2025年11月20日木曜日

大杉栄とその時代年表(684) 1906(明治39)年10月 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。8日、大石誠之助は新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもつ。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(683) 1906(明治39)年10月 二葉亭四迷「其面影」 「内田魯庵は、二葉亭が20年ぶりの作品を書いている問じゅう、「恰も処女作を発表する場合と同じ疑懼心が手伝つて、眼が窪み肉が痩せるほど苦辛し、其間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色が蒼くなるまで全力を傾注し、千鍛万練して」書き改めて来たのを知っていた。また、二葉亭は毎日の締切時間に遅れそうになるので、社からは度々社員を催促にやったが、その仕事ぶりを見たものは誰も気の毒がって催促の言葉をロにしかれた、ということであった。池辺三山はそれを評して「造物主が天地万物を産み出す時の苦しみ」だと言った。」(日本文壇史より) より続く

1906(明治39)年

10月

悪税反対運動の開始

商業会議所連合会(上層ブルジョワジーの利益代表、中野武営指導)、「税法改廃に関する建議」(3悪法廃止、塩専売・通行税・織物消費税)を政府に提出。

織物同業組合は日露戦争下で既に織物消費税反対運動展開。更に、この年2月、西陣・八王子など主要産地の同業組合長名で同税改革陳情書を政府に提出。9月、京都・東京・名古屋3組合が中心となり「織物消費税廃止同盟大会」を京都で開催。

11月、1道3府14県の塩、醤油・味噌醸造、塩魚の業者が塩専売廃止同盟結成。

連合会は、業界の要請のみならず、労賃騰貴による企業の収益減、物価騰貴による労働争議を防ぐ意図もある。連合会は前年10月の大会決議で行政費節約・税制整理を要望。

中野武営:

明治14年政変で大隈派河野敏鎌に従い農商務省権少書記官を辞任、改進党結成に参画。初期議会で予算委員となり藩閥政府と闘う。明治38年8月初代商業会議所会頭渋沢栄一(東京商業会議所会頭)の後を継ぎ、副会頭から会頭となる。前年(明治38年)10月の大会決議、この月の建議など、政府との対決姿勢を示す。

10月

山県有朋、「帝国国防方針私案」を明治天皇に上奏。翌年2月、帝国国防方針・用兵綱領として具体化される。

内容は、ロシア、アメリカ、フランスの順で仮想敵国を定めて軍備を拡張する、というもの。そのための膨大な経費は、日露戦争時の非常特別税を戦後も継続し、さらに、間接税などの増税を実施することでまかなわれた。戦後不況のなかで、これらの政策が民衆を苦しめることになる。

10月

この月より1年間で全国私鉄17社買収、4億5千万円。

10月

下郷製紙所、組織を変更し中之島製紙株式会社と改称。資本金30万円。

10月

神戸製糖株式会社創立。

10月

大阪活版工技工組合結成。

10月

大阪盲人会設立。

10月

大日本労働至誠会結成。

10月

南海晒粉株式会社創立(和歌山)。資本金20万円。

10月

寶田石油会社、新津鉱業・長岡石油・帝国石油・小千谷石油・五菱組など33の会社組合を買収合併。資本金400万円。

10月

(漱石)

「十月、明治大学に辞表を提出する。(但し、十一月も出講する)


十月(不確かな推定)(日不詳)、正宗忠夫(白鳥)は『読売新聞』主筆竹越与三郎(三叉)の命を受けて、『読売新聞』入社の件で交渉に来る。(竹越与三郎は、その前後にも何度か訪ねて来て読売新聞社への入社を懇請したらしい)「當時の讀賈新聞の主筆であった竹越三叉氏は、漱石招聘を企てて、自分で交渉に出掛けたやうであつたが、私も一度主筆の命を奉じて駒込の邸に漱石を訪問した。新聞記者として訪問ずれのしてゐた當時の私は、學生時代に鏡花訪問を試みた時のやうな純な無特は失つてゐて、お役目に訪ねて来たといふ感じを、露骨に現はしたらしかつた。部屋の様子も、主人の態度も話し振りも、陰鬱で冴えなかった。『草枕』を發表して名聲嘖々たる時であったに関はらず、得意の色は見えなかった。『竹越さんが先日訪ねて来たが、僕を先生と云つてゐた。しかし、竹越さんの方が僕より年上ぢやないだらうか。』『小説を誠を出してから、丸善の借金は済した』と、興もなげに云つたことだけは、今もなは覚えてゐる。その時坂元雷鳥君が来てゐたが、この人の話の方が元気がよくつて座が白けないで済んだ。讀賈入社の件は無論駄目であったが、間もなく日曜文壇附碌へ、一篇の評論を寄稿されたが、漱石が讀賈に対する寸志だと見るべきであった。」(正宗白鳥)


正宗白鳥は、この話を畔柳都太郎(芥舟)にしたら、「漱石が新聞社なんかに入るものか」と笑う。それから半年もしないうちに、朝日新聞社に入社する。漱石は、読売新聞社の出した条件には、不満と不安を覚えていたらしい。だが、新聞社の専属作家になることは嫌っていなかったと思われる。」(荒正人、前掲書)

10月
添田唖蝉坊『喧嘩坊流生記』の口絵写真には、この年の秋頃のもので、唖蝉坊、堺利彦、中里介山、渡辺政之輔、福田英子らと夢二が写っている。
10月
長谷川天渓「幻滅時代の芸術」(「太陽」)
 
