2025年11月30日日曜日

(社説)安保3文書改定 平和国家の変質を危惧する(朝日);「高市首相がめざす安保政策は、防衛費の増額、武器輸出制限の大幅緩和に加え、国是である非核三原則の見直し検討にまで及ぶ。身の丈を超す力への傾斜が 地域の安定につながるのか。この政権が 平和国家としての日本のありようをさらに変質させないか、強く危惧する」

高市早苗首相、『政治とカネ』めぐる報道やまず 「どうりで、『そんなことより』と…」「なくなったら困るよね企業献金」あきれる声も:中日スポーツ・東京中日スポーツ

 

大杉栄とその時代年表(694) 1906(明治39)年12月 泉鏡花(数え34歳)、この年7月逗子に転居し、文壇人とは没交渉で過ごす。「新小説」11月号に「春昼」を、12月号に「春昼後刻」を書き、小説「愛火」を春陽堂から出版する。

泉鏡花


大杉栄とその時代年表(693) 1906(明治39)年11月21日~30日 「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。 この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人) より続く

1906(明治39)年

12月

大日本製糖株式会社、台湾工場設立許可を得る。

12月

泉鏡花(数え34歳)「春昼後刻」(「新小説」)


明治36年3月、一時は師、紅葉によって仲を割かれた芸者桃太郎(伊藤すゞ)を落籍させ、紅葉没の半年前から夫婦生活をしていた。紅葉はそれを知っていて黙認していた。10月30日、紅葉が没し、2人は公然たる夫婦になったが、紅葉の意志を気にかけていた鏡花は、すゞを愛していながら籍を入れなかった。

鏡花は日本的情緒に強く心を引かれていたが、そういう雰囲気の集中している花柳界について知ることが少なかった。少年時代には窮迫の中に暮し、青年期は紅葉の膝下にあってストイックな修業時代が長かった。伊藤すゞとの同棲の間に、彼は芸者の修業、その生活の裏面、心理、また芸者の接触するさまざまな方面の社会人のことについて知ることができた。それが、独自の狭い幻想世界に籠りがちな彼に取材範囲を拡げさせた

彼がすゞを知ったのは明治32年1月の硯友社新年宴会においてであるが、その年末に書いた「湯島詣」、明治34年に書いた「註文帳」、明治36年の「風流線」などには、彼はすゞを通して知った社会の裏面の智識を題材として役に立てた。しかし、それとともに、彼は新しい文学の代表者という地位から、花柳小説の名手という位置へと動いて行った。描写の手腕の冴えは失われていなかったので、通俗作家と見なされることはなかったが、人情小説の名人という特殊な作家となった。

彼がすゞと結婚するまで祖母と弟の豊春と3人で住んでいたのは、牛込の南榎町の小さな二階家であったが、明治36年、結婚と同時に牛込神楽坂に転居した。ここへ越して来てから、彼は紅葉の死に遭い、またその死後、硯友社の権威が目に見えて失墜してゆくのを見ることとなった。しかしこの頃から彼は師の束縛から離れて1人立ちの作家として生活することになり、またすゞとの同棲についても人に気兼ねする必要がなくなった。紅葉の死によって「夜が明けたような気持」を味あったのは田山花袋であったが、泉鏡花もまた、実直に師の死を悲しみながらも、はじめて自由に呼吸ができるようになったことを感じた。

鏡花は実直で小心で、ユーモラスなところもあったか、几帳面な性格で、好き嫌いが激しかった。酒が好きで、親しい人に対してはにこやかに接したが、文壇人に共通な、だらしのない、ボヘミアン的なその日暮しをすることができなかった。収入があるとその一分は必ず貯金する癖があった。彼は吝嗇ではなかったが、無駄なことに金を使うことを嫌った。酒を飲むと彼はおもむろに懐から紙入れを出して、「君、では今日の割前を」という習いであった。そういうことが文壇人に毛嫌いされた。そういう点からも彼は、同門の小栗風葉や徳田秋声との交際よりも、吉田賢龍を通じて彼と同年輩の東大系の学者や評論家との交わりが密であった。中でも彼が親しくしたのは臨風笹川種郎であった。その他竹風戸張信一郎、芥舟畔柳都太郎、嘲風姉崎正治、樗牛の磐弟斎藤野の人などとの交際があり、これ等東大系の評論家はまた、硯友社系文士の中で泉鏡花をほとんど唯一の天才と認め、彼の作品を高く評価していた。

明治38年末頃から、彼は胃腸を悪くしていたので、逗子に転居することにしたが、その広告を出した翌月なる明治39年2月、彼は87歳の祖母を喪った。そのため彼の逗子移転は延期された。彼の弟豊春は、斜汀(しやてい)と号して紅葉門で小説を書いたが、彼は兄の作風を学び、その影響を受けた。だが兄のようには目立った作品を書けず、次第に雑文書きになった。しばらく斜汀は兄と同居していたが、この頃は仲違いして別居していた。前年からこの年にかけての文壇の激しい動き、即ち夏目漱石、島崎藤村、国木田独歩等の新しい作品の続出したことが、泉鏡花に動揺を与えた。彼の取材する世界は古く、彼の描き方は、写実主義などと全く違う特殊なものであった。彼には自分の才能についての自信はあった。また愛読者も多く、発表舞台に困るということもなかった。藤宙外を中心とする春陽堂の「新小説」は、彼が編輯の一員として関係していて、硯友社系作家の拠り所となっていた。

