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1905(明治38)年
〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑩;闘争後退期(12月12~16日)②から終焉へ〉
12月15日
第5回ソヴェト会議(ツィンデリ工場食堂)。モスクワ・ソヴェト最後の会議。出席80人。代議員には欠席が目立つ。
各報告は労働者の士気低下を指摘するが、闘争中止を言い出す者はいない。前日、態度を決めていたメンシェヴィキ代表も、それを主張せず、「同盟」とボリシェヴィキは闘争継続をいって、これが通る。しかし、闘争継続といっても、具体的戦術の検討はない。
右翼の活動が表面化。
この日、ソコリニキで大規模な愛国的示威行進が予定された。ツァーリの肖像と教会旗を掲げた市中へのデモであったが、当局は蜂起側の襲撃を警戒して、それを認あない。
この日、エスエル党モスクワ委員会逮捕。
蜂起側の活動は陰りをみせていたが、当局は、蜂起側がバリケードを系統的に構築して、その環を徐々に中心へと縮めて、都市権力の掌握を図っているとする認識を持ち続けていt。
この日、政府軍がプレスニャ地区に手をかけた。ズロフ大佐の一隊がクードリンスカヤ広場に入って、夜営した。
更に、ミン大佐の率いるセミョーノブ連隊がニコライ線経由でモスクワに到着した。カザン線の事態を知ったミンは即日、同線むけ特別懲罰隊を編成し、その隊長にリマン大佐を任命した。同隊に下った命令は、蜂起指導者の逮捕、「部隊」殲滅をペロヴォ駅からコロムナ市までの間に行ない、鉄道の運行を平常に復することであった。
〔プレスニャの状況〕
この日の全市ソヴィエト会議にはプロホロフ関係者の大半は欠黒し、同時刻に地区ソヴィエト会議に結集していた。
この日、墓地方向からの激しい砲撃。住民にかなりの死傷者が出てパニック状態となり、多くの者が農村へ逃げ出し始めた。
「革命委員会」等指導部の状況判断は風聞によるしかなかった。それは、この日にザモスクヴォレーチエとゴロドスコイ両地区は蜂起を停止し、バリケードを解体、通りを馭者が行き交い、商店が営業を再開したこと、ブトゥイリスキー地区は闘争を継続しているが、そこでもバリケード撤去が始まっていることなどであった。
指導部は蜂起の継続か否かの判断をせまられた。
12月16日
午後、10日ぶりに停電回復。市中心部のバリケードが撤去されて、交通が戻り、多くの工場地区も就業し出す。
クードリンスカヤ広場の政府軍が周辺の家々から激しい銃撃を浴び、砲兵が行動を開始。
ソヴィエト執行委員会とボリシェヴィキ・モスクワ委員会が、労働者たちがストを止めてしまったことを理由に、19日にストを中止すると決定。「同盟」の中止決定は17日。
昼、セミョーノブ連隊に編成された特別懲罰隊は、2列車を仕立てて出発し、19日までにその任務(カザン線「部隊」殲滅、列車運行の正常化)を完了した。この過程で、カザン鉄道「部隊」長ウフトムスキーは銃殺され、少なくとも死者55人を数えた。
プレスニャに向かったミン鎮圧隊はセミョーノブ連隊の第1擲弾兵大砲旅団(大砲4門)、モスクワ守備隊のカザーク騎兵中隊半分(歩兵大砲8門、機関銃2台)から成り立った。ミンは詳細な攻略作戦を分隊長に指示した。
夜、ザモスクヴォレーチエのシャーボロフカの最後のバリケードがたおれ、「部隊」はプレスニャへと後退。プレスニャ地区のみが孤立しながらも執拗に闘っている。
〔プレスニャの状況〕
この日の地区ソヴェト会議で、多数派が18日夜にパルチザン戦を終え、19日のストを終了に賛成。「軍事ソヴェト」と「部隊」隊長の会議では、プレスニャのみが奮闘しても無意味で、「部隊」は消耗し完全に包囲されたこと故、地区ソヴェトの決定を考慮して18日夜で闘争を終了することに多数派が同意した。
