1906(明治39)年
9月
韓国、日本人参事官各地に配置。
9月
西川光二郎「改革者の心情」発禁。
9月
吉野作造「支那人の形式主義(再び)」(「新人」)。
革命・暴動により天下は乱れるのみ、「結局外国勢力に依って僅かに納まるものとおもわれる」。
革命運動に無理解、日本の対中国政策にも無批判。
吉野(既に娘3人の子持ち)、この年より3年間中国で生活(直隷総督袁世凱の息子克定の家庭教師)。
9月
この月頃から日刊『平民新聞』発行の計画がもちあがり、新たに平民社を京橋区新富町6丁目7番地(現・中央区新富2丁目)に設置することになる。事務所は、新富座の隣にあった廃業した芝居小屋を借り受けた。
日刊紙を出す話は、弘前の裕福な竹内兼七という資金提供者が出現したことで急に具体化した。竹内は『新紀元』を刊行していた西川光二郎に、『新紀元』を日刊化することを提案する。西川は堺と秋水に相談し、それなら『新紀元』と『光』を合同して、日本社会党の事実上の機関紙として一本化しよう、ということになった。
「階級闘争論」をめぐって一時は堺と論争をした石川三四郎は、この新しい平民社の創立人として加わった。
しかし、木下尚江は心境の変化を理由に社会主義運動から退き、『新紀元』からも抜けて、群馬県の伊香保の山中に隠遁してしまった。
9月
噺家・社会活動家高松豊次郎、風刺喜劇短篇「社会パック活動写真」を公開。千葉吉蔵撮影。
9月
(漱石)
「九月(日不詳)、鈴木三重吉の下宿に筆を迎えにやる。鈴木三重吉初めて来る。高浜虚子も来る。二人に松茸飯を出し、キュラソーを添える。(鈴木三重吉は、休学していた東京帝国大学文科大学英文学科に復学する。漱石の門下生となり、高浜虚子・松根豊次郎(東洋城)・坂本四方太・寺田寅彦・森田草平・小宮豊隆・野上豊一郎・野上ヤヱ(八重子)と交友を深める。)
(九月、武者小路実篤・安倍能成・宮本和音、東京帝国大学文科大学哲学科に、志賀直哉は英文学科に入学する。(志賀直哉は、武者小路実篤に勧められ、漱石の講義を二度聴講する。)和辻哲邸、第一高等学校に入学する。)
安倍能成は、ケーベルの講義に出席。また波多野精一のキリスト教思想史に感激する。宝生新に下掛宝生の謡を習った。その後、宝生新は高浜虚子と漱石に謡を教えていたこともあり、高浜虚子や夏目漱石と親しくなる。
(*和辻)『倫教塔』に感激し、また春山武松の漱石熱に煽られて休講の折には、漱石の英語のある組の窓の下で、巻き舌の発音を聞いて心を慰める。(明治三十八年九月から明治三十九年九月までの間に、第一高等学校の講演会で、シェンキェヴィッチの『クオ・ヴァディス』についての講演を行い、谷崎潤一郎・辰野隆などは感動する。)」(荒正人、前掲書)
9月
正宗白鳥「旧友」(「新小説」)
この年、正宗白鳥は数え年28歳、「読売新聞」記者になって4年目。
はじめ美術、文芸、教育に関する消息記事を書き、明治37年から劇評も書いたが、その年11月、「新小説」編輯主任後藤宙外にすすめられて、初めて短篇小説「寂莫」を「新小説」に発表した。
彼は学生時代に友人について田山花袋を訪問したことがあり、以後時々花袋を訪ねて、ヨーロッパ文学の智識を得た。
明治38年、花袋や柳田国男のグループの作っていた龍土会に加わり、そこで岩野泡鳴らの文士と交際するようになった。
明治38年~39年、漱石が諸作を発表し、島崎藤村の「破戒」や国木田独歩の作品が注目を浴びるようになり、文壇に新機運の起るきざしが濃厚になり、彼も創作に対して積極的な気持ちが湧き、幾つかの小説を発表した。
この年、「新小説」2月号に「破調平調」を、9月号に「旧友」を書いた。"