しかし、時勢というものが、いま彼を残して急速に変化しつつあることを認めねばならなかった。博文館には「太陽」に天渓長谷川誠也がおり、この年3月から出た新雑誌「文章世界」には田山花袋がいて、ともに新しい文学思潮の支持者であった。またこの年1月から島村抱月が編輯長として復刊した「早稲田文学」も、この新潮流に対して同情的であった。彼の実弟の斜汀まで、この時期には二葉亭四迷の訳したツルゲーネフに凝り、兄の文学に疑いの目を向け、兄の模倣をすることをやめて新しい写生主義文学に走ろうとした。それが二人の仲たがいの原因になったのであった。

閉鎖的な性格の泉鏡花も、これ等の事実に目をふさぐことはできなかった。文芸を理論的に考えること、海外文学の風潮に心をまどわされることは、いたずらに眼高手低となって作家を萎縮させるというのか師紅葉の教えであったが、鏡花自身もまた、幻想と情緒と人情という枠の中に閉じこもることに心の安定を見出していた。いま、文壇に興った新しい動きを考えることは、一層彼の不安を内攻的にした。

この明治39年春から夏にかけて、泉鏡花は一層身体を悪くした。それは一種の神経衰弱を伴うもので、食べものの選り好みが激しく、それだけに衰弱かいつまでも恢復しなかった。旅行嫌いの彼は、郷里と東京の外の土地をほとんど知らなかった。ただ、4年前の明治38年夏に、やっぱり胃腸を害して、彼は逗子の桜山街道に転地したことがあった。その時は病気のこともあったか、師の紅葉に仲を割かれたすゞと、そこでひそかに暮すことが目あてであった。すゞはまだ妓籍があって本格的に彼の妻になったのではないが、その家で、彼や弟の豊春や書生などとともにそこに2ヵ月ほど暮した。

明治39年初めに転地を考えたときも、鏡花は逗子にきめた。7月になって、彼は、逗子の田越に借りてあった家へ、ほんのしばらくのつもりで移った。そこは逗子の本通りの横の二階家で、家の前には大きな棒が二三本立っていた。家族は妻のすゞと前田という書生と三人であった。この当時の医学では、内臓の疾患があると、それに休息を与えることに治療の主眼をおいたので、医師は彼に軟い、脂気のない、消化のいい食物を摂ることを命じ、生ものを禁じた。神経衰弱が昂じていた鏡花は、その医師の言葉を金科玉条のように守り、焼いたものか煮たものの外は口に入れないようになった。食べるものはほとんど馬鈴薯と粥ばかりであった。ただ彼は魚が好きだったので、魚はときどき食べた。

この家で泉鏡花はほとんど文壇人と没交渉に暮らした。彼は硯友社系の他の作家たちと違って弟子というものを持ちたからなかった。この時代には、門下のものを書生に置くことが、一家をなした文人としての見栄でもあった。だが鏡花は、江見水蔭のように米を買う金もないのに二人も三人もの書生を置いたり、また巌谷小波のように頼って来るものは誰でも家においてやって好き勝手にさせておくということができなかった。彼には熱狂的な愛読者があったので、弟子入りを希望する青年が多かっだが、彼はそれをたいてい断ってしまった。それでも熱心に頼み込むものがあると、彼は根負けして入門をゆるした。

榎町にいた時代には橋本花涙という、鼻下に髭を生やした小役人のような男が弟子になった。橋本は、すでに扶養すべき家族を持っていたので、鏡花ははじめからその原稿を売るように世話してやったが、ものにならなかった。その次に彼の所に入門したのは、早稲田大学生で、猛烈な鏡花信者なる寺木定芳であった。また鏡花が神楽坂にいた頃には、岩永瑞とか田中万逸などが入門し、紅葉の晩年の弟子であった原口春鴻も、鏡花を崇拝して、紅葉の死後鏡花に師事した。これ等の弟子に鏡花は花という字のつく号を与えた。寺木定方は花門という号をもらった。寺木はその後自分の才能に見切りをつけてアメリカへ渡り、商科医学を学んだが、そこでシナの学生と友人になったところ、花門とは女性の陰部の名であると言あれた。その旨を鏡花に手紙で言ってやると、ユーモラスなところのある鏡花は、君の今やっているのか歯科だから紫花がいいだろうという返事をしてやった。鏡花の弟子の中からは一人として小説家らしいものが生れなかった。鏡花の手法には、後輩に分ち伝えるような普遍的な要素が少なかった

彼の借りた逗子の家は古いあばら屋で、暴風があると雨漏りがし、風のために棒の枝が納折れて落ちた。また夜には軒近くに梟が鳴き、庭の柿の枝は伸びて屋内に入り込み、小さな蟹がいくつも畳の上を横ざまに走ることがあった。鏡花は熱心を読書家で、唐詩を愛し、日本の古典をよく読んだが、中でも十返舎一九の「東海道中膝栗毛」はその愛読書で、毎晩寝るときには、分冊になったその小型本を二三冊枕もとに置くのが常であった。

