2025年11月15日土曜日

大杉栄とその時代年表(679) 1906(明治39)年9月1日~5日 9月5日 諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。

 

後列:左から、山川均、守田有秋、森近運平、堺利彦、佐藤悟。 

中列:左から一人おいて、堺爲子、少女時代の堺真柄、山川の妻の大須賀里子。

大杉栄とその時代年表(678) 1906(明治39)年9月1日 「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ--美くしい感じが読者の頭に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない。」(夏目漱石 談話「余が『草枕』」) より続く

1906(明治39)年

9月1日

(漱石)

「九月一日 (土)、巡査衛生員・東京市の医員・小使二人来て消毒を行う。

九月二日 (日)、『二百十日』の構想を練る。五日(水)まで考え続けたが、雑事に追われてまとまらぬ。警察医、家族の健康診断に来て、六日(木)まで外出を禁じる。

(明治大学予科主任内海弘蔵(月杖)の娘が亡くなったので野村伝四に葬式に行って貰う。)

九月三日 (月)、午後、白仁三郎(坂元雷鳥)来る。『草枕』に関して、小天温泉の懐旧談を試みる。持参の絵葉書台紙数枚に『草枕』に裁いた俳句を書く。一時間三十分ほどいる。(白仁三郎は、それ以前にも訪問していると推定される。)

東京帝国大学から婦る時、毎日病院に見舞に行く。年若いハイカラな女が看病している。

大学の門を出入する時、漱石と一、二度一緒になる。『二百十日』を執筆しているとか伝染病が出たために取込んでいるとか、〝世間で僕を気運ひだといっているが、君等が云ひふらすのぢやないか。〞と云う。野村伝四は、「そんなことがありますか。」と云うと、。左様かい。〞と答える。(野村伝四)

随筆三郎(坂元雷鳥) の随筆集『壁生草』 (稿本)及び坂元雷鳥「夏目先生を憶ひて」 (『能楽』) による。)」(荒正人、前掲書)


9月1日

(露暦8月19日~07年8月20日)野戦軍法裁判、ストルイピン主導で実施。革命弾圧。

9月1日

英領ニューギニア、オーストラリアの管轄下に置かれる。パプア(元のポルトガル語による名称)に改称。

9月1日

有島武郎、アメリカを去る。この日、ニューヨーク発。

9月10日、ジブラルタル、13日、ナポリ着。ナポリでは弟の壬生馬が出迎え、家からの手紙や家族の写真を彼に見せた。彼は壬生馬と共にナポリの見物をし、それ以後、イタリア各地を歩いた。日記も壬生馬と交替で書くことにした。

ローマでしばらく滞在し、10月21日、アシジやフローレンスを経てヴェニスへ出発。壬生馬は1年半ほど住んだローマを去り、兄とともにヨーロッパ旅行をすることになった。

10月29日、ヴェニス着。11月12日、ミラノを経てシンプロントンネルを抜け、スイスのローザンヌに着いた。

そこからジュネーヴに行き、11月23日まで滞在。

9月2日

ドレスデンで第1回汎ゲルマン大会。

9月2日

南ア、ヨハネスブルグでインド人弁護士のモハンダス・ガンディーがインド人差別に抗議して非暴力闘争を提唱する。

9月5日

諸団体連合東京市電値上反対市民大会。本郷座。議長芳野世経の阻止を振切り、社会党森近運平が11日から3日間の「断然電車に乗らざるを約す」動議。満場の拍手で、ボイコット(「乗らぬ同盟」)可決。~7日迄、暴動。電車破損54・負傷58。検挙98人。

裁判は一審と二審は無罪判決。しかし、検事局が上告し、再審が行われたのは1908年の赤旗事件の後。結果、赤旗事件で有罪判決を受けた被告たちは、有罪を宣告された。


「九月五日には本郷座に諸団体連合の値上げ反対市民大会が開かれた時も、十数名の同志は会場の周囲、日比谷附近、日本橋区人形町などにチラシを配布した。

本郷座の市民大会は劇場も割れるような盛会であったが、三月十五日の大会解散後の示威運動から兇徒囁集被告事件がおこり、社会党員の連坐する者が出たために、山路愛山等の国家社会党、並びに細野次郎、田川大書郎等の市民団体は怖気をふるい社会党を除外して大会を開いたのである。党もまたひそかに対応策を練り、大会が宣言、決議、委員選出等を終ってまさに演説に移ろうとした時、かねての手筈に従って同志の森近運平が突如として平土間の中央に起立し、高声に議長を呼んで「動議を提出す」と大書した紙旗をさし上げた。議長の芳野世経や委員の田川、細野等は極力森達の動議提出を阻止しようとしたが、場内に分れて陣どった社会党負は口々に「提出者に動議を説明させろ」「市民の意見を発表させろ」と叫んで、遂に森近を演壇に登らせてしまった。そして森近が、政府や会社が市民の反対を無視して値上げを強行する場合は、値上げ実行の九月十一日から三日間「断然電車に乗らざるを約す」と動議案を読み上げると、拍手喝采が満場を圧して起こったので大会はやむなく、社会党のボーイコット決議を通過させざるを得なかった。

電車会社に対する市民の憤懣は九月五日以来、各所で電車のぶち毀し事件をひき起こし、七日までの三夜に電車五十四台が損傷し、車掌、運転手、警察官の負傷者五十八名、八日までに器物破毀や電車妨害のかどで検挙された老九十四人を算した。値上げ実施が迫った十日の夜、十五人の社会党負は、本郷、両国、下谷、品川、新宿の五方面から五隊に分れてチラシを配布しつつ中心の日比谷公園に集合した。翌日は社会党が日比谷公園に開く予定の電車ボーイコット大会が、雨天と警察の干渉で中止とたったので党員は神田錦輝館の市民大会に押しかけた。そして大会が前回の決議を無視してボーイコットの実行を黙殺し、且つ森近の質問をも許可しない横暴に党員はこもごもその裏切りを難詰して一斉に退場した。社会党がこの運動で配布した『光』の号外のチラシの一、「貧富の戦争」は頒布を禁止された上、署名人の山口孤剣が起訴されて有罪となり、電車会社は小ブルジョア団体の裏切りで値上げに成功したのである。」(荒畑『続平民社時代』)


9月5日

堺利彦「基督教に対する予の態度」(「光」第30号)。宗教と社会主義を対立的に捉えない。

9月5日

雑誌『革命評論』発刊。

孫文・黄興らの中国同盟会設立に尽力した宮崎滔天は、自分たち日本人が彼らを側面からバックアップすることを願って雑誌創刊に踏み切る。

8月12日、滔天同様中国革命に深く関わった萱野長知、清藤幸七郎、和田三郎、池亨吉とともに発行を決定。月2回発行、タブロイド判八ページの小冊子。神田区美土代町の革命評論社事務所(萱野良知宅)に、滔天はほぼ毎日通っている。

9月5日

(漱石)

「九月五日(水)、London で誹えたフロック・コートを中川芳太郎に与える。深田康算から『草枕』への長い賞賛の手紙貰い喜ぶ。

九月六日(木)から九日(日)に、『二百十日』を執筆する。(推定) (この作品を契機に社会批評に筆を傾ける)交通遮断は形式的なもので解ける。中川芳太郎来て、『草枕』批評集を出版してはどうかと言う。」(荒正人、前掲書)


つづく

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