2025年10月9日木曜日

大杉栄とその時代年表(642) 1905(明治38)年12月4日~8日 戸水事件に関連して東大総長山川健次郎の依願免官が報じられる 帝大教授会総会は文相に抗議 法科大学教授190人連署で首相・文相に抗議書提出 新総長松井直吉、辞表提出 文相久保田譲、辞職  翌年1月、戸水の復職をもって事件終結 山川健次郎が総長復帰

 

山川 健次郎

大杉栄とその時代年表(641) 1905(明治38)年12月15日~19日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑩;闘争後退期(12月12~16日)②から終焉へ〉 蜂起は19日のプロホロフ降伏とカザン線鎮圧で最終的に終結。 全期間における反乱側の犠牲者数については...死者174人、負傷885人の計1,059人  警察資料は革命家たちの損失を全期間を通じ1万~1万2,000人、軍・警察側は70人をこえないとする。トロツキーは住民の約1,000人が殺され、同数が負傷し、兵士の死傷は数百であったろうと推測している。 より続く

12月4日

戸水事件。新聞に東大総長山川健次郎の依願免官が報じられる。

8月末、戸水休職の責任をとり辞表提出。文部省はこれを握り潰しておいて、この時期に免職させる。帝大教授会総会、文相に抗議。戸水と親しい寺尾・金井・建部・岡田らの他、小野塚喜平次、穂積陳重・八束が、新総長松井直吉に辞表提出。

7日、東京帝大法科大学教授190人連署で首相・文相に抗議書提出。この日、新総長松井直吉、辞表提出。

11日、文相久保田譲、辞職。

翌年1月29日、新総長濱尾新が、辞表提出の教授、戸水を説得、この日の戸水の復職をもって事件終結。濱尾新の後継に山川健次郎が総長復帰

12月4日

在日清国人学生、清国人留学生取締規則に反対して授業ボイコット。

12月4日

フィンランド議会、ロシア化措置を撤廃。公用語としてのロシア語使用廃止。

12月4日

ニューヨークのユダヤ人12万5千人、ロシアのユダヤ人の窮状に同情しデモ。

12月4日

荷風、この日、ミシガン州カラマズを去り、ニューヨークに着く。銀行での金勘定が死にほど嫌だと悩むが、父の実業家にさせる勧めに反抗しながらも、面倒を見て貰ってることもあり、その指示に従う。毎夜、酒屋に入り浸り娼婦と戯れ、オペラを見て慰める日々。

12月7日の『西遊日誌抄』には、「若し此度父の望める銀行に入らずば永久父と和するの機会あらざるべしと△△子(従兄松三)の忠告により流石に我儘も云兼ねたるなり。美の夢より外には何物をも見ざりし多感の一青年は忽ち世界商業の中心点なるウォールストリイトの銀行員となる」とあるが、さすがに気恥ずかしさは隠せない。「何等の滑稽ぞや」と自らを評している。

翌日12月8日の『西遊日誌抄』。「余の生命は文学なり 家庭の事情止むを得ずして銀行に雇はるゝと雖余は能ふ限りの時間をその研究にゆだねざる可からず 余は信ず他日必ずかの『夢の女』を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを余は絶望すべきにあらずと自ら諌め且つ励ましたり。然も余は一時文芸に遠ざからざる可からざる事を思ふ時は何等か罪悪を犯したるが如く又探き堕落の淵に沈みたるが如く感じて心中全く一点の光明なし」


12月5日

徳富蘆花、兄の蘇峰を訪ねて、これまでの自分の行動を謝罪。また、石川三四郎へは「懺悔」という一文を届け「新紀元」に発表するよう依頼。この文章は、兄に対して自分が長い間不当の仕打ちをしたということを述べたもの。