逗子に来てしばらくしてからも、鏡花の食物恐怖症は直らなかった。鏡花は、食べるものは総て胃腸の負担になるという信念を持ち、粥と馬鈴薯を主食とした。それがいつか東京の文壇に伝わって、鏡花は生活に困って、粥と馬鈴薯で碁している、というゴシップにまでなった。彼はもともと肉類は鶏肉の外決して口にしなかった。漬けものも食べなかった。元来痩せた小柄な男であったが、特にこの時は骨と皮ばかりに痩せ、気力がなくなり、一層その神経衰弱をこじらし、そのために彼の毎日は陰惨なものになった

魚はときどき食べたので、重石衛門という五十歳すぎの魚屋が泉家を得意としていた。鏡花もこの魚屋が気に入っていた。重右衝門はずぶの田舎ものの鈍重な男で、ひどい酒好きだった。息子が二人あって、長男は海へ出て漁をし、次男がそれを売って歩くのであったか、重石衛門は酒が飲みたくなると、自分で小舟を漕いで沖にいる長男のところへ行き、息子の取った魚の中から好きなものを選んで持ち帰り、自分の気に入った得意四五軒にだけそれを売りに行った。得意先の台所にだまって立っているだけだが、「何かあるか」ときくと、「何もねえだよ」と答えながら盤台の蓋を取る。すると必ずその家で好まれる魚が入っていた。そしてそれを金にすると、彼は清直ぐに酒屋へ行きコップ酒をあおるのか日課であった。

鏡花はまた、たった一つの慰めとして沙(はぜ)魚釣りをした。極端な潔癖で、毎日吸っている煙草すら、その吸口に自分の手が触るのを嫌った。彼は煙草の包みの角に穴をあけ、それを逆さに振って、出て来たのを直接に口に咥えるという程であったから、釣針の餌をつけるのも、魚を外すのも、一緒に連れて行った書生の前田がするのであった。彼はここに住むようになってから、岩殿寺山の上にある観音を信仰するようになり、外へ出る毎に参詣するのを忘れなかった。

逗子に移り住んでからの仕事では、明治39年11月号の「新小説」に「春昼」を書き、12月号に「春昼後刻」を書いただけであったが、「愛火」という小説を書き下してやっぱりその月春陽堂から出した。

(日本文壇史より)


つづく

2025年11月29日土曜日

閣議、高石早苗のウソをウソと認定 → 「国籍理由に不起訴判断せず」政府答弁書を決定、高市首相の自民党総裁選での発言めぐり(産経); 高市早苗の「通訳の手配が間に合わず、外国人を不起訴にせざるを得ないとよく聞く」との発言を、政府は閣議で「国籍などを理由として不起訴の判断をすることはない」と否定した

 

財源なき「積極財政」 高市首相は余裕も、ツケは物価高苦しむ国民に(毎日 有料記事)

 

大杉栄とその時代年表(693) 1906(明治39)年11月21日~30日 「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。 この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人)

 

鳥居素川

大杉栄とその時代年表(692) 1906(明治39)年11月14日~20日 (漱石)「十一月十七日(土).....夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。.....不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。」(荒正人) より続く

1906(明治39)年

11月21日

清国政府、阿片禁止規定を改正。ケシの作付けを10年間禁止。

11月22日

[露暦11月9日]ストルイピン農業改革法(農民の共同体離脱に関する勅令)公布。農民の共同体(ミール)離脱と土地私有化承認。ストルイピン改革開始。

農民上層に「解放された」土地を買い集めさせ、共同体の土地を収奪させ、新しい資本主義的農場主を創出。対極にプロレタリア化した農民と分与地にしがみつく貧窮農民。

11月23日

江原素六、根本正らが日本平和協会を設立

11月23日

啄木、盛岡中学校校友会雑誌に寄稿する評論「淋中書」を書きはじめ、12月3日脱稿する。

11月23日

イランの第1議会、英露共同借款否決。

11月23日

この日、有島武郎・壬生馬の兄弟は、スイスのシャフハウゼンを発ってチューリッヒ経由ミュンヘンに向かう。そこに数日滞在して、主に美術館を見、更にそこからニュールンベルグ、ドレスデン、ベルリンに行き、その次にオランダ、ベルギー、と西ヨーロッパの各地をめぐり、12月29日パリに着く。

そこでしばらく滞在することになった壬生馬と別れて、武郎は翌年(明治40年)1月17日、ロンドンに向う。イギリスを経て日本へ帰ることにした。この新しい年に、武郎は数え年30歳、壬生馬は26歳になった。

11月25日

中国の潮汕鉄道開通。

11月25日

大杉栄訳「新兵諸君に与ふ」(「光」)、発禁。

28日、朝憲紊乱罪で編集発行人山口義三、起訴。


「(平民社)社員の人選も追々決定し、十一月二十五日発行の『光』第二十八号は、

森近運平、斎藤兼次郎、椎橋重吉、村田四郎、神崎順一、矢木鍵次郎、吉川守邦 (以上、営業部)

赤羽一(巌穴)、深尾韶、山口義三(孤剣)、山川均、岡千代彦、原真一郎(霞外)、荒畑勝三(寒村) (以上、編集部)

