1906(明治39)年
9月11日
〈木下尚江のつづき〉
■思想と文学とにおける動揺、二葉亭尾四迷との出会い
木下は明治39年に入ると「新紀元」に執筆するかたわら、「毎日新聞」に、「良人の自白」の続篇としての「新曙光(しんしよこう)」を書いた。
そのとき、桂内閣が退いて西園寺内閣が成立し、日本平民党と日本社会党の結社届が受理された。新しい社会へのかすかな希望を漂わせた。木下は社会党に対する期待を「新紀元」第6号で述べたが、自分はその結社に参加しなかった。
「新曙光」は「良人の自白」の続篇であった。小作人の与三郎と娼妓出身のお玉を中心にした共同農場が、ある地主の土地の提供によって作られ、色々な困難に逢いながら建設が進められて行くのがその筋である。しかし、このユートピアには本質的に悪の問題がなく、それ故に実在性がなかった。罪の意識を背景とする実在感に動かされた時のみ、木下の精神は動くのであった。木下はこの小説に情熱を感ずることができなくなり、掲載は中絶しがちに6月9日まで続いた。このユートピアが戦争の到来でおびやかされるところがその末尾であった。
この作品の執筆中の春のある日、長谷川辰之助(二葉亭四迷)が毎日新聞社に木下を訪ねて来た。
木下は生れながらの知己であるような親しみを長谷川に感じた。二葉亭四迷は、横山源之助から木下のことを聞いていたと言い、うしろに立っている外国人を紹介した。ピルスーツキーと言う、ポーランドの革命党員で、シベリアの流刑地から逃れて来たいうことであった。木下は社会主義熟から醒めていた時であったので、外国の革命家に興味を抱かなかったが、長谷川に対しては関心を持っていたので、この機会に長谷川を知ったことを嬉しく思った。
この頃、彼の思想は動揺しており、それと共に改めて「文学」というものに対して、疑問と希望とを感じていた。木下は、文学とは何か、という問題につき当っていた。
この時以来、木下はしばしば長谷川に逢い、文学の話を聞こうとした。
長谷川辰之助はこのとき数え年42歳で、木下より4歳年長。長谷川は明治37年2月から「朝日新聞」の社員であった。ロシアについての雑文を書き、ゴリキーやガルシンの翻訳をしていたが、まだ「其面影」を書き出していない時であった。
「朝日新聞」は銀座6丁目の滝山町に、「毎日新聞」は5丁目の東角にあったので、木下と長谷川は、いつも銀座の箱館屋という店の2階で逢った。木下は、長谷川から文学についてのその本心を引き出そうとするのだが、文学の話となると長谷川はそれを避けた。長谷川は、話がそこへ行くと、眉の間に皺を寄せて、横向きになり黙してしまった。ある時は、目を天井へ外らして、煙草をふかしながら、「はゝはゝ」と軽く笑うだけであった。2人とも黙りこくったまま、じっと相対し、しばらくそうしていると、長谷川は「また逢おう」と言って出て行くのであった。
木下が受けた印象では、長谷川は一個の「苦悩」というものそれ自体であり、また「魔」というものがあれば、それは長谷川のことのような気がした。長谷川の様子を見ると、木下は、腹違いの兄の傍にでもいるような安らかさと懐かしさとを感じた。
■母の死
この年3月11日、国家社会党の山路愛山が会主となって、日本社会党と共同で電車賃債上反対市民大会が開かれたが、その前夜木下は銀座街頭でその会を知らせるチラシを撒いた。
当日、逮捕されることをも予想して、彼は聖書、手拭、切手などをポケットに入れて日比谷の会に行った。その日は雨で、改めて15日会を開いたところ、彼の家は家宅捜査を受けた。
この頃、木下は、母の久美子が病重く、床についていたので、絶えずそのことを気にかけていた。自分が入獄、裁判などということになれば、それが母にとってどんな打撃になるかと思うと彼は少しも心が安まらなかった。
電車賃値上反対市民大会の時から2月ほど経った明治39年5月6日、彼の母久美子は数え年68歳で死んだ。小説「新曙光」は6月9日に終った。23日には幸徳がアメリカから帰って来た。幸徳帰国を迎えて木下は、日本社会党へ幸徳とともに加わった。母の死が、それまで木下を拘束していたものから彼を解放した。
