大杉栄とその時代年表(672) 1906(明治39)年7月3日~8日 啄木 「七月になった。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。これは鬱勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」 より続く
1906(明治39)年
7月9日
3月11日に市電値上げ反対の東京市民大会を開催した西川光二郎、大杉栄、山口義三らに無罪判決。
7月9日
(漱石)
「七月九日(月)、狩野亨吉から、京都帝国大学文科大学新設に際しし、英文学の講座担当を依頼される。
七月十日(火)、狩野亨吉に取りあえず、断りの手紙を出す。千駄木が嫌いだから、千駄木を去ることできぬ。正邪曲直の衝突する時、正直の方から手を引く必要ないと書く。(東京帝国大学への不調があったものと推定される)」(荒正人、前掲書)
7月10日
日比谷焼打ち事件群集の判決、有罪87人。一方、民衆に斬りつけて起訴された警官3人は有罪1人(9月5日、放火犯と間違えて市民を負傷させた本所警察署巡査)のみ。
7月10日
仏上院で週休法が可決される。
7月12日
仏破毀院、ユダヤ人の陸軍大尉ドレフュスの名誉回復。1894年の反逆罪嫌疑は事実無根と判断。
(2025年7月12日にフランス大統領エマニュエル・マクロンは、ドレフュスの無罪確定120周年にあたる2026年から7月12日を記念日として、「憎悪と反ユダヤ主義に対する正義と真実の勝利を祝う式典」を開くと表明した。(Wikipedia))
21日、ドレフュスはレジョン・ド・ヌール勲章を授与、彼の面前を軍隊が行進。
7月13日
南満州鉄道株式会社設立に関し、総参謀長児玉源太郎を委員長とする設立委員会、設置。80人。
7月13日
日加通商条約調印。
7月17日
東京市、市区改正速成事業などのため、ロンドンで150万ポンド5分利付東京市債発行決定。
7月17日
(漱石)
「七月十七日(火)、『吾輩は猫である』(十一)脱稿する。全篇完結する。夜、小宮豊隆宛手紙に、「夏は閑静で綺麗な田舎へ行って御馳走をたべて白雲を見て本をよんで居たい。」と書く。胃が堅くなるとも告げる。
七月十八日(水)、所労休み。高浜虚子来る。
七月十九日(木)、東京帝国大学では、西洋人を一人雇うことになるので、自分の地位に不安を覚える。第一回等学校も本職ではないので、狩野亨吉宛手紙で、「東京大挙の方別段小生の出講を要せざる事に相成、園上高等学校の方もいつ迄も身分がかたまらぬ模様なれば今一應とくと熟考の上京都へ行くか行かぬかを取り極め度と存候」と述べ、京都帝国大学への就任に関して、微妙な心境を伝える。
七月二十日(金)前後、中川芳太郎は、上田敏のために尽力する。中川芳太郎の態度に不快の念を抱く。七月二十四日(火)、中川芳太郎宛手紙で、訓戒を与える。」(荒正人、前掲書)
7月20日
日本初の専用線電話が日本銀行と横浜正金銀行本店間に設置
7月20日
(露暦7/7)セント・ペテルブルク、合法的ボリシェヴィキ雑誌「エホー」、レーニン「・・・我々は世界革命を望んでいる…」。
7月20日
フィンランド、新憲法制定。一院制、婦人参政権、比例選挙。
7月20日
グアテマラ、エルサルバドル及びホンジュラスと講和条約締結。5月以来の3ヵ国間の戦争終結。
7月21日
慶應義塾教師向軍治、多数の死者を出した旅順戦を批判。問題となる。
7月21日
(露暦7月8日)4月27日に開会したドゥーマ(第一国会)、急進派の諸政党にボイコットされ解散。ピョートル・ストルイピンが首相となる。
獄中のトロツキー、この問題についてパンフレット「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」を執筆。レーニンによりボルシェヴィキ出版社から出版。更に、この頃「1905年労働者代表ソヴィエトの歴史」執筆、出版。