の決定を発表している。その後、新聞発行までには営業部に宇都宮卓爾、編集部に徳永保之助、岡野辰之助(以上校正係)、百瀬晋(給仕)が加えられた。編集部に小川芋銭画伯が加わって居ることは、週刊『平民新聞』以来の伝統であって、平福吉穂画伯の挿絵とともに当時、他の新聞には真似のできぬ誇りであった。勿論、芋銭画伯は依然、茨城県の牛久に住んでいて、出社した訳ではない。週刊『平民新聞』の編集が記者四名、寄書家十四名を算したに過ぎなかったのに、今や二十四名の社員、約三十人の活版印刷部員の外、六十余名の特約寄稿家を算うるに至ったのである。盛んなりと言わざるぺけんやだ。おもなる寄稿家の連名、左の通り。

田添鉄二、安部磯雄、伊藤銀月、片山潜、薄田斬雲、大杉栄、城柳秀湖、花井卓蔵、大石誠之助(禄革)、田川大吉郎、上司小剣、高島米峰、杉村広太郎(縦横)、今村力三郎、佐治実然、山路愛山、向軍治、田岡嶺雲、中島孤島、加島汀月、松本君平、内村達三郎、白石喜之助、奥宮健之、佐藤秋蘋、久津見蕨村、小島竜太郎、岩崎革也、柏木義円、伊藤仁太郎、島中翠湖、青池晃太郎、住谷天来、大塚甲山、中里介山、豊田孤寒、福田英子、今井歌子、岸上克己、石巻良夫、久田二葉、金子喜一、金子ジョセフィン、フライシュマン、A・ジョンソン、竹久夢二、毛利柴庵、加藤咄堂。」(荒畑『続平民社時代』)

11月26日

南満州鉄道会社設立(6月8日勅令公布)。11月13日、後藤新平を初代総裁に任命。本社東京。資本金2億円。1907年3月5日、本社を大連に。同年4月1日、大連~孟家屯間、安東~奉天間など開業。

ロシアから譲渡された長春(寛城子)~旅順間の東清鉄道と支線の経営。他に、鉱業(撫順・煙台炭鉱採掘)・水運業・電気業・倉庫業など付帯事業。更に、用地内での行政・徴税権ももつ。後藤新平は、満鉄総裁に関東都督府顧問を兼任させ行政を一元化する条件で総裁就任を引受ける。

都督府・満鉄・領事館による三頭政治。

副総裁中村是公(台湾財務局長兼事務局長)、理事久保田政周(栃木県知事)、清野長太郎(秋田県知事)、国沢新兵衛(鉄道省技師)、岡松参太郎(36、京大教授)、田中清次郎(35、三井物産長崎支店長)、犬塚信太郎(33、同門司支店長)。

後藤の手腕:

①人事:関東都督民政長官石塚英蔵(のち枢密顧問)を更迭、満鉄副総裁中村是公を一旦満鉄から退社させ民政長官に就任させる(更に、中村を満鉄副総裁事務取扱に任命、実質兼任)。警務総長を更迭、満鉄理事久保田政周を任命。

②「旅順解放論」:都督府にある旅順を軍都から学都・商都に変える。

11月26日

清朝、中央官制改革。全国に36師団の陸軍(新軍)を設置

11月30日

清国、アヘン禁止章程10条頒布。

11月30日

(漱石)

「十一月三十日(金)、講義ノート切れたので、今年分を少し書くつもりである。久内清孝(横浜市根岸町、現・横浜市中区根岸町)からセイロン紅茶一缶を贈られ礼状を出す。


紅茶の礼を述べ浜武元次と同じ宿所なので、友人か否かを聞き合せて『吾輩は猫である』中篇を送る。」(荒正人、前掲書)


11月30日

シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」、米で初演。

11月下旬

「十一月下旬(日不詳)、大阪朝日新聞社の鳥居赫雄(素川)、『草枕』を読んで感心し、旧友中村不折を通じて、新年の随筆を依頼してくる。


この依頼をした段階では、鳥居赫堆(素川)が漱石を『大阪朝日新聞』に招聘したいという希望が十分に熟していたかどうかは、断定し難い。」(荒正人、前掲書)


明治39年12月初め、「読売新聞」が漱石を定期執筆者に迎えようと骨を折っていた頃、「大阪朝日新聞」の主筆をしていた鳥居素川から、随筆を依頼する手紙が、画家の中村不折の手を経て漱石の所へ届いた。中村不折は正岡子規の友人として漱石とも交際があった。鳥居素川は名を赫雄と言い、熊本の人である。三山池辺吉太郎が明治29年に、前任者高橋健三の推薦で「大阪朝日」の主筆となって後、池辺が郷里熊本出身の俊才としてその翌年の末頃に鳥居を招いたのであった。鳥居は独逸協会学校に学び、かつ漢学にも素養があり、筆力旺盛で、特に諷刺比喩の才能があり、辛妹な政治批評では並ぶもののない名手であった。郷里熊本の済々學に在学時代の鳥居は有名な乱暴者であった。独逸協会学校を経て、明治24年上海の日清貿易研究所に入ったが、病んで帰ってから池辺三山の「経世評論」に執筆し、かつ日清戦争には「日本」の記者としての正岡子規とともに従軍した。激情家で奇癖の持ち主であったが、三山はその人物を愛して、彼が「東京朝日」に移って後、素川を「大阪朝日」の主筆に推薦したのである。

