1906(明治39)年
8月
韓国、三土忠造、韓国政府学部参与官(教科書編纂)
8月
横浜正金銀行、漢口に出張所設置。
8月
清国、新聞紙条例公布。
8月
荒畑寒村、京都荒神口の菅野宅で1ヶ月過ごす。
この夏、東京の荒畑のもとへ、田辺から京都に戻った管野須賀子から京都へ逢いに来いと手紙が届く。荒畑は正則英語学校の夏期講習会に出るつもりで、堺に教科書を買ってもらっていたが、須賀子の手紙を受けとると、口実を設けて堺家を飛び出した。彼は京都、河原町荒神口の須賀子の家に8月一杯を過した。東京の堺家にいる大杉栄や深尾韶からは冷やかされ、堺利彦からはいい加減に帰るようにとの手紙が来た。須賀子が、自分も近く上京して同棲すると約束したので、荒畑は1ヶ月ぶりで堺家に戻った。
その間、大杉栄は、深尾韶と親しかった堀保子を口説いて二人で一家を構えていた。
保子は堺利彦の亡妻(旧制堀)美知子の妹。
8月
石川三四郎「堺兄に与えて政党を論ず」を発表。
8月
日本留学生団体、東京基督教青年会創立。
8月
東洋硝子製造株式会社創立(大阪)。日・英・仏・ベルギー4ヵ国の共同出資。1909年2月解散。
8月
京都府の舞鶴海軍工廠の職工、相互救済の目的で、京都に共済会病院設立。1907年2月開院。
8月
宮沢賢治、大沢温泉で開催された夏期仏教講習会に父と参加。この後もしばしば参加。
8月
近事画報社を独歩社に改める。
この年の春頃、近事画報社はいよいよ立ち行かなくなって、社長の矢野龍渓は解散を決意。戦争が終り、戦況に関心を持っていた読者が離れるとともに、新聞の写真製版術が発達して写真を載せるようになり、対抗できなくなっていた。
だが社員たちは解散を残念がり、自分たちの手で続刊しようと言い出し、編輯長の独歩(36歳)が押されてその中心になった。独歩は自分が経営に当る決意をし、独歩社という新社を興して、8月号から社名を改めた。刊行物は、「近事画報」「婦人画報」、「少年知識画報」、「少女知識画報」、文芸雑誌「新古文林」であった。
「新古文林」は前年の明治38年5月創刊。創刊号には、広津柳浪、小栗風葉などの硯友社系作家の小説、独歩の友人である田山花袋の小説「帰航記」を掲載した。
「新古文林」は、この頃の主要な文芸雑誌である博文館「文芸倶楽部」、春陽堂「新小説」、金港堂「文芸界」と並んで、一応は文芸雑誌の面目を保っていたが、近事画報社が経営不如意になるに従って、稿料を払うことができなくなり、稿料なしでも作品を発表したがる新作家にその舞台を提供するようになっていた。
8月
中央電気株式会社創立。
8月
日本エスペラント協会、『日本エスペラント』創刊。
8月
富士製紙、北海道江別工場の建設に着手。
8月初
河東碧梧桐(34歳)の全国俳句行脚行の送別会。
碧梧桐は、正岡子規没(明治35年9月19日)の翌36年1月から、新聞「日本」に戻り、子規のあとを引き継いで俳句欄の選者になった。「日本」の俳句欄は、虚子の主宰する「ホトトギス」と並んで、子規の系統を曳きながら、ともに俳壇で重きをなしていたが、碧梧桐が新しい形式や新しい着想や発想の発見に努力するのに較べて、虚子の方は子規以来の写実主義の中に落ちついていた。碧梧桐は、感覚的写実主義とも言うべき自己の新傾向の俳句を、この旅行によって天下にひろめようとした。
碧梧桐の全国俳句行脚は、俳人たちにとって大きなニュースであった。碧梧桐は新時代の芭蕉をもって自ら任じているように見えた。地方の投稿者たちは彼の歓迎の支度をし、また東京の俳人たちは、彼の積極性に敬意を払った。彼のために経済的援助をしたのは本願寺法主の大谷句仏(くぶつ)だという噂が流れていた。
8月上旬
(漱石)
「八月上旬(推定)、小宮豊隆、郷里から『吾輩は猫である』の迷亭と苫沙弥のおかし味の対照は、円遊と小さんのおかし味の対照に似ているという意味の感想を述べた手紙を寄越す。(円遊は自分ではめをはずし、小さんはむっつりしている)」(荒正人、前掲書)
8月1日
関東都督府官制公布。
遼東半島の旧露租借地を関東州と命名し旅順に関東都督府を設置する勅令を公布。都督は陸軍大将または中将。清国の関東州を管轄し満鉄線路の保護取締り・満鉄業務の監督を行う。旅順に関東都督府設置。
9月1日、大島義昌を関東都督に任命。
8月1日
日本側陸軍少将中村愛三、露側ドウイッチ、東清鉄道公主嶺~寛城子間授受終了に関する公文書交換。1907年4月1日同鉄道を満鉄に引き渡す。
8月1日
韓国駐箚軍司令部条例公布。司令官は陸軍大将または中将、天皇に直隷、統監の命令あるときは兵力を使用。
8月1日
内務省、東京市内電車3会社合併、9月11日より4銭均一値上げを認可。日本社会党、ボイコット運動「乗らぬ同盟」提唱。
8月7日、日比谷公園で反対市民大会開催。
9月5日、再び反対市民大会開催。市民数千人が日本橋・神田付近で暴徒化。
9月12日、4銭均一実施。
8月1日
『吾輩は猫である』 (十一、最終回) 〔『ホトトギス』8月号8月1日刊〕(第9巻第11号)
8月1日
堺利彦編集『社会主義研究』最終刊(第5回)
「最終刊は総同盟罷工号ともいうべき内容で、白柳秀湖の訳になるイギリスのマックス・ピーア著「総同盟罷工の歴史と意義」、堺の訳したドイツ社会民主党のイェナ大会におけるべーベルの演説「政治的総同盟罷工論」、及び一九〇四年(二年前)第二インタナショナルのアムステルダム大会で、フランスのジョーレとドイツのべーベルとの間に交えられた論争を載せている。」(荒畑寒村『続平民社時代』)
また志津野又郎は、1904年のアムステルダムにおける第6回万国社会党大会(第2インタナショナル)で討議されたブルジョア政府への参加問題、ゼネストの問題を、2派の代表弁士であったジョーレス、べーベルの演説の大要を「社会党硬軟二派の主張」と題して訳載。
8月1日
日米海底電信線開通。日米間で電報直接取扱開始。
8月1日
米独、互恵関税条約調印。
8月1日
8月1日の荷風『西遊日誌抄』。
従兄・松三から「君近頃銀行内の評判宜しからず解雇の噂さへあるやに聞及べり」と言われ、「心大に憂ひ悲めり」とある。この「評判」は当然、父親の耳にも届いているはずだった。
8月15日ワシントンの娼婦イデスがニューヨークに移り住み、逢引も頻繁となる。
つづく

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