2025年11月12日水曜日

大杉栄とその時代年表(676) 1906(明治39)年8月10日~31日 「彼(森田草平)は「猫」を読んで以来、熱烈を漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。それを読んだあとでは、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、すでに抵当に入っていた七八反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作った。そして9月初めに上京した。」(日本文壇史)

 

森田草平

大杉栄とその時代年表(675) 1906(明治39)年8月2日~10日 (漱石の妻が電車賃値上反対のデモに加わっていたとの誤報に対して、「電車の値上には、行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社界主義故、堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても、毫も驚ろく事無之候。」(漱石の深田康算への手紙) より続く

1906(明治39)年

8月10日

(漱石)

「八月十日(金)、小宮豊隆と高浜虚子へ葉書出す。

(寺田寅彦、小石川区原町十番地に転居する。)

八月十二日(日)、深田康算宛手紙に、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上には行列に加らざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある點に於て社界(ママ)主義故堺枯川氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事をも予期し居候。新聞位に何が出ても驚ろく事無之候。都下の新聞に一度に漱石が氣狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候。」と書く。」(荒正人、前掲書)


8月10日

後藤新平(台湾総督府民政局長)、満鉄総裁就任の条件を原敬に報告(8月1日就任承諾、11月13日任命)。総裁の地位は勅令では「関東都督の影響を受けるとともに外務大臣の指揮下に入る」だが、後藤の条件は「関東都督の監督は受けるが、同時に都督の最高顧問」としこれが成功。

「・・・武人政治は是れにて一頓挫を示したるものなり・・・」(「原敬日記」8月11日)。但し、後藤は「武人政治」を排除するのが目的ではなく、植民地経営に無知なものの介入を封じるためのもの。

8月10日

東京弁護士会、日比谷騒擾事件に対し、動きの鈍い検察を批判するため、本郷座で、検事長の問責演説会を開催。3千人。

8月12日

北洋大臣袁世凱、立憲準備を上奏。

8月14日

日露漁業協約締結交渉第1回会議開催(ペテルブルグ)

8月15日

(漱石)

「八月十五日(水)、井原市次郎(広島市大手町一丁目四十四番)から広島の写真を数種貰う。写真を見て、以前に会ったことあるのを思い出す。井原斗南(市次郎弟)と文通の時、London 時代のことを聞いてみてほしいとも云う。

(野上豊一郎、小手川ヤヱと結婚する。野上豊一郎は、東京帝国大学文科大学英文学科に在学、小手川ヤヱは、四月に明治女学校普通科を卒業する。)

十一月に東京府下巣鴨町駒込三百八十八番地(現・豊島区駒込三丁目七番)内海方に転居する。野上豊一郎から「木曜会」の話を伝え聞き、その雰囲気に刺激されて『明暗』を書く。(これは発表されない。漱石は詳しい批評を書き送る)野上豊一郎は、大学院に一年在学し、国民新聞社に入社する。」(荒正人、前掲書)

8月15日

ローマ教皇ピウス10世がフランスの政教分離政策に反対し、回勅『グラビッシモ・オフィキィ』を出す。

8月15日

ファン・チュー・チン、ベトナムの封建君主制批判。政治社会改革要求。

8月16日

東京小石川砲兵工廠ストライキ。

8月18日

呉海軍工廠スト暴動化。職工500余人、戦時手当廃止に反対してストライキ。暴動化。24日 解決。

8月18日

チリの港湾都市バルバライソ、大地震のため壊滅。

8月19日

清国、日本の関東州設置に抗議。

8月20日

「光」第19号、全号キリスト教批判に充てる。品性庵人格居士の投稿「耶蘇坊主評判記」で内村が東京市電値上げ問題で反対運動批判したことを非難(批判したかは不明)。

8月20日

国定教科書共同販売所(株)設立。

8月20日

キューバで反乱勃発。

8月21日

東京陸軍砲兵工廠、8月16日に職工100余人が解雇されたことと、不良製品の弁償の給料差し引きに反対してストライキ計画。不貫徹に終わる。

8月22日

高橋是清を特派財政委員に任命。英に派遣(9月6日出発)。

8月24日

東京地方に大暴風雨。浸水は、本所7,190戸、浅草6,950戸、深川2,960戸。

8月24日

トロントの医学学会で、猫と犬の腎臓移植実演。

8月25日

福田英子、石川ゆき子と共に谷中村を訪れる。この時、買収を拒否している残留民は僅か27戸。

8月25日

(漱石)

「八月二十五日(土)、暴風雨で垣根危ない。野村伝四、突然来る。大島紬二反持参する。

八月二十七日 (月)、『新小説』 (九月号。九月一日発行) に 『草枕』掲載される。二十九日 (水) には売り切れてしまい、広告をだす暇もない。発行部数は五千部内外か。(夏目伸六)

八月二十八日 (火)、終日、久し振りの俳諧で疲れる。


八月末に、森田草平は『新小説』九月号を岐阜市の本屋で買い、岐阜県鷺山村の郷里で読み、感嘆する。」(荒正人、前掲書)


8月25日

ピョートル・ストルイピン露首相暗殺未遂事件。

8月28日

「貧富の戦争」(「光」号外引札)、発売頒布禁止処分。

夜、西川光次郎「改革者の心情」、発禁。

29日朝、添田平吉の俗謡「寸鉄」差押さえ。

8月29日

清国、天津自治局設置。

8月31日

幸徳秋水、中村町発。午後1時宿毛港発、宇和島へ。9月1日宇和島発、3日朝大阪天保山着。

9月4日夕方、京都へ。大道和一、宮崎民蔵らと会う。6日、京都発。

8月31日

(漱石)