鳥居素川は漱石の「草枕」を「新小説」で読んで、その才筆に感歎し、原稿依頼をしたのであった。その依頼は実を結ばなかったが、以後彼は漱石の作物を更に読みあさり、社主の村山龍平にも読ませ、池辺三山とも打ち合せて、漱石を「大阪朝日」に迎える案を立てた。

明治40年2月、朝日新聞社側の案は熟し、漱石を「東京朝日」に迎えることにして交渉することとなった。(日本文壇史より)


鳥居素川(赫雄):

池辺三山と同じ熊本出身(三山の号が熊本郊外の三つの峰にちなむと同様、素川は市内を流れる白川からとった)。異母兄が西南戦争時、三山の父池辺吉十郎を隊長とする熊本西郷隊の小隊長として官軍と戦い、戦死している。上京してドイツ語を学び、陸掲南の新聞「日本」に入り、日清戦争時は従軍記者として活躍。同僚に正岡子規がいた。同郷の三山のひきで、大阪朝日に入社、ドイツ留学を経て頭角を現し、論説記者として大朝の中核になっている。

素川は、新聞小説は時代精神を踏まえた文芸でなければいけいとの信念を持ち、ドレフュス事件でのゾラの活動に共鳴し、ゴーリキーの「どん底」をドイツ語から重訳して大朝に載せたりする、進歩的な考えの持ち主だった。


つづく


2025年11月28日金曜日

鎌倉紅葉散歩 長谷寺の紅葉見頃 収玄寺の見事なホトトギス 江ノ電の贅沢編成(355-305) お昼は「鰻の成瀬」で 片瀬西浜の日没とマジックアワー 2025-11-28

 11月28日(金)はれ

今日は暖かかった。20~21℃あったそうだ。

今日は、鎌倉、長谷寺に行ってきた。紅葉が見頃。

▼放生池



▼下境内から上に上がってゆくと、、、

▼地蔵堂まえ

▼上境内へ

▼経蔵まえ




▼収玄寺 ホトトギスが見事


▼江ノ電 

先頭355 2両目305という贅沢編成に痺れた

▼お昼は、「鰻の成瀬」上大岡店でうな重


▼今日は、久しぶりに片瀬西浜でマジックアワーの富士山を見ようと江ノ島まで行ったけど、アテが外れた。

陽の沈む位置が富士山から遠すぎる。

▼4時23分頃に日没

▼マジックアワーが来た。

丁度この時、上空に自衛隊機(多分。横須賀~横田か)

この時期のマジックアワー富士山は、こんな感じということを、初めて認識した。

それでも、写真はショボいけど、実際はすごくキレイ。

たくさんの人がじっとこれを眺め、立ち去り難くなっていた。



高市首相「そんなことより」に反発続々 朝日新聞、立民・蓮舫氏、共産・田村氏 党首討論(産経) / 首相の「そんなことより」発言に公明・斉藤氏「政治改革の姿勢疑問」(朝日) / 高市早苗にとって、企業・団体献金の規制は「そんなこと」という扱い / 「そんなことより、ぜひ、野田総理」って言ったのか      



 

「世界の真ん中で」取り残される日本に、、、 → (社説)日中対立と米 事態収拾へ動かぬ首相(朝日) / 日中対立、日米間の火種に(朝日 有料記事) / トランプ氏、日中対立激化は望まず 直接関与に日本政府内に危機感も(朝日 有料記事) / トランプ氏、日中対立「沈静化の必要性」に言及 高市氏と電話協議(朝日) / トランプ氏、台湾巡り日本に抑制求める 習氏と会談後(WSJ);  日本の当局者はトランプ氏のメッセージに懸念を示す / トランプ氏、高市氏に日中関係の状況悪化望まずと伝達 25日の電話会談=関係筋(ロイター) / 米中急接近で高市政権に外交難局...日中悪化で高まる経済リスク(ニューズウィーク日本版); <高市早苗首相が外交面で難しい舵取りを迫られている。存立危機事態発言に端を発した日中関係の悪化に加え、米中首脳の急接近で事態はより複雑化しているからだ> / 習近平がトランプに電話をかけたのは「台湾に触れた高市を抑制しろ」と伝えるため─米紙報道(クーリエ・ジャポン) / 木原官房長官「そのような事実はない」と否定 WSJの“トランプ大統領が台湾めぐり中国を刺激しないよう高市総理に要求”報道に(TBS) ← 白々しい。無責任すぎる。   


 


大杉栄とその時代年表(692) 1906(明治39)年11月14日~20日 (漱石)「十一月十七日(土).....夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。.....不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。」(荒正人)


大杉栄とその時代年表(691) 1906(明治39)年11月11日~13日 更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。 正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。 より続く