10月
島村抱月の主筆する「早稲田文学」の「彙報」欄が、近時の文壇の新傾向を代表する3冊として、藤村「破戒」、漱石の短篇集「漾虚集(ようきよしゆう)」、独歩「運命」を取り上げて論じた。
それは、
「小説壇の新気運は本年の春に入って、稍発動し始めた観がある。其以前のしばらくの小説壇にはさして著しい現象も見えず、大体に於いて在来既に名を成せる人々の馳駢に任せてゐるの観あり、夫等の人々に在つても、未だ斯壇に生面を開展し来たるといふが如き態度をば取らず、所謂写実小説といひ、家庭小説といふ在来の風潮を追ふに止まってゐた」
と述べ、この頃の新しい傾向を代表する作品は、在来文壇の別方面で名を為していた者又は、未だ小説壇で名声を得なかった作家たちによって書かれたとして、この3冊を代表的に取り上げていた。
独歩「運命」については、その他に「文庫」では小島烏水が、「太陽」では長谷川天渓がこれを取り上げて賞讃した。国木田独歩の作家としての地位は、数え年36歳になって出版したこの「運命」によって確立した
10月
徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」)
秋声は前年(明治38年)10月「新潮」に「お俊」を、11月独歩の経営する「新古文林」に「昔の恋人」を、12月「新小説」に「侠美人」を、同月「新声」に「正直もの」をと次々と書いた。
またこの年(明治39年)1月には「時事新報」に「亡母の記念」を連載、2月「文芸界」に「学士の恋」、3月「太陽」に「生死」、4月「中央公論」に「ひとり」、6月「新潮」に「悪徒の娘」、7月「新小説」に「老骨」、10月「新小説」に「佐十老爺」をと書いた。しかも多くは巻頭の小説であった。
彼の作家としての地位は次第によくなっていたが、作品には硯友社風の古い書き方かつきまとっていて、この時の文壇の流行になりかかっていた近代的写実の手法からは遠いものであった。

秋声は、明治39年、数え36歳、2児の父になっていた。この年は師の紅葉が死んでから4年目、秋声は硯友社の末流の1人として、栄えない作家の1人であった。日露戦争中の明治37年から38年にかけて文壇は沈滞し、秋声は辛くもその生活を支えていた。「文芸倶楽部」「新小説」「文芸界」のような文学雑誌ですら、戦争を描いた作品が多く載せられた。江見永蔭、遅塚麗水、山岸荷葉、田口掬汀などが戦争小説の主な筆者であった。純文学の作品を発表する舞台は狭くなり、生活の前途は暗澹たるものに感じられた。 

紅葉の死と前後して、硯友社に反旗をひるかえすような写実主義の新風が小杉天外や田山花袋の作品によって興った。また戦争の終り頃の明治38年からこの年、明治39年にかけて、夏目漱石や島崎藤村の新作が世評のまとになっていた。
秋水はゾライズムには関心を寄せていたが、そういう新しい作風を要領よく取り入れることはできなかった。秋声は、35歳という相当の年齢となりながら、文壇から浮き上った存在になっていた。

戦争中、彼は生活に困って、多少戦争に関係のありそうな題材の小説「通訳官」を書いて春陽堂へ売りに行ったことがあり、「新潮」には「召集令」という短篇を書いた。また明治37年12月から「万朝報」に「少華族」という長篇小説を連載し糊口の資を得ていた。それを書き出した頃、秋声は結婚以来住んでいた小石川表町の、友人の田中千里の借家を出て、本郷森川町の借家に移った。「少華族」は完結して、明治38年夏、2冊本に分けた上巻が春陽堂から刊行された。

10月
三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表


「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、1冊で廃刊にしたものであるが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白楊等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏「海潮音」の影響を受けたが、上田敏も露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。

露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の事前草社から離れて、詩作に専念するようになった。明治40年4月、露風は、早稲田系統の雨情野口英吉、御風相馬昌治、介春加藤寿太郎、東明人見円吉等とともに、早稲田詩社を組織した。このとき、露風は数え年19歳、野口雨情26歳、相馬御風25歳、加藤介春23歳、人見東明25歳であった。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していたメンバーであった。だがその「白鳩」は、明治39年4月で廃刊になっていた。
10月
堺利彦、月初めに淀橋町柏木343番地(現・新宿区北新宿1丁目)へ引っ越し(その後、柏木314番地、柏木104番地と住所変更)。同時に、由分社を解散して『家庭雑誌』は大杉栄・堀保子夫妻の手に譲渡。『家庭雑誌』(1906年11月号)には、「俄かに色々の都合から由分社が解散されることになり」「其等の片の付くまで一時本誌を休刊せねはならぬ次第に立至った」とのみ書かれているが、これは第2次『平民新聞』発刊が決まって、堺はその準備に専念する必要があったから。

以後、『家庭雑誌』は大杉夫妻が発行していたが、1907年6月に大杉が新聞紙条例違反で入獄したため、発行人を平民書房主人の熊谷千代三郎に委ねることになった。その後、同誌が終刊すると、赤旗事件で大杉が入獄中、生活に窮した妻の堀保子が1909年4月に復刊を図る。しかし、第4号が発行停止になり、ついに幕を閉じる。
10月
与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。

紀州は鈴木夕雨(歌人、木本町紀南新聞社長)の招請。
8日、大石誠之助は与謝野らを歓迎し、新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもっている。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。牧師沖野岩三郎が新宮キリスト教会へ赴任したのは教師試補として翌年6月であるから与謝野はこの時は沖野に面会しなかった。

10月
ハーグの国際仲裁裁判所、米・加間の漁業権問題を調停し、解決。

10月
モディリャーニ(22)、パリ、モンマルトルのコランクール街に住み、未来派画家ジノ・セヴェリーニと友達になる。ユトリロと飲みあかしたりする。 


つづく

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