2025年11月11日火曜日

大杉栄とその時代年表(675) 1906(明治39)年8月2日~10日 (漱石の妻が電車賃値上反対のデモに加わっていたとの誤報に対して、「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」(漱石の深田康算への手紙)

 

東京電気鉄道 明治38年頃日比谷公園横

大杉栄とその時代年表(674) 1906(明治39)年8月1日 関東都督府官制公布。 遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。都督は陸軍大将または中将。清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。 9月1日、大島義昌を関東都督に任命。 より続く

1906(明治39)年

8月2日

日本、遼陽に領事館設置。

8月2日

(漱石)

「八月二日 (木)、夕刻(推定)、寺田寅彦・森田草平来る。森田草平、漱石と寺田寅彦の話すのをじっと聞いている。森田草平、初めて鏡を見る。

八月三日 (金)、春陽堂の本多直次郎(囁月)来る。『草枕』を催促する。春陽堂から、薯中見雛として角砂糖一缶届けられる。


森田草平は、この時まで一年近く、漱石の許に出入りしていたが、寺田寅彦を身近に観察したのは初めてである。鏡がお茶を持って来たが、若く見えたこともあって、夫人とは思えぬ。

森田軍草は、下宿に帰り六銭切手を張った長い手紙を書く。お茶を運んでいただいた女性が奥さんであるか、どうかを初め、『吾輩は猫である』の批評などを述べたものである。森田草平は、初めて漱石を訪ねてから二、三度めである。(森田草平)」(荒正人、前掲書)

8月3日

萬歳生命保険株式会社創立(東京)。資本金100万円。

8月4日

清国、女学教育章程制定。

8月4日

徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会ったあと、シベリア経由で帰国。この日、敦賀に上陸。

8月4日

啄木(20)、大信田金次郎(落花)の委託金費消の疑いで沼宮内警察分署長の取り調べを受ける。事件は警察の「認知」による。

7日、盛岡地方裁判所検事局の呼び出しを受けて出頭、委託金費消について佐倉強裁検事の取り調べを受けるが、大信田金次郎の証言で事なきを得る。

9日 盛岡地方裁判所検事局は大信田金次郎の委託金費消に対する「被疑者 石川一に対し不起訴処分を決定する(現在盛岡地方検察庁に保存される当時の「検務事件簿」によると、担当佐倉検事、不起訴の理由は事件が「軽微」、起訴に関する「警部の意見に反」と記載されている。)

8月4日

日露通商条約交渉開始(ペテルブルグ)。

8月4日

帝国ドイツ海軍の第1潜水艦U-1が進水

8月5日

イランのカージャール朝(ムザッファル・アッディーン・シャー)、憲法の詔勅発表。イラン国王、大臣アイノッ・ドーラを解任し、国民議会(マジュリス)開設に合意。

10月7日、初議会。自由憲法起草。

12月30日、国王、草案に署名、31日没。

8月6日

廃兵院条例公布(勅)。陸軍大臣の監督下で、所在地所管師団が管理、入院資格など規程。

8月7日

清国の各省留学生の日本派遣停止

8月7日

8月1日に内務省が東京の市電4銭均一値上げを認可したことを受けて、日比谷公園で東京市電値上げ反対市民大会開催。

8月7日

啄木(20)、文芸雑誌「小天地」発刊に絡む大信田落花への負債を「委託金費消」事件として告発され取り調べを受ける。落花の証言により不起訴処分。啄木は一禎の宝徳寺再住問題に絡む捏造事件だろうと推量。

8月9日

中国貴州の畢節で紅燈教の乱。

8月9日

粤漢鉄道、官督商辦(ベン)、(政府監督の民間事業)となる。

8月9日

(漱石)

「八月九日 (木)、午前、『草枕』脱稿。本多直次郎(囁月)受け取りに来る。二、三日休養する。その後、講義ノートを作る予定である。

『二六新報』に「畫観 (一八五) 夏目金之助氏」として、肖像画と紹介文掲載される。」(荒正人、前掲書)

8月10日

清国、日本の関東都督府設置に抗議。

8月10日

電車ボイコット運動、行進ビラ配布。

午前9時、社会党員14人、「乗らぬ同盟」運動のため党本部(神田三崎町、森近経営ミルクホール平民社)出発、九段、市ヶ谷、四谷、麹町、半蔵門、三宅坂、日比谷、内幸町、新橋、銀座、京橋、日本橋、須田町、万世橋、下谷、上野、本郷切通しの順路で、午後5時、数万のビラ配布終る。