1906(明治39)年

11月14日

ペイン商会製糖場設立(台湾彰北)。資本金4万円。1910年開業。

11月14日

大日本製糖株式会社成立。日本精製糖・日本精糖両会社を合併。資本金1,200万円。12月に台湾工場設立許可。1907年8月、大里製糖所買収。

11月15日

営口水道電気株式会社設立。

11月15日

日本、奉天総領事館新民府分館・長春分館開館。

11月15日

世界最大の戦艦薩摩進水。

建造当時は世界最大の戦艦であったが、この年、イギリスでドレッドノート(弩級艦)が竣工したため、竣工前に旧式艦(準弩級戦艦)となってしまった。 しかし、日本が独自設計の戦艦を建造する事が、西欧列強にとっては驚異的であった。

初の国産戦艦である本艦の主砲と中間砲には問題があり、発射速度が低かった。しかし、その後逐次改良・整備が進められ、晩年には弩級戦艦にも匹敵する砲戦能力に達したと言われる。(Wikipediaより)

11月15日

東京に税関設立。

11月15日

元ミナス・ジェライス州知事ペナ、ブラジル大統領就任(~1909年)。

11月中旬

啄木、『雲は天才である』を書き直す。

11月16日

久津見蕨村、『無政府主義』刊行。

11月16日

(漱石)

「十一月十六日(金)、曇。瀧田哲太郎(樗陰)宛手紙で、『読売新聞』からの依頼を熟考の未、断る。(但し、十一月二十日(火)の『読売新聞』紙上では、漱石の執筆を社告として掲載する。国民新聞社・報知新聞社からも話がある)

十一月十七日(土)、曇。明治大学は休講である。夕方、初めて森田草平の下宿(本郷区丸山福山町四番地伊藤はる方)を訪ね、夜、柳町・菊坂通りを経て、真砂町で真砂亭(西洋料理。本郷区真砂町、現・文京区本郷一丁目)に寄る。切通しを経て、不忍池のほとりに出る。森田草平から、十一歳の時死別した父親森田亀松のことを聞かされる。不忍池を一周、弥生町から東京帝国大学裏門の前に出て、第一高等学校と東京帝国大学の間を通り、森川町で別れる。野上豊一郎宛染出に俳句一句添える。

十一月十七日(土)から十九日(月)の間、竹越与三郎(三叉)来て、『読売新聞』の「特別寄稿」の件について再考を求める。

十一月十八日(日)、森田草平宛手紙に、前日の告白思い出し「夢の世界を逍遥した様な氣がする。」沼津に就職することはやめない方が良い、上京中の校長に逢って見るとよい、俳書堂で編集者(月給四十円)を探しているが、あまり確実なものでないと書く。」(荒正人、前掲書)

11月17日

大東製糖株式会社創立(台湾)。1907年4月、台湾製糖に合併。

11月17日

本田宗一郎、誕生。

11月17日

啄木妻節子節子、出産を控えて実家に入る。

19日、啄木、小説「葬列」を書き始める。22日夜半、57枚脱稿。

11月18日

露、トロツキー(27)、シベリアへの終身流刑と市民権の剥奪の判決

11月19日

ポーランド社会党分裂。

11月20日

清国、日本の各居留地における吸咽取締り実行を駐清公使に要請。

11月20日

韓国王族の義兵将閔宗植、公州塔山で日本軍に捕らわれる。

11月20日

寺内陸相、西園寺首相と阪谷蔵相の予算方針に不満で、辞任して倒閣を考える(桂太郎宛寺内正毅書状)。

西園寺首相は、陸軍に影響力を持つ桂前首相(大将)、陸軍の実力者の元老山県有朋元帥、財政通の元老井上馨や松方正義の調停を得て、阪谷蔵相・寺内陸相・斎藤海相との妥協を探り乗り切る(桂太郎宛西園寺公望書状、11月25日、12月3日、1907年3月3日、11月9日、12月9、13日)。

11月20日

(漱石)

「十一月二十日(火)、『読売新聞』に、読売新聞日就社として、夏目漱石が特別寄書家になり、今後、創作・批評発表と予告される。

十一月二十二日(木)、木曜会。高浜虚子ら、大いに諭ずる。」(荒正人、前掲書)"


つづく

2025年11月27日木曜日

横浜イチョウ散歩 日本大通りのイチョウ黄葉が見頃 山下公園通りのイチョウは発色・枝ぶりの貧弱なものが多い 横浜市開港記念会館周辺 2025-11-27

11月27日(木)晴れのち曇り

横浜、日本大通りのイチョウ黄葉が見頃を迎えている。

山下公園通りは、強剪定によるものなのか?枝ぶりが貧弱なものが多い。更に発色もイマイチが多い。

▼日本大通り 神奈川県庁(キングの塔)周辺   




▼本町通り周辺




▼向こうに横浜スタジアムが見えるあたり

▼山下公園通り 山下橋周辺

▼ホテルニューグランド2階より

▼産業貿易センターあたり

▼横浜市開港記念会館(ジャックの塔)あたり


21兆円「出しても大丈夫」 片山さつき財務大臣に高まる不安《「あんたバカなの?」と記者を面罵》(週刊文春)

(社説)初の党首討論 誠実とは遠い首相答弁(朝日); 自身に問題はなかったかのように開き直る。唐突に論点をずらして切り返す。都合の悪い質問は無視する――。一国の指導者としての責任の重さをどう考えているのか。 / 〈社説〉台湾有事答弁 国益を損ねた責任は免れない(東京)     

 



 

