1906(明治39)年
7月3日
啄木、帰郷後のこの日から処女小説『雲は天才である』を書きはじめ、主人公新田耕助に托して新しい人間像を括こうと意図する。
8日、『雲は天才である』を途中で休んで小説『面影』を執筆、13日140枚を脱稿する。
「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」
■漱石『坊っちゃん』、藤村『破戒』、啄木『雲は天才である』
『雲は天才である』は、啄木自身そのままに月給8円の代用教員新田耕助が主人公。
彼は、「云はゞ校歌といった様な性質の一歌詞を作り、そして作曲」する。この歌を高等科の生徒たちが高吟する。「昼休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇のポロデージ行進が始つて居た。彼是百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである」。
当然、校長・古参教員から注意を受ける。教頭格の古参教師は小学校教授細目を盾にとって叱責する。ところが、生徒たちが新入りの代用教員を支援する。円陣を作って再び歌う。
啄木の日記同様にナルシスティックな青年教師像がいたる所に顔を出す。
作品は、漱石の『坊っちゃん』の影響を受けている。校長を「泥鰻(どぜう)金蔵閣下」とし、古参教師を「立枯になつた朴の木」と揶揄する。
啄木は、『雲は天才である』を書き始める前、『坊っちゃん』の読後感として、「夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし『偉大』がない」と日記に書いている。
一方、啄木の島崎藤村への評価は高い。
啄木は、「島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない」とする。藤村『破戒』は、この年(明治39)3月25円に自費出版された。
『破戒』もまた社会の圧迫と理念の狭間に悩む青年教師が主人公である。未解放部落出身、それを隠せという父親の戒めを守り生きてきた瀬川丑松は、長野の師範学校を卒業後、教師となるが、思想家猪子蓮太郎の生き方に触れ、周囲の噂にも耐えきれず、ついに生徒の前で出自について告白する。
被差別部落に対する藤村の理解は不徹底であったという『破戒』への批判はあるが、藤村が、『破戒』によって近代日本の社会構造を真正面から取り上げたことはたしかである。被差別部落の問題のみならず、いまだ残存する閉塞した村意識、教育界の腐敗、宗教家の堕落などの問題が織り込まれている。
この問題意識は『坊っちゃん』『雲は天才である』とも共通する。三作が青年教師を主人公としたのは、それぞれの作者に教師の体験があるためである。
この年のほぼ同時期に、青年教師を主人公とした小説が、漱石、藤村、啄木によって書かれた。
しかし、三作の結末は異なる。
『雲は天才である』では、学校の小使いが「乞食」と呼ぶ男が主人公を訪ねてくる。彼は主人公が兄とも慕う旧友からの紹介状を持参する。その男から、八戸で教職に就いていた旧友が、校長と対立し免職となったことを聞く。旧友はなけなしの財産を男の汽車賃に替え、自分は無一文となって旅立つ。
「雲は天才である」という主題は、旧友の生き方に共鳴し、啄木自身も教職を辞し、雲のごとく生きる未来が暗示されている。
一方、『破戒』の主人公は、生徒とも恋人とも別れ、テキサスの新天地で生きようとする。
学校の体制でさえ崩すこともならなかった青年の失望と苛立ちの反転として、啄木と藤村は青年に希望を託している。
『坊っちゃん』の場合は、この心情は共通するものの、坊ちゃんは学校世の中のすべてに苛立ち、に腹を立て、その結末は淋しい。『雲は天才である』『破戒』の主人公が抱くような、明確な希望がない。
7月4日
中国、江西の瑞昌で反乱。
7月4日
東北地方の飢饉救済に関して、天皇がセオドア・ルーズベルト米大統領に感謝の親書を発す。
7月4日
エチオピアに関して、英仏伊間で協定締結。エチオピアの領土保全・独立を承認。3ヵ国はエチオピアを3分割してそれぞれ勢力下に。
7月5日
湖北羅田の張金正ら、「輔清滅洋」を掲げ、安徽霍山の教会を破壊。
7月5日