しかしすぐ後で、彼はまた考え直した。自分が率直に謝罪したのに対して、兄は少しも己れの非を認めず、政策的な返事をしかしなかった。そのような兄に対し「懺悔」をするのは早まってはいないか?蘆花は、前田河広一郎(18)を連れて石川三四郎のところ出かけて、原稿を取り返した。

前田河広一郎は仙台の出身。父は木工。仙台の第一中学校に学んだが中途退学。蘆花を崇拝し、小説家になる志を立て、この1月ほど前に上京して、蘆花を訪ね、指導を仰いだ。

彼は、「新紀元」との関係を絶ち「黒潮」第二篇の続稿掲載もやめた。

蘆花はこの時、生涯の大きな迷いの中にいて、そこから抜け出す道を見出せなかった。

12月5日

キャンベル・バナマン、英首相に就任。~1908年。

12月6日

加藤時次郎・木下尚江ら、普通選挙連合会結成。

翌年1月以降も演説会を何度も開き、2月には普通選挙全国同志大会を開催。この大会で、堺利彦、山路愛山、加藤時次郎らが代表委員に選ばれる。
12月6日

(漱石)

「十二月六日(水)、土井林吉(晩翠)は、西洋美人の絵発奮に「此はがきは今日独逸から届いたから、何か君の小説の材料になれかしと望んで早速送る、成らなくとも成る様にするのがユライのだね。僕はちと大膽だがパラダイス、ロストの韻文(八七調)譯をはじめた。正月以来の『太陽』へ陸續出す都合だ。十二月六日晩翠」(明治三十八年の消印あり)と書いてくる。
野間真綱宛葉書に、野間の娘の死を悼み、俳句一句を添えておくる。

「松岡譲「倫敦の漱石先生について(土井晩翠に呈す〉」(『中央公論』昭和三年四月号)による。漱石は、この絵葉書を依存していた。」(荒正人、前掲書)

12月7日

満州軍総司令官大山巌元帥・総参謀長児玉源太郎大将、凱旋。新橋着。参内。宮中で立食午餐会。

12月8日
陳天華、日本の新聞記事に憤慨して大森海岸で投身自殺。

12月8日

関西水電株式会社設立。1922年6月東邦電力と改称。

12月8日

(漱石)

「十二月八日(金)、東京帝国太学文科大学で Tempest を講義する。
十二月九日(土)、『趣味の遺伝』(『帝国文学』明治三十九年一月号)の原稿まだ書きあがらぬので、高浜虚子宅の文章会欠席する。
十二月十一日(月)、休講し、『趣味の遺伝』書きあげる。
十二月十二日(火)、『吾輩は猫である』(七)(八)執筆する。
十二月十四日(木)、四女アイ出生する。(戸籍謄本では二十日)
十二月十五日(金)、東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する」

「伊藤左千夫『野菊の墓』を読む。文事会は、漱石の家で開かれるのが通例であったが、鏡が出産予定で食事の用意もきなくなり、高浜虚子宅に変えたものである。文章会は、これ以後は漱石の家では開かれなくなる。(鏡)但し、高浜虚子宅で定期的に開かれたかどうかは分らない。

高浜虚子宛葉書に、「時間がないので已を得ず今日學校をやすんで帝文の方をかきあげました。是は六十四枚ばかり。實はもつとかゝんといけないが時が出ないからあとを省略しました。夫で頭のかつた變物が出来ました。」とある。この葉書の消印は、午前六時二十分(小宮豊隆)となっている。午前六時二十分の消印になっているので、十二月十日(日)に投函されたことになろう。

午前三蒔頃から陣痛始り、五時すぎに出産する。掛りつけの牛込の産婆間に合わず、近くの産婆を頼んだので、産婆も漱石も大いにあわてる。(近くの産婆の名前は分らぬ。掛りつけの牛込の産婆は、牛込区横寺町八番地に開業の柘植愛か、牛込区市が谷田町三丁目十四番地日の出看護婦会の奥山政子かと推定される。〉」(荒正人、前掲書)


つづく

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