この日、ペテルブルク(セミョーノブ連隊)とワルシャワ(ラドガ連隊)からモスクワへ派兵があることをプレスニャは知った。新聞情報によれば、プレスニャには1万人の良く武装された「部隊」がいることになっていたから、彼らは徹底した弾圧が加えられることをおそれていたと思える。
この日、「プレスニャ戦闘労働者部隊司令官」を差出人として「本部」から各「部隊」へ呼びかけ出た。
「・・・・・
我々は始めた。そして我々は終ろうとている。土曜日〔十七日〕夜にはバリケードは取りこわされ、全員が遠くへ分散するであろう。
敵は加えられた恥辱を許さず、血、暴力そして死が我々五人ずつを次々に襲うであろう。
しかし、これはなんでもない。未来は労働者階級のためにあるのだ。あらゆる国々で、世代世代がプレスニャの経験によって、不屈さを学ぶであろう。私は日曜日〔十八日〕に休憩〔原語は休閑、休田を意味する単語〕を分け与える指令を出す。全ての工場は就業し、「部隊」隊長は武器を隠す場所を指示するであろう。
・・・・・」
12月17日
未明4時、プレスニャ関門の哨所から歩兵の進行を伝える連絡がプロホロフの「本部」に届き、その後も各所から同様な知らせが続いた。
朝5時、プレスニャは完全に包囲されたことが判明した。砲兵はヴァガニコフスコエ墓地、トリョフゴールナや関門、ドロゴミロフスキー橋、そしてクードリンスカヤ広場に陣取り、ヂェヴャチンスキー横丁には機関銃が据えられた。
7時に砲撃開始。
鎮圧隊は3縦隊に分かれて、バリケード解体と応戦する家屋の破壊に着手した。圧倒的な火力の下、帰結は自ら明白であった。シミット工場、マモントフ工場、プロホロフの労働者宿舎などが砲撃で炎上。1分間に5~7発の集中砲火が止むことなく続いた。ポーランドから来たラドが連隊が遅れて鎮圧隊に加わった。
現場にいたレヴィンは、「部隊」が解体してしまったのに、何故、プレスニャが戦闘を続けるのか分からなかったと回想する。各地で火災が発生し、逃げまどう人々はナポレオンのモスクワ進攻の再現かと口々に話した。ブレスト駅からバリシャーヤ・フレスニャまでがまたたくま制圧され、徹底した家宅捜索が開始された。この間に、「部隊」のほとんどが武装解除された。
この日に逮捕された工場主シミットの解放をめざし、労働者が二度に渡り攻勢をかけたが失敗し、6人が死亡した。
12月18日
この日朝からバリケードの解体と除去が一般住民を加えて、兵士の手でなされたが、プロホロフ周辺のみに最後までそれは残った。
この日に出たモスクワ・ソヴェト執行委員会のゼネスト中止のよびかけ。
12月18日
鎮圧隊は念を押すように馬場に結集した軍の一部でもって補強され、製糖工場とプロホロフを襲った。前者では武器を所持した20人を逮捕し、その際抵抗する3人を銃殺した。プロホロフは全般に平静で、無血の「開城」となり、410人が武器を引き渡し、工場本館に白旗が立った。
この日、ミンが発したりマン懲罰隊が最後のつめを行ない、カザン線リュベルツイ駅付近で激戦となり、反乱側は200人を越える損失を出したと推定され、裁判なしにカザン線労働者の銃殺がなされた。
モスクワ武装蜂起はこの19日のプロホロフ降伏とカザン線鎮圧で最終的に終結したと考えられる。
7日からの蜂起全期間における反乱側の犠牲者数については幾つかの数字がある。10月ゼネスト以降に結成された学生と医師の救急組織によれば、死者174人、負傷885人の計1,059人、『モスクワ報知』紙は墓地に埋葬された者を454人とする。死傷者の圧倒的部分は一般住民。
警察資料は革命家たちの損失を全期間を通じ1万~1万2,000人、軍・警察側は70人をこえないとするが、各々過大、過小数値に思える。トロツキーは住民の約1,000人が殺され、同数が負傷し、兵士の死傷は数百であったろうと推測している。
(註)コンテンツの大半は、高田和夫『1905年12月モスクワ武装蜂起』に依りました。
つづく

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