大杉栄とその時代年表(691) 1906(明治39)年11月11日~13日 更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。 正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。

 

正宗白鳥

大杉栄とその時代年表(690) 1906(明治39)年11月6日~11日 「読売新聞」主筆の竹越与三郎(三叉)、漱石に対して漱石門下生で中央公論主筆の滝田樗陰を通じて、読売の専属作家にならないか、と申し出る。読売の文壇を担当して1日に1欄か1欄半書き、月給は60円という条件。漱石は、報酬が少ないことと地位が不安定なことを理由にして、この申し出を断る。 より続く

1906(明治39)年

11月11日

■読売新聞と竹越与三郎(三叉) (つづき)

竹越与三郎は慶応元年に埼玉県に生れ、その土地にある三叉川からその雅号を得た。彼はもと清野という姓であったが、兵役関係のために竹越家を継いだ。中村敬宇の同人社、慶応義塾に在学し、また特に米人について英仏語を学んだ。福沢に推されて「大阪公論」主筆となり、世に顕れた。「国民新聞」、「国民之友」の記者であった時、同僚として知っていた国木田独歩が佐々城信子と結婚するに当って、保証人として立ち合った。その後「時事新報」に入ったが、独歩を西園寺に紹介したのも竹越であった。明治30年に雑誌「世界之日本」を発行。明治31年西園寺公望が文部大臣になると、勅任参事官になり、西園寺を助けた。

竹越は陸奥宗光に親近し、常にその身辺にいた。明治29年頃、陸奥宗光は結核が重くなり、再起不能になった。陸奥は竹越を呼び、自分はもう永いことはない、君を西園寺に紹介しておこう、自分の見るところでは、西園寺は天下第一の商人である、と言って紹介状を書いてくれた。西園寺が文部大臣になったのは、31年1月で、3ヵ月在任したに過ぎなかった。

西園寺が辞任すると、竹越も野に下り、出版社開拓社を興した。その頃彼は、「二千五百年史」を著し、名著と喧伝され、日本のマコーレイと言われた。この本は、日本歴史をそれまでの定形であった政権、戦争の書としてでなく、一貫した文化史として述べたものであり、明治10年に出た田口卯吉の「日本開化小史」に次ぐ好著であった。明治38年、竹越与三郎は外遊し、戦後ぺテルブルグに再開されたばかりの公使館で本野一郎に逢った。そのとき本野一郎は、父の盛亨が70歳を過ぎた高齢であるとして、「読売新聞」について竹越の援助を求めた。そのためもあって、明治39年、西園寺内閣が成立すると、「読売」は竹越を通して西園寺内閣の機関紙のような密接な関係を持つようになった。

本野社長は、「読売」の衰運を苦慮していたので、筆の人で、かつ政治家である竹越を社に迎えて、窮状を脱しようとした。そのために本野は、足立北鴎を主幹兼副社長として営業方面を担当させ、竹越を主筆として招いた

竹越は、当時、望月小太郎、松本君平とともに日本三ハイカラの一と言われていた。竹越は口髭と短い顎髯を生やし、シルク・ハットにフロックコートを着、片手にステッキをはさんで馬車に乗って出社した。入社以来、二階の編輯室の一劃に小さい主筆室があり、彼はそこに入って上着を取り、紫の縁どりをしたライブラリ・ジャケツに着替えをした。そのジャケツ姿もまた中々典雅なものであった。

その姿で彼は、編輯室に出て来た。「読売新聞」の編輯室は、日露戦争前までは畳敷きで、記者たちも多くは和服の着流しであったが、日露戦争頃から、事務室風の椅子とテーブルに変えられた。記者たちもまた洋服姿が多くなっていた。しかし、演劇と文芸欄担当の正宗忠夫と、社会部長の上司延貴などは数少い和服組であった。彼は若い記者たちをつかまえて快活に談笑した。そして咏嘆するような調子で、

「青春重ねて来らず、若き日は大事だよ。百金名馬を買うべし、千金美人を買うぺし、万金青春を買うべからず。・・・人間は長生きをしたがるが、年をとるのはいやがる。矛盾だね」などと言った。

上司小剣はこの時数え年33歳で、入社してから10年経ち、古顔の記者になっていた。彼は、この頃しばしば原稿を売りつけに来て係りの正宗忠夫を悩ましている岩野泡鳴の言葉を引いて、竹越に答えた。

「岩野泡鳴は、年をとって性慾も食慾も乏しくなったら舌を噛み切って死ぬんだと言っていますよ。」

「あれはやりかぬないかも知れないぬ。」と竹越は答えた。

竹越は代議士として与党の政友会を代表し、野党の憲政本党を代表する島田三郎としばしば論争したが、議会においての弁論では島田の魅力のある説得方法に敵わなかった。しかし今度は筆を取って「毎日新聞」の島田と戦うことになった。筆力においては竹越が優勢であり、「読売新聞」の論説は竹越を迎えてから精彩を放つようになった