しかし、彼の真の関心は社会運動にも、幸徳が披瀝した新しい急進思想にもなかった。彼の心は、外的世界での闘争から離れかかっていた。
6月末、彼は7年あまり在社した「毎日新聞」を辞めた。島田三郎の「毎日新聞」は経営的に行きづまっていたが、木下は奔走して、困難打開の道をつけて、長い間恩顧を受けた島田に報いた。
木下には妻操子との間に子供がなかった。彼には妹伊和子があった。伊和子は菅谷透に嫁して女児を1人産んだが、寡婦となり、平民社にも出入りして、演壇に立ったこともあった。父は尚江が19歳の時に死んでいたので、母を失ったこの兄妹は孤独感を強く感じ、親しく行き来していた。
9月11日
東京電気鉄道・東京市街鉄道・東京電車鉄道合併。東京鉄道株式会社設立。3社統合し交通会社の独占会社となる。資本金2,700万円。東京市電(明治44年8月)の前身。電車賃を3銭均一から4銭均一に値上げ。
9月11日
マハートマ・ガンディー、南アフリカで非暴力的抵抗運動を初めて組織。
9月13日
東京電力株式会社創立。
9月13日
(漱石)
「九月十三日(木)、夜、鏡から電報で中根重一の危篤を知らせてくる。
(高浜虚子、「俳人の文章(『俳譜一口噺』)を『国民新聞』に掲載する。俳人の小説は、短篇が多く長篇は少ないが、漱石は長篇を書いている、長篇が少ない理由は、思想と簡単な叙写をすることによる、と書く。)
九月十四日(金)、夜、三崎座(神田区三崎町三丁目一番地、現・千代田区神田三崎町三丁目)の田中霧柳は、『吾輩は猫である』を演出したいからと許可を求めに来る。二、三の助言を行う。(九月十六日(日)から上演。四卷。女陵が出演する。)
実家で中根重一の看病をしている鏡に、父親危篤とのことだから、いつまでも滞在して看護すること、学校が忙しいし、神経衰弱で見舞に行けぬが、金の必要あれば遠慮なく云って来るようにと伝える。
九月十五日 (土)、午後、鈴木三重吉、中川芳太郎と共に来る。夜九時頃までいる。(中川芳太郎も夜までいたかどうか分らぬ)
九月十六日(日)、中根重一、死去する。新学期の講義を始めよぅと思っていた矢先だったが、今週は休むことにする。三崎座で、『吾輩は猫である』(四幕)上演される。
「向島鈴木宅忘年会」・「吾妻橋畔水島煩悶」・「苦沙弥宅迷亭演説」・「麹町金田屋敷結婚」で、前二幕後二幕は上と下に分れてい。
九月狂言として、「忠臣賊に続く、大切新作」である。
(*重一)晩年は不遇で貧乏をしていた。安田保善社(現安田生命保険会社)に勤めていたが、諦儀の費用にも困る。
第一高等学校の生徒たちが押しかける。教室で、生徒たちから芝居を見るように勧められる。「菊地先生や杉先生は眞物も好いのですが、先生は大分得をして居られるから、是非一度お出でになったら可いでせう。」漱石は、教室の机の上に、白墨で、猫と自分の顔を描きながら、黙って聞いている。それを覗き込んだ生徒に、〝君、訳読し給え。〞という。(山田潤二『赤心録』大正十年五月十五日 民友社刊)」(荒正人、前掲書)
9月中旬
(漱石)
「九月中旬(推定) (日不詳)、女性の編集者来て、一時間ほど話す。その後、青年来て小説を勉強したいので弟子にして欲しいと云う。これには驚く。
★(九月中旬、鶴見祐輔、第一高等学校英法科三年生として、夏目漱石の講義を聴く。)
その時を次のように回想する。「紺の背廣の夏服を着た先生が、左小肱に、教科晋と出席簿とを抱へて、少し前かゞみに、足早やに入ってこられた。漆黒な髪の毛、心持ち大きい八字髯、ハッチりした眼。そして、どこか取り澄ましたやうに、横など向いて、出席簿を手早やに片付けて。鉛筆をなめて、何やら一寸書き込んで。教科書をパット開かれた。」」(荒正人、前掲書)
鶴見祐輔;
「1903(明治36年)年3月、岡山中学を首席で卒業し、同年夏に一家が転居していた神奈川県小田原町(現:小田原市)へ移る。同年9月、旧制一高法科甲類(英法)へ次席で入学し、南寮10番に入寮。一高時代には英語教師だった夏目漱石の薫陶を受け、弁論部に所属して全寮茶話会で演説するなどし、撃剣部に所属して稽古掛を務めた」(Wikipedia)
つづく

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