1906(明治39)年
11月11日
■読売新聞と竹越与三郎(三叉) (つづき)
竹越与三郎は慶応元年に埼玉県に生れ、その土地にある三叉川からその雅号を得た。彼はもと清野という姓であったが、兵役関係のために竹越家を継いだ。中村敬宇の同人社、慶応義塾に在学し、また特に米人について英仏語を学んだ。福沢に推されて「大阪公論」主筆となり、世に顕れた。「国民新聞」、「国民之友」の記者であった時、同僚として知っていた国木田独歩が佐々城信子と結婚するに当って、保証人として立ち合った。その後「時事新報」に入ったが、独歩を西園寺に紹介したのも竹越であった。明治30年に雑誌「世界之日本」を発行。明治31年西園寺公望が文部大臣になると、勅任参事官になり、西園寺を助けた。
竹越は陸奥宗光に親近し、常にその身辺にいた。明治29年頃、陸奥宗光は結核が重くなり、再起不能になった。陸奥は竹越を呼び、自分はもう永いことはない、君を西園寺に紹介しておこう、自分の見るところでは、西園寺は天下第一の商人である、と言って紹介状を書いてくれた。西園寺が文部大臣になったのは、31年1月で、3ヵ月在任したに過ぎなかった。
西園寺が辞任すると、竹越も野に下り、出版社開拓社を興した。その頃彼は、「二千五百年史」を著し、名著と喧伝され、日本のマコーレイと言われた。この本は、日本歴史をそれまでの定形であった政権、戦争の書としてでなく、一貫した文化史として述べたものであり、明治10年に出た田口卯吉の「日本開化小史」に次ぐ好著であった。明治38年、竹越与三郎は外遊し、戦後ぺテルブルグに再開されたばかりの公使館で本野一郎に逢った。そのとき本野一郎は、父の盛亨が70歳を過ぎた高齢であるとして、「読売新聞」について竹越の援助を求めた。そのためもあって、明治39年、西園寺内閣が成立すると、「読売」は竹越を通して西園寺内閣の機関紙のような密接な関係を持つようになった。
本野社長は、「読売」の衰運を苦慮していたので、筆の人で、かつ政治家である竹越を社に迎えて、窮状を脱しようとした。そのために本野は、足立北鴎を主幹兼副社長として営業方面を担当させ、竹越を主筆として招いた。
竹越は、当時、望月小太郎、松本君平とともに日本三ハイカラの一と言われていた。竹越は口髭と短い顎髯を生やし、シルク・ハットにフロックコートを着、片手にステッキをはさんで馬車に乗って出社した。入社以来、二階の編輯室の一劃に小さい主筆室があり、彼はそこに入って上着を取り、紫の縁どりをしたライブラリ・ジャケツに着替えをした。そのジャケツ姿もまた中々典雅なものであった。
その姿で彼は、編輯室に出て来た。「読売新聞」の編輯室は、日露戦争前までは畳敷きで、記者たちも多くは和服の着流しであったが、日露戦争頃から、事務室風の椅子とテーブルに変えられた。記者たちもまた洋服姿が多くなっていた。しかし、演劇と文芸欄担当の正宗忠夫と、社会部長の上司延貴などは数少い和服組であった。彼は若い記者たちをつかまえて快活に談笑した。そして咏嘆するような調子で、
「青春重ねて来らず、若き日は大事だよ。百金名馬を買うべし、千金美人を買うぺし、万金青春を買うべからず。・・・人間は長生きをしたがるが、年をとるのはいやがる。矛盾だね」などと言った。
上司小剣はこの時数え年33歳で、入社してから10年経ち、古顔の記者になっていた。彼は、この頃しばしば原稿を売りつけに来て係りの正宗忠夫を悩ましている岩野泡鳴の言葉を引いて、竹越に答えた。
「岩野泡鳴は、年をとって性慾も食慾も乏しくなったら舌を噛み切って死ぬんだと言っていますよ。」
「あれはやりかぬないかも知れないぬ。」と竹越は答えた。
竹越は代議士として与党の政友会を代表し、野党の憲政本党を代表する島田三郎としばしば論争したが、議会においての弁論では島田の魅力のある説得方法に敵わなかった。しかし今度は筆を取って「毎日新聞」の島田と戦うことになった。筆力においては竹越が優勢であり、「読売新聞」の論説は竹越を迎えてから精彩を放つようになった。
