2025年11月22日土曜日

大杉栄とその時代年表(686) 1906(明治39)年10月11日 第一回木曜会 小宮豊隆;彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。

 

小宮豊隆

大杉栄とその時代年表(685) 1906(明治39)年10月1日~10日 「さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」(漱石の若杉三郎宛手紙) より続く

1906(明治39)年

10月11日

夏目漱石門下生の「木曜会」開始。

「木曜日の午後三時からを面会日と定候」(明治39年10月7日付野村伝四宛書簡)。

小宮豊隆、寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、阿部次郎らが集る。晩年の大正4年(1916)には、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らが始めて木曜会に参加。


「十月十一日 (木)、雨。第一高等学校、行軍のため休講になる。         

この日、木曜会第一回催される。(鈴木三重吉の提案である)毎週午後三時以後面会日と定める。(「面会日は木曜日午後三時から」と赤唐紙の詩箋に書き、玄関格子戸右上に張り出す)

(朝、狩野亨吉は沢文旅館から京都市外下加茂村四十八番地(現・京都市左京区泉川町)下加茂神社塊肉に移る。現在、狩野亨吉の住んでいた家屋はない。)

(二薬事四迷の『其面影』、『東京朝日新聞』に掲載され始める。明治四十年八月一日(木)まで。)」


鏡は、木耀会の名称は、十二月二十七日(木)、本郷区西片町十番地ろノ七号(現・文京区西片町一丁日十二、三番)に移ってからであると述べている。

木曜会では、初めのうちは、会に集る人の原稿を読む。読み手は大概高浜虚子がやる。鈴木三重吉が自分の創作を読むこともある。漱石が他人のを読むこともある。聞き手は、けちを付けることが多い。だが、寺田寅彦のものはいつも評判がよい。

玄関の格子に赤い唐紙で、木曜目を面会日として、そのほかの日は、面会謝絶と張り出す。付近の人たちは赤い唐紙に、異様な感じを受ける。松根東洋城は、十月十八日(木)に来て、「玄関に赤い紙なぞ張り出されるのはいやだ、僕のために別の面会日を定めてくれ」と不満を云う。(森田草平)」(荒正人、前掲書)


《木曜会の人々》

■高浜虚子、坂本四方太、篠原英喜、寺田寅彦、松根東洋城、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎、小宮豊隆、野上豊一郎

この頃、夏目家の来客には、「ホトトギス」の高浜虚子、坂本四方太、篠原英喜の俳人たちがいた。この人々は34、35歳であった。

それから前々年(明治37年)に東大の理科大学講師となり、38年末に郷里から二度目の妻寛子を迎えて小石川区原町12番地に居を構えた数え年29歳の寺田寅彦がいた。

また松山中学で夏目の生徒であり、一高~東大法科に学び、前年に卒業して宮内省に勤めながら俳句を作っている松根東洋城(豊次郎、29歳)がいた。松根はよい家柄の出で、鷹揚な人物であり、漱石の俳句を遠慮なく古いと言って非難した。

他は多く東大の学生か卒業したばかりのもので、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎、小宮豊隆、野上豊一郎、森田草平、鈴木三重吉などであった。


■小宮豊隆

小宮豊隆は、このとき数え23歳、福岡県京都郡犀川村久富に明治17年に生れた。父弥三郎は農科大学の卒業生で、福岡の農業学校の教師をしていた。小宮豊隆が中学校に入学した頃、従兄の丹村泰介というのが熊本の第五高等学校にいて漱石(夏目金之助教授)に俳句を見てもらっている話を聞いていたので、その頃から彼は、俳句、夏目漱石、「ホトトギス」などということを覚えていた。そして中学の4、5年生頃から自分でも俳句を作った。明治35年、19歳のとき、豊津中学校を卒業して第一高等学校に入学。そのとき同時に一高に入ったものに、安倍能成、中勘助、野上豊一郎、茅野儀太郎、有田八郎、前曲多門、堀切善次郎、青木得三などがいた。小宮豊隆が一高の2年になったとき、漱石がイギリスから戻って一高の教師になった。そのとき校長は狩野亨吉で、藤代禎輔、桑木厳翼、松本文三郎、原勝郎、岩元禎、杉敏介、菊池寿人等の教授が一高にいた。

