1906(明治39)年
10月22日
名古屋電力株式会社設立。
10月22日
セザンヌ(67)、没。
10月23日
(漱石)
「十月二十三日(火)、雨。狩野亨吉宛手紙に、「何でも君が僕の夢を見た事がある。さうして僕が養母と其娘と居て穴八幡があって、養母の名が仲であるといぶ夢は實際妙である。ことに日本新脚にあんな事が出たのを知らないで見たのだから愈妙だ(僕も日本新聞はアトカラ注意されて見た)妙は妙であるが是は餘り豫想外であるから妙なのである。元来夢に就て僕はかう思つてゐる。人はよく平生思つてるものを夢に見ると云ふが僕の考では割合から云ふと思はないものを見る方が多い。昔し僕がある女に惚れて其女の容貌を夢に見たい見たいと思つて寐たが何晩かゝつても遂に一度も見なかつたのでもわかる。」と書く。入浴。その後、狩野亨吉宛手紙(二通め)を書く。
十月二十四日(水)、第一高等学校、行軍のため休講である。
前田洋造(夕幕)、白日社を設立する。翌年歌誌『向日葵』の発刊を計画する。賛成員に加わることを承諾する。(白日社は新詩社に対抗、批判を行う。)
松根東洋城宛手紙に『文章一口話』の筆記に朱を加えたが骨が折れたと書き、俳句一句を添える。同日別の手紙に、俳句六句を書き送る。
十月二十五日(木)、二十六日(金)、「菊既二開ク。」(「断片」)
漱石は同じ日に、狩野亨吉に二度の長文の手紙を出している。第一便には夢のことと、京都帝国大学から招かれたけれども、東京にいる理由を述べる。第二便では、東京にいる理由について、半生を回顧しながら、再び述べる。手紙の調子から、漱石の気分は落諾いたらしい。」(荒正人、前掲書)
・この日付けけの漱石の手紙
「今迄は己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかつた。己れを信頼した事が一度もなかつた。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しやうとのみ生活してゐた。是からはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所迄行つて、行き尽いた所で斃れるのである。」(10月23日狩野亨吉宛書簡)
10月24日
英、婦人参政権論者11人が議会開会時に起きた暴動に参加したとして投獄。
10月25日
この日付け「光」掲載の社会党公報。
近く日刊「平民新聞」が創刊され、キリスト教派と非キリスト教派が再び手を結び合うこと、また「新紀元」は来月10日号を以て廃刊し、石川三四郎は新しい平民社に創立人として加わること、安部磯雄は社友として援助すべきこと等を報じる。
また、木下尚江の脱党の報告
「然れど吾人は又茲に一の悲むべき事実を報告せざるを得ず。それは吾党の運動に永さ歴史を有せる木下尚江氏が遂に全く吾党と関係を絶ちたるの一事なり。(略)因に記す、氏は今月下旬より家を伊香保の山中に移し、『懺悔録』其他の著述に従事すべしと云ふ」
▼荒畑『続平民社時代』より
「日刊『平民新聞』発刊報道については、多少のコメントを要するであろう。
第一は、『平民新聞』と日本社会党との関係である。新聞発刊に関する報道記事には、本紙が日本社会党の機関紙たることを明記した点はどこにも存しない。しかしながら、本紙の創立者、出資者、及び社員は殆んど全部社会党員であり、特約寄稿家には非社会主義者も含まれているが、いずれも社会主義運動に対して理解と同情とを有する人々に非ざるはない。それ故、特に明記するまでもなく、日刊『平民新聞』は日本社会党の検閲紙たることに変りないのである。
第二に、日刊『平民新聞』と従来の社会主義運動機関紙、即ち『光』及び『新紀元』と本紙との関係如何。これについては十月二十五日発行の『光』第二十五号に、初めて『日刊平民』の発行が報道された記事中、
……平民社創立人は、石川、西川、竹内、幸徳、堺の五氏にして、全く是れ旧平民社の再興と目すべき者なり、
只だ竹内氏の名は未だ多く世に知られざれども氏は弘前市の古き同志にして、今回主として出資の任に当りたる人なり。
石川氏の名を記すに就ては、勢い少しく『新紀l空の事を記さざるを得ず……
の一節があって、旧平民社の解散後、石川、木下、安部の創唱したいわゆる基督教社会主義と西川、山口の発刊した唯物論的社会主義と両派の異見論争に言及した。そして、
然れども此の二派たるや、社会主義の解釈・若しくは確信に於て、決して相容れざる者に非ず、故に今回は二派熟議の上、更に相提携して同一歩調を取る事となり、即ち石川氏は平民社の創立人に加わり、安部氏等も亦た社友として大いに日刊平民新聞を援助する事となれり……
と記している。
『光』と『新紀元』との思想や主張の異同については、本書ですでに詳説したから今さら蒸し返す必要はないが、この二派の「社会主義の解釈、若しくは確信に於て、決して相容れざる者に非ず」という説は筆者の承服し兼ねる所である。それ故、石川が平民社の創立人に加わり社会党の機関たる平民新聞の編集当局に就任したことは、背信食言の行為と言わざるを得ない。唯物論的社会主義と基督教社会主義との異同に関して徹底的な論争を行わず、無理論、無原則な妥協に終った二派の合同はその後、社会党大会の決議の上にも痕をとどめた。
第三は、いわゆる「二派熟議の上、更に相提携して同一歩調を取る」に決した結果、『新紀元』は十一月発行の第十三号を以て、また『光』は十二月二十五日発行の第三十一号を以て、それぞれ廃刊して『日刊平民』に合流するに至った。是より先、木下尚江は幸徳の勧誘によって社会党に入党したが、石川は堺の入党勧告を拒絶して既記の如く『新紀元』誌上に反階級闘争説や反政党諭を発表した。堺は『光』の誌上で、石川の言うところは畢寛まず労働者の多数を聖人君子たらしめ、それから政治運動を開始すべしとするに在る。階級闘争の現実を厭うならば「独り静かに或る一小天地に隠れ、説教なり、講演なり、著述なり、慈善なり、組合事業なり、改良事業なり、自己の意の適するに従って其カを尽すが善い」と論じた。この堺のやや皮肉な勧告が、当の石川でなく木下によって実践されたのは意想外であった。『日刊平民』発行の計画が起こって堺、幸徳等から参加を要望された時、石川は依達として容易に決しなかったが、安部磯雄等はこれを以て一たん社会主義運動を融和再結合せしむべき好撥とし、切に説く所があったので石川も遂に計画に参加を決定したのだという。然るに石川のいわゆる「新紀元社の柱石」たる木下は、母堂の死去に逢って俄かに「心裡に革命が生じ」たと言い、「人はキリスト教と社会主義と二人の主に仕うる能わず」と称し頑強に『新紀元』の廃刊を固執し、上州伊香保の山中に隠れてしまった。」(荒畑『続平民社時代』)