「八月三十一日 (金)、三女エィ、赤痢で大学病院の隔離室に入院する。(家屋消毒・井戸浚え。九月十日 (月)頃まで交通遮断を受ける。)『国民新聞』に「『坊ちゃん』の著者」掲載される。

藤岡作太郎宛手紙に『草枕』評を感謝し、息女光子の死を悼む。」(荒正人、前掲書)


三女の栄子が赤痢になって大学病院の隔離室に移された。長女の筆子はこのとき、数え年八つであり、次女の恒子は六つで、二人とも幼稚園へ行っていた。だが下には前年の幕に生れたばかりの四女愛子があった。妻の鏡子が病院に行っている間、漱石は女中とこの子供たちの世話に忙殺された。(「日本文壇史」)

8月下旬

(漱石)

「八月下旬(不確かな推定) (日不詳)、『国民新聞』の記者家巣生(不詳)、談話をとりに来る。その後、外出する。」(荒正人、前掲書)

8月

「八月末に、森田草平は『新小説』九月号を岐阜市の本屋で買い、岐阜県鷺山村の郷里で読み、感嘆する。」(荒正人、前掲書)


漱石の「草枕」が明治39年9月号「新小説」に載ったとき、森田草平(数え26)は、岐阜県鷺山村の郷里に帰っていた。2ヶ月前の7月に東京帝国大学英文科を卒業したが、就職は決まっていなかった。彼は自分の卒業成績では東京によい地位は得られないと思って就職のことはあきらめていた。卒業の少し前に、伊藤博文の娘生子の夫である米松謙澄が書いた日本論”Rising Sun”の和訳を頼まれて、原稿料を得た。そういう雑原稿によって生活するか、それとも中学校の教師にでもなって地方へ行くか、彼は心を決めかねていた。彼と同じ年に東大の美学科を卒業した一つ年下の長江生田弘治も同じような気特でいた。

森田と生田は、一高時代に「明星」に寄稿したり、また上田敏と馬場孤蝶が中心になって明治39年に創刊した「芸苑」に翻訳を載せたり、小説の試作をしたりしていたので、どうかしたらこのまま筆で食って行けそうでもあった。生田長江は、大学を卒業した頃、博文館から模範文集の編纂という仕事を小過取りに引き受け、諸作家の文章の縞韓と解説をしていた。その中には漱石や虚子や子規の文章もあったので、森田は、友人のために、転載の許可を漱石に頼んだ。

しかし大学を卒業して文学士というものになったのに母を省みずにおくこともできないので、彼は8月上旬に郷里へ帰った。大学在学中の3年間一度も彼は郷里へ帰ったことがなかった。森田米松は11歳のとき父亀松が死んで、母とくが一人で郷里の家を守っていた。家に多少の資産はあったが、彼が育ち、教育を受ける間に、その資産は失あれた。今度帰って見ると、母屋も離れも売られてしまい、母は買い手のつかない古土蔵に独住いしていた。彼の母は、彼の教育に金を使ったばかりでなく、男があって、それにも金を注ぎこんだがのようであった。

郷里では、彼が数え年19歳で金沢の第四高等学校に入ったとき、彼を追って来て同棲し、退学させられる原因を作った遠縁の森田つたという女が、彼との結婚を待っていた。森田が改めて入った第一高等学校を卒業した明治36年夏に、その女は彼の息子を産んでいた。その子は亮一と名づけられ、この時数え年4つになっていた。森田が大学を卒業したと知って、女の両親は彼に結婚を迫った。つねは6年間彼との結婚を待って暮したのであるから、彼は義理にもつねと結婚しなければならなかった。だが、森田はつねと結婚したくなかった。彼が大学にいた3年間帰郷しなかったのは、それも原因であった。

彼は、母と自分の生活の前途の見通しも成り立たない八方塞りのような気特であった。彼は村の中を歩きまわるのもはばかられ、ただ時々近くの岐阜市へ出て書店をのぞいて見た。漱石の新作が「新小説」に出る筈であったからである。8月末、彼は「新小説」を買い、それを持ち帰って、「草枕」を読んだ。彼はその作品のことを前に漱石から聞いて、大きな期待を持っていたが、「草枕」の出来は、彼の期待以上であった。書き出しの「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」からあと、彼はこの作品を夢中に読み、分らないところは、二度三度と繰返して読んだ。どうして漱石という人は、このような奇想、妙想、美辞麗句を次々と産み出せるのだろう、と彼は改めて驚嘆した。

彼は「猫」を読んで以来、熱烈を漱石ファンになっていたが、「草枕」を読んだ時ほどその才能に感嘆したことはなかった。それを読んだあとでは、とにかく一刻も早く東京に出て、漱石に逢いさえすれば、自分の運命ぐらいは切り開かれるような気特になった。彼は母を説きつけて、すでに抵当に入っていた七八反の畑と田地を売り払うことにして、母の生活費と自分の差し当っての生活費を作った。そして9月初めに上京した。

彼は先ず「草枕」についての感想を漱石に書き送った。漱石からは返事がすぐあった。その中で、漱石はいくらかふざけ気味に、「今日まで『草枕』に就いて方々から批評が飛込んで来る。来る度に、僕は喜んで読む。然し言語に絶しちまったものは、君一人だから難有い。今日迄受け取った批評の中、最も長く且真面目なものは深田康算(やすかず)先生のものである。尤も驚嘆し、尤も感情的なものは君のである。」と書いてあった。深田康算は森田より4年前に東大哲学科を卒業して大学院に入っていたが、その学才を認められていた秀才であり、漱石が、寺田寅彦とともに敬意を持って接していた後輩であった。漱石の手紙をもらうと、森田は早速夏目家へ出かけた。(「日本文壇史」)


つづく

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