な民警を組織することにした。この民警は革命派が嫌悪をもってよんだ黒百人組である。
12月9日
兵士たちは動揺を続けていた。例えば、ノヴィンスキー・ブリバールに出動したカザーク500人は指揮官から人民への発砲を命ぜられたが、射たずに後退して、群集は歓呼の声を上げた。また、カザークがクードリンスカヤ広場で竜騎兵と衝突したと伝えられた。『イズヴェスチヤ』第3号はアレクサンドロフ兵営から歩兵連隊がマルセーエーズを歌いながら、ツィンデリ工場へ向ったと報じた。
つづく

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