10月25日
仏、クレマンソー内閣成立(~1909)。
10月25日
サンフランシスコ学務局の日本学童隔離決議(11日)に対し、青木周蔵駐米大使抗議。
10月26日
(漱石)
「十月二十六日(金)、鈴木三重吉から手紙で、教訓を求められたことへの返事として、第一信では、そんな資格はないと返事したものの、第二信では、「オイラン憂ひ式」に警告する。
「君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり。自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文學者だと澄まして居る標になりはぜぬかと思ふ。現實世界は無論さうはゆかぬ。文學世界も亦さう許りではゆくまい。かの俳句連虚子でも四方太でも此點に於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文學者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。僕は一面に於て俳譜的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文學者の様な氣がしてならん」と書く。」(荒正人、前掲書)
10月26日付漱石の鈴木三重吉宛手紙(第一信)
「寺田も四方太もまあ御推察のやうな人物でせう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ。ざうして貴族種だから上品を所がある。然しアタマは余りよくない。さうして直むきになる。そこで四方太と合はない。僕は何とも思はない。あれがハイカラならとくにエラクなつて居る。伯爵の伯父や叔母や、三井が親類でさうして三十円の月給でキュキュしてゐるから妙だoさうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ来て坐り込んで飯時が来て飯を食ふに、恰も正当の事であるかの如き顔をして食ふ。(略)
「君は森田の事丈は評して来ない。恐らく君の気に入らんのだらう。あの男は松根と正反対である。一挙一動人の批判を恐れてゐる。僕は可成あの男を反対にしようしようと力めてゐる。近頃は漸くあれ丈にした。それでもまだあんなである。然るにあゝなる迄には深い原因がある。それで始めて逢つた人からは妙だが、僕はあれが極めて自然であって、而も大に可愛さうである。僕が森田をあんなにした責任は勿論ない。然しあれを少しでももつと鷹揚に無邪気にして幸福にしてやりたいとのみ考へてゐる。(略)」
(第二信)
「只一つ君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらって決して損のない事である。(略)只きれいに、うつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分の一か知らぬが矢張り極めて僅少を部分かと思ふ。で草枕の様な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイプセン流に出なくてはいけない。(略)
「君の趣味から云ふとオイラン憂ひ式でつまり、自分のウツクシイと思ふ事ばかりかいて、それで文学者だと澄まして居る様になりはせぬかと思ふ。現実世界は無論きうはゆかぬ。文学世界も亦さう許りではゆくまい。かの俳句連虚子でも四方太でも批点に於ては丸で別世界の人間である。あんなの許りが文学者ではつまらない。といふて普通の小説家はあの通りである。僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に、一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。それでないと何だか難をすてゝ易につき、劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文学者の様な気がしてならん」
漱石はは、漱石自身の文学者の立場、文学にはどのような精神をもって取り組むかを語り、「腰抜文学者」 にはなりたくないと言っている。
さらに、苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば、単に美といふ丈では満足出来ない。丁度維新の当士(ママ)勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては、文学者になれまいと思ふ。
文学者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる様な小天地ばかりに居れば、それぎりだが大きな世界に出れば、只愉快を得る為めだ抔とは云ふて居られぬ、進んで苦痛を求める為めでなくてはなるまいと思ふ。
と、まだ東大英文科の学生である鈴木三重吉に、文学を遭って生きる者の心構えを説いている。
これは漱石の文学に取り組む姿勢、決意である。
10月26日
独領ポーランドの生徒、宗教の時間に独語使用を強制されることに反対し、ストライキ。
10月27日
海江田信義(75)、没。
10月28日
(漱石)
「十月二十八日(日)、暗。午後、寺田寅彦と共に、明治音楽会演奏会(上野音楽学校)に行く。(喜多舞台の能に、モリスから切符を頼まれていたが、同行したかどうか分らぬ)」(荒正人、前掲書)
10月29日
帝国肥料株式会社創立(横浜)。資本金300万円。
10月31日
木下尚江、伊香保の温泉宿、小暮金太夫方へ転居。「毎日新聞」の退職金が彼の生活を支えた。木下が伊香保を選んだのは、この夏ロシアから帰った徳富蘆花が、出発前に、精神的な苦悩の果て伊香保に隠退していたことから暗示されたため。木下の実社会離脱、自己否定、懺悔という衝動は蘆花が1年前の明治38年末に味わった経路に似ていた。冬の間、客の少い宿で、彼は半年の約束で安い料金で座敷を借り、その前半生の自叙伝なる「懺悔」を書きはじめた。

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