20日、再度、行進ビラ配布。


翌日の『都新聞』は、「電車値上反対行列」と題して次の記事を掲げた。


電車賃値上反対の旗幟を標榜して其の絶交運動(ボイコット)を市民に促す為め、開催されたる日本社会党有志者の行列は、昨日午前九時五十分、神田区三崎町三丁目一番地の同党本部を出でたり。行列の一行は出来得るだけ質素に且つ静粛ならん事を期したるより、総数を十人と限り、堺枯川、森近運平、野澤重吉、菊江正義氏外四名と、堺氏の妻君、夏目(漱石)氏の妻君、是れに加り、各自浴衣に尻端折、或は筒袖に草履穿といふ遠足式軽装を為し、婦人連も小褄(こつま)をキリと引上げて、頗る身軽に見受けられたり。(後略)

『都新聞』を読んで驚いた美学者の深田康算(やすかず、後の京大美学教授)は、すぐにこの記事を切り抜いて漱石へ郵送したらしい。

それに対して漱石は、8月12日に深田に返事を書いている。


拝啓、今頃は仙台の方にでも御出の事と存候処、突然尊書飛来、都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候。電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。ことに近来は何事をも予期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が気狂になつたと出れば、小生は反つてうれしく覚え候。(後略)

実は、このデマは一匹の猫が引き起こしたものだった。この事件の5ヵ月後、大杉栄が『家庭雑誌』(1907年1月号)に「飼猫ナツメ」という文章を書いている。


一九〇六年の春、由分社(=堺家)に一匹の可愛い子猫が加藤時次郎の病院からもらわれてきた。雉子色でよくじゃれる元気な猫だった。その名前が「ナツメ」。命名したのは飼い主の堺利彦である。かの『吾輩は猫である』の著者の夏目漱石と発音が同じだというので、由分社に出入りする人たちの間でこの子猫は有名になったが、大杉によれば、そのために「遂に一大事件を惹起した」。

昨年の夏、社会党の人達が電車賃値上反対のチラシを配る為めに、隊を組んで市内を歩るき廻つた事があった。其の日、之等の人達は中食をする為めに、由分社に立ち寄った。そしてナツメ君を見て、『アゝ之れがあの有名なナツメさんですか』などゝ云って、皆してナツメ君を玩弄にしてゐた。すると、翌日の或る新聞紙に、どうこれを聞き違えて探訪(筆者注・新聞社のネタ集めの記者)が報じたものか、『漱石夫人社会党のチラシを配る』と、麗々しく書いてある。サア大変だ。

当時、漱石は東京帝大で教鞭をとっている名士である。堺は自分の飼い猫が原因で、漱石に迷惑をかけては申し訳ない、と思ったに違いない。堺はすぐに新聞社に取消文を送ったという。

小説「野分」(『ホトトギス』1907年1月号)のなかで、淑石は次の会話を書いている。最初が主人公の白井道也、次が妻の言葉だ。


『社のもので、此間の電車事件を煽動したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。 - 所が其家族が非常な惨状に陥つて見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ』

『そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから……』

『間違へたつて構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいゝのさ

堺が漱石と直接会う機会はなかったようだが、文学好きな堺が、作品を通じて漱石に好感を抱いていたのは間違いない。というのは、『吾輩は猫である』を読んだ堺は、未知の漱石に宛てて、平民社で作成したエンゲルスの肖像入りハガキに次の文章を書いて送っている(1965年刊『漱石全集』第1巻月報1)。ハガキの消印は、『吾輩は猪である』の上篇が出版されてまもない1905年10月28日なので、堺はこの本が出るとすぐに読み、著者の淑石に感想を伝えたことになる。

新刊の書籍を面白く読んだ時、共の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新著「猫」を得て、家族の者を相手に、三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。  堺利彦


右の文中の「三馬」とは江戸時代の草双紙・滑稽本作者として有名な式亭三馬で、『浮世風呂』はその代表作だ。ちなみに、これに注目した国文学者の水川隆夫氏は、「恐らくこの感想から刺激を受けて、淑石は、『猫』第七に『吾輩』が銭湯を観察する場面を入れた」と推測している(『漱石と落語 -- 江戸庶民芸能の影響』)。『猫』第七とは、『吾輩は猫である』下篇の一章だ。


堺は猫を「ナツメ」と命名した理由を、「夏目ではなく棗(なつめ)」だと述べていた(『家庭雑誌』1906年7月号)。かの猫が「ナツメ先生」とか「金之助」と呼ばれるようになったため、ナツメといっても夏目という漢字をあてなければならないことはなく、あの猪の名前は可愛らしい形をした茶入れの器の棗から取ったのだ、と弁解したのである。しかし、彼が加藤病院から猫をもらってきたのは、漱石が『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を連載し、人気を博していたときであり、そのことから考えでも「ナツメ=窺」説はこじつけだろう。

つづく

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