竹越与三郎は文芸新聞としての「読売」の機能を十分に発揮するために、智識階級人に圧倒的な人気のある夏目漱石を起用することを考えた。彼は寄稿家として前から「中央公論」と関係を持ち、滝田樗陰を知っていた。滝田はしばしば夏目のところへ出入りしていたので、その頃夏目が、学校の勤めを億劫がり、毎日一つずつ文章を書いてそれに十円ずつ払うような新聞社でもあれば、学校などはやめてしまいたい、などと冗談混じりに言っていることを竹越は滝田から聞いていた。もし夏目を定期執筆家として迎えることができれば、尾崎紅葉を抱えていた当時のような黄金時代が「読売新聞」に再現するかも知れない、と竹越は考えた。

漱石の意向を打診する任務が滝田樗陰に与えられた。その条件は「読売新聞」の文壇という欄を担当し、隔日に一欄又は一欄半の原稿を、月六十円の報酬で書いてほしい、ということであった。滝田がその話を持って行ったのは明治39年11月15日であった。それに対して翌日夕方、漱石は断りの手紙を滝田に書いた。その中には次のような言葉があった。

「僕が隔日に書けば大学か高等学校をやめる。どっちをやめるかと云へば大学をやめる。

大学は別段難有いとも名誉とも思ふて居らん。今迄三年半に余としては一人前の仕事をして居る。やめたとて職に堪へぬとは言はれない。

高等学校は授業が容易で文学上の研究及び述作の余裕を作るに便だからやめぬ。(略)大学をやめれば八百円の収入の差がある。よし読売が八百円くれるにしても毎日新聞へかく事柄は僕の事業として後世に残るものではない。(後世に残る残らんは当人たる僕の力で左右する訳には行かぬ。然し苟も文筆を以て世に立つ以上は其覚悟である)只一日で読み捨てるものゝ為めに時間を奪はれるのは大学の授業の為めに時間を奪はれると大した相違はない。(略)竹越氏は政客である。読売新聞と終始する人ではなからう。一片の約束である程度の機会的文学欄を引き受けた所で竹越氏と終始して去就する様に融通の利く文学者ではない。ある時ある場合に僕は一人で立場を失ふ様になるかも知れぬ。竹越氏が如何に努力家でも如何に僕に好意を表しても全然方面の違ふ文学者を生涯引きずつてあるく訳には行かぬ。(略)今度の御依頼に裁て尤も僕の心を動かすのは僕が文壇を担当して、僕のうちへ出入する文士の糊口に窮してゐる人々に幾分か余裕を与へてやりたいと云ふ事である。然し事情を綜合して考へると夫も駄目である。(略)」

漱石の返事は竹越に伝えられたが、竹越は諦めることができず、漱石を訪れて説得した。漱石は中々承諾しなかったが、竹越は強引に説きつけて、漱石の再考を促した。結果、漱石が熟考を約したことが、竹越には承諾を得たもののように受け取られた

その年11月20日附の「読売新聞」に次のような社告が載った。

「夏目漱石君は文壇の新星にして、其光芒燦爛、四方を照すの概あるは縷説を要せず、我社幸に同君に請ふて特別寄書家たる約諾を得たるを以て、今後読売新聞紙上に其創作批評を公表せらるべし。最も注目すべきは一月以後の新聞にありと雖も、年内に於ても名品を読者の前に供することあるべし。」

その月、漱石(40歳)は近く出ることになっている「文学論」の序文を読売に載せた。更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。

正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。「読売新聞」はそれによって漱石の同意を全面的に得たものとして、次のような社告とともに、明治40年元旦の紙面に載せた。

「夏目漱石氏は特別寄稿家として創作と批評とを続々本紙に掲載せらるぺく、其光彩燦爛たる雄篇は現に本日の紙上に在り、丁未文壇の偉観は独り我読売新聞の姿になる所たるぺし。」

しかし、それ以後漱石の作品は「読売新聞」には暫く現われなかった。

(日本文壇史より)

11月11日

イタリア人2名が、初の気球によるアルプス越えに成功。

11月12日

日本、広東領事館開館。

11月13日

南満州鉄道株式会社の初代総裁に、後藤新平(台湾総督府民政局長)任命。

11月13日

西川光次郎、「光」第28号で、政府の社会主義者弾圧について論評。


つづく

2025年11月26日水曜日

鎌倉紅葉散歩 北鎌倉から鎌倉へ 円覚寺惣門周辺の紅葉真っ盛り 浄智寺の イチョウ黄葉見頃(落葉多い) 海蔵寺(門前住宅地の紅葉見頃 リンドウがいっぱい) 英勝寺門前のイチョウ 徐々に紅味を増す寿福寺参道 2025-11-26

 11月26日(水)

今日は、北鎌倉~鎌倉まで歩く。

▼円覚寺惣門周辺

紅葉真っ盛り。

葉もまだたっぷり付いているし、惣門周辺に限定すれば、多分、今が見頃ピークではないだろうか。







▼浄智寺

イチョウ、綺麗に黄葉している。

落葉も多く、もうそんなに長くないかも?



▼亀ヶ谷坂

▼海蔵寺へのアプローチ

住宅地ながらバッチリ紅葉。見頃です。

▼海蔵寺

今日は、そんなに広いとは言えないあの境内に、結婚式前撮り組が二組も。ちょっとひと休みの積りだったが、早々に撤収した。

リンドウが境内あちこちに咲いている。




▼英勝寺門前のイチョウ

見事に黄葉。

▼徐々に紅味を増す寿福寺参道