「 (七月五日 (木)、狩野亨吉、第一高等学校長を辞任し、京都帝同大学文科大学教授として、倫理学担当を命じられ、京都帝国大学文科大学長に任ぜられる。)」(荒正人、前掲書)
7月6日
江西の吉安で反乱。
7月6日
戦地軍隊における傷者及病者の状態改善に関する条約及最終議定書調印。
7月7日
幸徳、妻千代子と共に郷里中村町に帰省。
8月3日中村町で、7日入野村で、26日後川村岩田で演説会。
この間、慢性腸カタルで下痢が続く。
8月31日午前7時、中村町発、帰京の途につく。
7月7日
墺・ハンガリーとセルビア、関税戦争「豚戦争」開始。
7月8日
永井荷風(27)、この月、モーパサン、フローベールの小説を読む。銀行内では次第に荷風の行状の悪評が広がり、解雇する噂も広がる。
「七月八日 イデス已に紐育に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつゝありと云ふ。余はこの電報を片手にして馳せ行けり。あゝ去冬十一月落葉蕭々たる華盛頓の街頭に別離の涙を濺ぎしより恰も九箇月なり。彼は一日とてもその夜の悲しさを忘れたる事なしとて熱き接吻もて余の身を掩へり。ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒楼バブストに入りて三鞭酒(シヤンパン)を傾け酔歩蹣蹣跚腕をくみて燈火の巷を歩み暁近く旅館に帰る。彼の女はこの年の秋かおそくもこの年の冬には紐育に引移りて静かなる裏通に小奇麗なる貸間(フラツト)を借り余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でゝやまず」
心の中では微妙な靄がたちこめる。
「余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉し忝じけなさ涙こぼるゝばかりなれど、それと共に又やがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては寧ろ今の中に断然去るに如かじとさまざま思ひ悩みて眠るべくもあらず。今余の胸中には恋と芸術の夢との、激しき戦ひ布告せられんとしつゝあるなり」
イデスとアメリカに永住すべきか? 別れて、芸術のためフランスに去るべきか「悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。あゝ男ほど罪深きはなし」との思いだった。
翌日の午後、イデスは帰途につく。汽車の発車の時刻が迫ってくるや、イデスは車窓から胸に挿していたバラの花を荷風に向かって投げる。「また逢ふまでの形見」であったが、それを受け取った荷風の心は分別を失う。
「余は突然いかなる犠牲を払ふとも彼の女を捨つること能はずと感じぬ。昨夜の二心は忽ち変じて今は一刻だも彼の女なくしては生くる事能はざるが如き心地となれり」
投げ渡されたバラはイデスの真心そのものだった。荷風は再び真剣な決意でイデスに立ち向かわざるを得なかった
結果的に、荷風はイデスとの恋を残してフランスへ渡り、一人で日本へ帰ってきているが、当時の日本人のだれも真似できないような恋をしたと言える。帰朝後の荷風を日本の文学者たちが好奇新鮮な目で大歓迎した理由もこんなところにあった。
「七月十日 彼の女がこと心を去らず。余はさまざま有られもなき空想に包まるゝ身とはなれり。そもそも余が父は余をして将来日本の商業界に立身の道を得せしめんが為め学費を惜しまず余を米国に遊学せしめしなり。子たるもの其恩を忘れて可ならんや。然れども如何せん余の性情遂に銀行員たるに適せざるを。余は寧身を此の米国の陋巷にくらまし再び日本人を見ざるにしかじと思ふ事廔なり。イデスはやがて紐育に来りて余と同棲せんと云ひしにあらずや。余は娼家の奴僕となるも何の恥る処かあらん。かゝる暗黒の生活は余の元来嗜む処なるを」
しかし、・・・その後もイデスとの再会は何度もあり、睦まじき交情をうかがい知ることはできるものの、フランスへ行きたいという荷風の持ちは消えなかった。
父親の慈悲でフランスのリヨン(里昂)支店に転勤することが決まった喜びは、荷風の心をそれまでのしがらみから解き放ち、新たな門出へと押し出すことになった。
つづく

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