9月
イギリス人ジョン・ローレンス、東京帝国大学文科大学教師に着任、英語英文学を教え始める。また授業に加えて「セミナー」による指導を推進。
9月
東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
9月
富士瓦斯紡績、東京瓦斯紡績を合併。
9月
王子製紙、北海道苫小牧に工場新設を決定。資本金600万円に増加。
9月
レッヒェンベルク、独領東アフリカ総督就任。
9月
メキシコ、自由党員30人がテキサスから侵入。コアウィラ州ヒメネスの街を襲撃。
9月1日
関東総督府を廃止、関東都督府となる。都督は大島大将引継ぎ、陸軍部設置。
「関東都督府官制問題」:陸軍(都督府)・外務(在満領事)の対立を惹起。
都督は陸軍大・中将が親任され、政務は外務大臣、軍政、軍人人事は陸軍大臣、作戦・動員計画は参謀総長、軍隊教育は陸軍教育総監の監督をうける。特別委任事項として、都督は外務大臣の委任により清国地方官憲との交渉できることになるが、在満領事の権限を強化しようとする外務省と対立。
9月1日
清朝光緒帝、預備立憲を宣示し、数年後に立憲政治の実現を宣言。
9月1日
大連港を自由港として開放。大豆・石炭などが積み出され、絹布など工業製品が荷卸し。
9月1日
韓国統監府機関誌『京城日報』、創刊。
9月初
「鈴木三重吉が九月の初めのある日、千駄木町五十七番地の夏目家にやって来た。鏡子が出て逢うと、顔の輪郭はたしかに写真の通りだが、目玉がぎょろりとして、首の長い色の黒い男で、とても好男子と言える顔ではなかった。鈴木三重吉は調子の高い青年で、はきはきとものを言い、自分の才能が漱石に買われているという自信もあったので、夏目家で先輩の寺田寅彦などに逢っても怖じるところがなかった。
夏目漱石はこのとき数え年四十歳であった。彼の文士としての活動は明治三十八年の一月から始められて、知識階級の間には次第に安定した読者が出来ていたのであるが、その才能は「吾輩は猫である」に現われた諷刺と批評の混った面白さと、「幻影の盾」や「薤露行」に現われた詩的ロマンチシズムであって、ともにまだ、学者の余業という匂いの漂うものであった。だがこの年四月の「ホトトギス」に発表した「坊っちゃん」と九月号の「新小説」に発表した「草枕」とは、完全に玄人としての作品として、文壇人にも否応を言あせないだけの力を示していた。小説家としての漱石のカを疑うことは何人にもできなくなった。
「草枕」における美文調と脱俗的な文人思想との結合は、一脈泉鏡花の方法を思わせるところはあったが、やっぱり先例のない新しい小説と言わなければならなかった。鈴木三重吉から見ると、「草枕」は、中年になった漱石の人間としての諦観を芯としている点では、三十五歳の彼に書けるような作品ではなかった。しかし抒情的な文体による田園の風趣の中に人間を描くという点で、その年の四月に漱石の推薦によって「ホトトギス」に出た彼の「千鳥」の影響がこの作品に及んでいることを漠然と彼は感じていた。「千鳥」を読んだために漱石が、それなら自分もこれを書けるという気特で「草枕」を書いたことだけは推定できた。
その意識が、もともと調子の高い人間であった鈴木三重吉を、夏目家において自由に感じさせ、自分は漱石に甘える特権があるという慧誠を抱かせる原因になった」(日本文壇史)
9月1日
第2回水産博覧会開催(神戸市、~11月30日)。
9月1日
ゴールデンバット販売開始
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