イギリスから帰ったばかりの漱石は、小宮から見ると、ひどくハイカラな服装をしている点で、教授たちの中でも異彩を放っていた。洋行帰りの教授たちは一般に服装や態度に細心なものであるが、漱石はその点が一層目立っていた。房々と生えた口髭の両端をぴんと刎ね上げ、高いダブルのカラーに、よく身体に合った紺地の背広をきちんと着こなし、ズボンにはよく折目がついていた。靴はよく磨いたキッドの編み上げであった。漱石はそういう服装で、菊倍判ぐらいの黒いクロース表紙の出席簿の角のところをつまんで持ち、爪先立ちにひょいひょいと弾みをつけて、少し俯向きがちに教員室から教場へ歩いて来た。

夏目と同時期にドイツに留学して帰っていた藤代禎輔は、一高教授のかたわら、夏目と同様東大の文科大学でドイツ文学を教えていた。小宮は東大に入ってからドイツ文学を学ぶことにしたので、フロレンツと藤代禎輔とに就くことになった。

小宮は大学に入るに当って保証人を置かねはならなかった。彼の従兄犬塚武夫がロンドンで夏目と同じ下宿にいて親しかった縁によって、彼は大塚の紹介状をもらい、明治38年9月、初めて夏目の家を訪い、保証人になってもらった。彼は森田や鈴木と違い、小説家漱石の仕事に魅惑されて近づいたのでなく、少年時代から間接に漱石という人物を知り、従兄たちの緑によって、いつとはなく夏目を自分に近い人間として考えるようになっていた。彼は保証人と学生という関係で夏目家へ出入りするようになったのだが、夏目に接する機会が多くなるに従って、その人柄に引きつけられた。彼は夏目家に集まる人々の中で年若でもあった。この年9月、小宮は文科大学のドイツ文学科2年になっていた。彼はドイツ文学をやめて英文科に転入しようと思うことがあったか、そうもできないので、ドイツ文学科のフロレンツの授業をすっぽかして、夏目の「十八世紀英文学」とシェークスピアの講読とに熱心に出席していた。


■森田草平、鈴木三重吉

森田は、「千鳥」発表のときから、鈴木三重吉に関心を持っていたが読む機会がなかった。9月に上京してみると、「千鳥」の評判はますます高く、寺田寅彦はこの作品に感心して「好男子万歳」と書いた葉書を漱石に寄せ、写生文を熱心に書いていた坂本四方太は「四方太などは到底及ばない、名文である、傑作である」と漱石に書いた。森田は「千鳥」を熟読し、その官能的な筆致には自分の到底及ばないところがある、と思った。しかし、彼は馬場孤蝶の影響でロシアの近代文学を多く読んでいたし、自分の身の上に暗い、解決不可能な事情があったので、自分の書きたいものは告白文学であるときめていた。だから必ずしもこの「千鳥」のようなものは書けなくても構わない、とすかな慰めを感じた。

森田は、ほぼ同じ9月初めに上京した鈴木と夏目家で顔を合せた。鈴木は、いかにも自信ありげに見えた。神経衰弱で休学したというだけあって、鈴木は神経質に見えたが、目玉をぎょろぎょろさせて、始終昂奮しているような賑やかな人間で、夏目家で自分の家にいるように振舞っていた。その率直な態度は、陰鬱な森田や、人々の中で控え目に黙っている小宮よりも漱石の気に入っているらしく、騒々しいほどの鈴木の饒舌を漱石はにやにしなから黙って聞いていた。そして、漱石が時折彼をたしなめると、鈴木は「先生はわしばかり叱る」と不平そうに言った。その言い方にも漱石への甘えが漂っていた。

(日本文壇史より)

10月11日

米サンフランシスコ市教育委員会が日本人、韓国人児童を白人児童から隔離し、クレー街の東洋人小学校へ転校させる決議を採択した。以後、対日関係緊張。1907年3月13日に取り消し。


つづく

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