■この頃のツァーリ(ニコライ2世)の日記(トロツキー『ロシア革命史』1)
「七月七日。金曜日。きわめて多忙な朝。将校のための朝食会に三〇分遅刻・・・雷雨があった、ひどく蒸し暑い。いっしょに散歩した。ゴレムーィキンを引見。ドゥーマ解散の勅令に署名!オーリガとペーチャのところで昼食。一晩じゅう読んだ。」
・・・
解散させられたドゥーマの議員たちは国民に納税と兵役義務の遂行を拒否するように呼びかけた。一連の軍隊の反乱が起こった。スヴェアボールク〔バルト海艦隊の基地で、のちのフィンランドのスオメソリンナ市〕で、クロンシタットで、艦船で、陸軍部隊で。高官にたいする革命テロが空前の規模で復活した。ツァーリは記す。「七月九日。日曜日。実現した!ドゥーマはきょう解散。ミサ後の朝食時、呆然とした顔をしている者が多かった・・・天気はすばらしかった。散歩のとき、きのうガーッチナから来たミ-シャおじに会った。昼食まで、また、晩じゅう静かに仕事をした。カヌーを漕いだ。」・・・。
・・・ - 「七月一四日。着替えをして、自転車で海水浴場に出かけ、海で楽しく泳いだ。」「七月一五日。二度泳いだ。とても暑かった。二人で昼食。雷雨があった。」「七月一九日。朝、泳いだ。農園で引見。叔父のヴラヂーミルとチャーギンが朝食。」・・・。
「朝九時半にカスピ連隊に出かけた・・・長いことぶらついた。天気はずばらしかった。海で泳いだ。お茶のあとリヴォーフとグチコーフを引見した。」 二人の自由主義者の引見はきわめて異例なことだが、ストルーィピンが野党政治家を自分の内閣にひきいれようとしたためにその引見がおこなわれたという事実には一言もふれない。未来の臨時政府首班、リヴォ-フ公爵は当時、ツァーリのその引見についてこう語っていた。「私は、悲しみにくれるツァーリの姿を眼にするものと予期していたが、かわりに私のところへあらわれたのは、暗赤色のシャツを着た陽気で活発な青年であった。」」
7月22日
西園寺首相、台湾総督府民政局長後藤新平に満鉄総裁就任要請。拒否。
7月23日
煙草専売局製造煙草の種類公示。
7月23日
児玉源太郎(54)、脳卒中で急没。
8月1日、台湾総督府民政局長後藤新平が「満鉄」総裁を引受ける。後藤は7月31日、山縣元帥に手紙を書き、8月8日には大島都督・寺内陸相に建白書を提出。
7月23日
露、ゴレムイキン首相、辞任。後任に内相兼任のままストルイピン就任。反動強化。
7月23日
第3回汎米会議開催(リオデジャネイロ)。
7月24日
逓信省、女子職員17人を判任官として採用する。教職を除く判任官としては初めて。
7月26日
清国、京師督学局開設。
7月26日
湖北蘄(キ)州で反乱。
7月26日
(漱石)
「七月二十六日(木)、『草枕』起稿する。
七月二十七日(金)、浜武元次から手紙で千葉県安房郡北条町浜小松、岩谷別荘へ遊びに来るよう誘われたが断る。
午後五時から山上御殿で夕食する。(予定)
七月二十八日(土)、狩野亨吉に使いを出し、七月二十七日(金)に借用を頼んでおいた書物を借りる。
房総沖を台風通過。この台風は、沖縄から紀州前端を通り、遠州灘を経て、来襲したものである。荒川その他の河川で増水。低地は浸水。小石川区では、関口水道町の出水が、一メートル五十センチ余りに達し、避難する者もある。
七月三十日(月)、狩野亨吉宛手紙で、京都帝国大学を見合せる旨伝える。」(荒正人、前掲書)
7月26日
南方熊楠(40)、松枝(28)と結婚。
翌年7月、長男熊弥、誕生。周辺の植物採集を続ける。
7月28日
清国、教育会章程制定。
7月28日
原敬内務大臣、内務省内の山縣有朋の閥を潰すため、県知事6名、事務官30名余りを休職とする。
つづく

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