2025年11月23日日曜日

大杉栄とその時代年表(687) 1906(明治39)年10月13日~21日 「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。」(漱石の森田草平あての手紙)

 

森田草平

大杉栄とその時代年表(686) 1906(明治39)年10月11日 第一回木曜会 小宮豊隆;彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。 より続く

1906(明治39)年

10月13日

(漱石)

「十月十三日 (土)、『国民新聞』 の「俳譜一口噺」に、高浜虚子は「『二百十日』と『嵐』」掲載する。十月九日(火)消印の高浜虚子宛手紙を「漱石氏来書」とし、伊藤左千夫の高浜虚子宛手紙を「左千夫氏来書」として前後につないだものである。全文振り仮名付、字句訂正も見られる。伊藤左千夫の手紙は、寺田寅彦の『風』を賞めたものである。

十月十四日(日)、夜晴れる。服部書店主人服部国太郎来る。

十月十五日(月)、行徳二郎から第七高等学校(鹿児島)へ入学したと知らせを受け安心する。

十月十六日(火)、高浜虚子宛手紙に「二百十日に関する拙翰をホトゝギスへ掲載の義は承知致しましたと申しましたが、少し見合せて下さい。近々『現代の青年に告ぐ』と云ふ文章をかくか又は其主意を小説にしたいと思ひます。」と凄く。『野分』の構想をすでに練っていたことを伝える。(鈴木三重吉は加計正文宛手紙に、「或夜金やんの所で虚子と一緒に松茸飯をよばれた。来年一月のホトゝギスは総出で何かかくのだから、是非僕もかゝなければいけないのださうだ。何だか臀こそばゆいやうでならない。」と書く。)


漱石は、行徳二郎が医者になると思っていた。だが、後に、早稲田大学に入学する。第七高等学校は卒薬しないで、退学したと推定されるが、その理由は分らない。」(荒正人、前掲書)



10月15日

1906年7月6日の第2回ジュネーブ条約に対する、韓国の地位に関する外交文書交換(11月20日も同様)。

10月15日

サンフランシスコの小学校で、日本児童200余人の通学禁止問題発生。

10月16日

谷口房蔵ら紡績業者、韓国棉花設立(本社大阪、資本金20万円、綿作農民への前貸等を行う。のち朝鮮棉業と改称、'16年、日本綿花に買収される)。

10月16日

ケーベニック事件。ベルリン郊外ケーベニック市、兵士数名、市庁舎乱入。市長拘禁。

10月17日

露、トロツキー、口頭弁論行う。

10月17日

独、1,600キロメートル離れた場所に電信で写真を電送。

10月18日

渡島水電株式会社創立(北海道)。

10月18日

神田錦輝館で社会主義演説会。弁士10名中8名に中止命令。

10月18日

(漱石)

「十月十八日(木)、東京帝国大学文科大学で、Tempest 講義終了する。午後三時から木曜会。寺田寅彦・坂本四方太・鈴木三重吉・中川芳太郎ら来る。松根豊次郎(東洋城)、午後十時頃まで文学論をする。

十月二十日(土)、暗。皆川正禧宛手紙に、「僕明治大學をやめやうと思ふ。先日、高田〔知一郎〕が来て報知新聞へ何かかいてくれと云ったから明治大學をやめて新聞屋にならうか知らん國民新聞でも讀賈でも依頼されてゐる。」と洩らす。」(荒正人、前掲書)

10月19日

中国同盟会、湖南省で蜂起。

10月19日

伊藤博文統監、韓国政府と森林経営に関する共同約款調印。鴨緑江・豆満江沿岸森林は日本・韓国両国政府共同経営とする

10月20日

坂口安吾、誕生。

10月20日

露、農民に対する差別撤廃と住民の選択の自由を認める。

10月21日

(漱石)

「十月二十一日(日)、曇後雨。松根豊次郎(東洋城)と共に、大森へ道足に行く。松根東洋城、誘いに来たので、品川の鮫洲の川崎屋(日本料理店。荏原郡鮫洲、現・品川区東大井一丁目)で食事をする。廊下で、水野鎌太郎(明治二十五年東京帝国大学文科大学共法科卒)に逢う。大学を卒業して以来初めてである。(松根東洋城)

森田草平からら父親に関する重大な告白を伝えた手紙受取る。夜、返事を書く。


漱石の返事は次のようである。「余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ満腹の同情を以てサギ棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて日的以外の事は決して起る気遣はない。安心して余の同情を受けられんことを希望する。」」(荒正人、前掲書)

21日付け夏目漱石の森田草平あての手紙

森田の自分の生活の秘事を打ちあける手紙に対する返事。

「余は満腔の同情を以てあの手紙をよみ、満腔の同情を以て裂き棄てた。あの手紙を見たものは手紙の宛名にかいてある夏目金之助丈である。君の目的は達せられて、目的以外の事は決して起る気遣ひはない。安心して余の同情を受けられん事を希望する。(略)余は君が此一事を余に打明けたるを深く喜ぶ。余をそれ程重く見てくれた君の真心をよろこぶ。同時に此一事を余に打明くべく余儀なくさるゝ程、君の神経の衰弱せるを悲しむ。男子堂々たり。這般(しやはん)の事豈(あに)君が風月の天地を懊悩するに足らんや。君が生涯はこれからである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後、誰か此一事を以て君が煩ひとするものぞ。君若し大業をなさば、此一事却つて君がために光彩を反照し来らん。」

続けて漱石は作家としての自分の覚悟を述べる。

「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲する野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは、彼等を眼中に置かねばなり。彼等を眼中に置けば、もつと慎んで評判をよくする事を工風すべし。余はその位の事が分らぬ愚人にあらず。只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭はざるなり。如何となれば、余は尤も光輝ある未来を想像しつゝあればなり。(略)余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。此希望あるとき、余は始めて余の偉大を感ず。(略)」

この手紙を読んだとき、森田の手はわなわなと震え、涙があとからあとからと出た。彼は立って室の中をぐるぐると歩き、また机の前に坐って考え込んだ。夕方であったが彼は家を出、郊外に向い、中仙道を北へ北へと歩いた。板橋に着いた頃日が暮れた。人も車も通らない夜の道を彼は時々路傍の石に坐って休みながら歩きつづげ、蕨を過ぎ、浦和まで歩いた。夜中に彼は木賃宿へ泊って、次の朝汽車で上野に帰った。その後やつと彼は心を落ちつけてふだんの生活に帰った。その頃森田は夏目の紹介で、手工教育の教授法を述べたドイツ語のパンフレットを翻訳して一枚五十銭の稿料を得て幕していた。

10月22日

名古屋電力株式会社設立。

10月22日

セザンヌ(67)、没。


つづく



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