竹越与三郎は文芸新聞としての「読売」の機能を十分に発揮するために、智識階級人に圧倒的な人気のある夏目漱石を起用することを考えた。彼は寄稿家として前から「中央公論」と関係を持ち、滝田樗陰を知っていた。滝田はしばしば夏目のところへ出入りしていたので、その頃夏目が、学校の勤めを億劫がり、毎日一つずつ文章を書いてそれに十円ずつ払うような新聞社でもあれば、学校などはやめてしまいたい、などと冗談混じりに言っていることを竹越は滝田から聞いていた。もし夏目を定期執筆家として迎えることができれば、尾崎紅葉を抱えていた当時のような黄金時代が「読売新聞」に再現するかも知れない、と竹越は考えた。
漱石の意向を打診する任務が滝田樗陰に与えられた。その条件は「読売新聞」の文壇という欄を担当し、隔日に一欄又は一欄半の原稿を、月六十円の報酬で書いてほしい、ということであった。滝田がその話を持って行ったのは明治39年11月15日であった。それに対して翌日夕方、漱石は断りの手紙を滝田に書いた。その中には次のような言葉があった。
「僕が隔日に書けば大学か高等学校をやめる。どっちをやめるかと云へば大学をやめる。
大学は別段難有いとも名誉とも思ふて居らん。今迄三年半に余としては一人前の仕事をして居る。やめたとて職に堪へぬとは言はれない。
高等学校は授業が容易で文学上の研究及び述作の余裕を作るに便だからやめぬ。(略)大学をやめれば八百円の収入の差がある。よし読売が八百円くれるにしても毎日新聞へかく事柄は僕の事業として後世に残るものではない。(後世に残る残らんは当人たる僕の力で左右する訳には行かぬ。然し苟も文筆を以て世に立つ以上は其覚悟である)只一日で読み捨てるものゝ為めに時間を奪はれるのは大学の授業の為めに時間を奪はれると大した相違はない。(略)竹越氏は政客である。読売新聞と終始する人ではなからう。一片の約束である程度の機会的文学欄を引き受けた所で竹越氏と終始して去就する様に融通の利く文学者ではない。ある時ある場合に僕は一人で立場を失ふ様になるかも知れぬ。竹越氏が如何に努力家でも如何に僕に好意を表しても全然方面の違ふ文学者を生涯引きずつてあるく訳には行かぬ。(略)今度の御依頼に裁て尤も僕の心を動かすのは僕が文壇を担当して、僕のうちへ出入する文士の糊口に窮してゐる人々に幾分か余裕を与へてやりたいと云ふ事である。然し事情を綜合して考へると夫も駄目である。(略)」
漱石の返事は竹越に伝えられたが、竹越は諦めることができず、漱石を訪れて説得した。漱石は中々承諾しなかったが、竹越は強引に説きつけて、漱石の再考を促した。結果、漱石が熟考を約したことが、竹越には承諾を得たもののように受け取られた。
その年11月20日附の「読売新聞」に次のような社告が載った。
「夏目漱石君は文壇の新星にして、其光芒燦爛、四方を照すの概あるは縷説を要せず、我社幸に同君に請ふて特別寄書家たる約諾を得たるを以て、今後読売新聞紙上に其創作批評を公表せらるべし。最も注目すべきは一月以後の新聞にありと雖も、年内に於ても名品を読者の前に供することあるべし。」
その月、漱石(40歳)は近く出ることになっている「文学論」の序文を読売に載せた。更に新年の原稿を依頼するため、竹越与三郎に代って文芸附録担当者の正宗忠夫(28歳)が出かけた。
正宗は前々年明治37年11月の「新小説」に処女作「寂莫」を発表して以後数篇の短篇小説を書き、作家としても少しずつ認められかかっていたが、決定的な作品を書くに到っていなかった。正宗はぶっきらぼうな物言いをする男であり、漱石もまた歯に衣を着せぬ男であったから、不愛想な対話が1時間ばかり続いた。その結果、一篇の評論を漱石は書いた。それは「作物の批評」と題した批評方法論で、20枚ほどのものであった。「読売新聞」はそれによって漱石の同意を全面的に得たものとして、次のような社告とともに、明治40年元旦の紙面に載せた。
「夏目漱石氏は特別寄稿家として創作と批評とを続々本紙に掲載せらるぺく、其光彩燦爛たる雄篇は現に本日の紙上に在り、丁未文壇の偉観は独り我読売新聞の姿になる所たるぺし。」
しかし、それ以後漱石の作品は「読売新聞」には暫く現われなかった。
(日本文壇史より)
11月11日
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つづく

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