2025年11月18日火曜日

大杉栄とその時代年表(682) 1906(明治39)年9月16日~30日 「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。

 

黒板勝美

大杉栄とその時代年表(681) 1906(明治39)年9月11日~中旬 鶴見祐輔、第一高等学校英法科3年生、漱石の講義を聴く。その時の回想「紺の背廣の夏服を着た先生が、左小肱に、教科晋と出席簿とを抱へて、少し前かゞみに、足早やに入ってこられた。漆黒な髪の毛、心持ち大きい八字髯、ハッチりした眼。そして、どこか取り澄ましたやうに、横など向いて、出席簿を手早やに片付けて。鉛筆をなめて、何やら一寸書き込んで。教科書をパット開かれた。」 より続く

1906(明治39)年

9月16日

漱石の岳父(妻境子の父、元貴族院書記官長、56歳)中根重一、病没。


「中根重一は官職を退いてから事業に手を出して失敗を重ね、しばしば女婿漱石の援助を受けた。漱石の身辺には、元の養父塩原昌之助やその別れた妻のやすをはじめ、そういう関係の人間が多く、まともにつき合っていると大変煩雑だったので、漱石は妻と相談して、親戚附合は一切不義理をするという原則を作って、その上で可能なことだけをしてやった。

中根重一は不遇を生活が長く続いた結果、安田保善社に勤めて少しばかりの月給を得て生活を支えていたが、その子供の学資などは夏目家から出ていた。いま重一が死んでみると葬式を出す金もなかった。嫁いだ娘たちや古い友人達が金を出し合うことになり、漱石もその金を出した。そして彼はその死亡広告にも名を連ねた。しかし彼は、その葬式には出ないと言い出して、どうしても妻の頼みを聞き入れなかった。彼は遺族にあてて長文の慰めの手紙を書いた。そういうとき、何が彼をそのように頑固にさせるのか、はたから考えて分らないところがあった。彼は岳父の葬式に出ないで学校の講義に出ていると人に言あれるのを気にして、葬式の当日は大学の講義も休んで家でじっとしていた。」(「日本文壇史」)


9月17日

(漱石)

「九月十七日(月)、『東京朝日新聞』の「月曜文壇」にグレー・マルキン「漱石氏の猫」掲載される。」(荒正人、前掲書)

9月18日

中国の浙江諸県で飢民暴動発生。

9月18日

富士瓦斯紡績株式会社設立。

9月19

石垣綾子、誕生。東京市谷加賀町。父は陸軍幼年学校教師。物理の受験参考書はベストセラー。大正6、府立第1高女入学。

9月20日

(漱石)

「九月二十日 (木)、正午、中根重一の葬儀行われる。参列しない。学校も休み、葬儀の費用の一部も引き受ける。遺族に長文の手紙を送る。(現存しない)

『国民新聞』に「夏目嗽石の『草枕』」掲載される。本文でも「嗽」が使われている。文末に「家巣」と署名ある。

九月二十一日(金)、『報知新聞』の「報知漫筆」に、高田梨雨「『草枕』を讀む(上)」掲蛾される。

九月二十二日(土)、『報知新聞』の「報知漫筆」に、高田梨雨「『草枕』を讀む(中)」掲載される。

九月二十三日(日)、午後一時、和強楽堂(神田)で、大町桂月発起の第四回文芸講演会開かれる。巌谷小波・高須梅渓・大町桂月・夏目漱石・建部遯吾・田口掬汀の講演行われる。(予定)

九月二十四日(月)、寺田寅彦、甥の別役亮と共に来る。留守中に皆川正禧来る。『報知新聞』の「報知漫筆」に、高田梨雨「『草枕』を讀む(下)」掲載される。『東京日日新聞』に天弦生(片上伸)「『草枕』を讀む」掲載される。」(荒正人、前掲書)


9月20日

フィリピン、スミス総督就任。

9月24日

「貧富の戦争」(「光」号外)。朝憲紊乱。

9月24日

アトランタで反黒人暴動。戒厳令。黒人18人含む21人死亡。地元新聞が黒人による白人女性への性的暴行を報じたことを切っ掛けとして白人による黒人への集団暴行が勃発、

9月25日

旅順鎮守府条例公布(勅)。

9月25日

ペテルブルク、ディミトリー・ディミトリエヴィチ・ショスターコーヴィッチ、誕生。

9月26日

日米追加犯罪人引渡条約公布。

9月26日

(漱石)

「九月二十六日(水)、靖国神社の能楽堂に赴く。第一高等学校の同僚R・W・モリス(明治三十八年から四十年まで在職)も来る。

九月二十七日(木)、『国民新聞』に、「三崎座の『猫』(上)」掲載される。署名はない。

九月二十八日(金)、夜、高須賀洋平来る。『国民新聞』に、「三崎座の『猫』(下)」掲載される。署名はない。

九月三十日(日)、森田草平宛手紙に、『草枕』の主旨を説明する。」(荒正人、前掲書)


9月26日

米、キューバに軍事干渉。

9月28日

四平街覚書(日露撤兵手続き及び鉄道引き渡し順序議定書)廃止。北満州の全地方への日本人の旅行自由に。

9月28日

大杉栄(21)、日本エスペラント協会第1回大会(神田青年会館)で「桃太郎」の話をエスペラントでやり、喝采を博す。

この月、堀保子と結婚。


「大杉が、黒板勝美、千布利雄らとともに日本エスペラント協会を設立(註、6月12日)し、神田の青年会館で開かれた第一回大会の席上で『桃太郎』の話をエスペラントでやり、喝采を博したのは、その年九月二十八日のことである。彼はまた、九月十七日に、本郷区壱岐坂下の習性小学校で、日本最初のエスペラント学校を開いた。生徒は四十五名。十二月六日、神田の国民英学校で行われた第一回卒業式には、黒板勝美や加藤高明が来賓として出席、大杉はやはりエスペラントで「卒業生諸君に告ぐ」という訓辞をしている。この学校は夜学で、大杉が翌一九〇七年五月巣鴨監獄に入獄するまで続いた。彼の日本エスペラント協会番号は二百一号である。なお、この学校には数人の中国人留学生も入っており、彼らは大杉のことを〝ダーサン先生″と呼んでいた。彼らは、東京で中国語の社会主義雑誌『衡報』を発行していた呉稚暉、張継、景梅九らの仲間であった。」(大沢正雄「大杉栄研究」)。

9月28日

新渡戸稲造、第一高等学校長に就任。

9月28日

パルマ・キューバ大統領辞任。政権は空白状態となり、米陸軍長官ウィリアム・タフトが臨時総督となって反乱軍と政府軍間の調停を試みる。

9月29日

イタリアのミラノで労働総同盟結成大会(~10.1)。

9月30日

第1回国際熱気球競技会開催(パリ)。


つづく

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