1906(明治39)年
11月
韓国棉花株式会社開業(大阪)。資本金20万円。
1910年、朝鮮綿業株式会社と改称。
11月
清朝、陸軍部を設置し、鉄良を尚書とする
11月
「新紀元」廃刊。12月末で「光」も廃刊。翌明治40年1月の日刊「平民新聞」発行に備える。堺利彦は「家庭雑誌」を西村猪山に譲る。
11月
北一輝、宮崎滔天、平山周らの革命論社に入会。
11月
島村抱月「乱雲集」(「彩雲閣」)
11月
白柳秀湖「ルヂンと現代の青年」(「読売新聞」)
11月
文芸協会演芸部大会、歌舞伎座で開催。「ヱ゛ニスの商人」「桐一葉」「常闇(とこやみ)」等、上演。
11月
この頃の新聞の発行部数
この頃は新聞や雑誌の印刷部数は極めて限られたものであった。雑誌「ホトトギス」は平均5千部、「中央公論」は8千部から1万部、「新小説」は3千部を印刷していた。
新聞は日露戦争を域として、その発行部数に大きな変化が起った。戦争の経過を知るために新聞を読む人が殖え、そのまま定着読者となった。
この頃の主要新聞の発行部数の変化
新聞名 明治37年部数 明治40年部数
万朝報 160,000 250,000
東京朝日新聞 90,000 200,000
報知新聞 140,000 300,000
都新聞 60,000 95,000
二六新報 32,000 120,000
時事新報 55,000
中央新聞 40,000
東京日日新聞 35,000 47,000
やまと新聞 70,000
国民新聞 20,000
読売新聞 15,000 30,000
毎日新聞 8,000 35,000
大阪毎日新聞 200,000 270,000
大阪朝日新聞 200,000 300,000
新聞の読者は戦争を経過することによって倍増した。しかし、発行部数が増加したとは言っても、各新聞はそれぞれ独自の読者層を持っていて、社会全体に行き渡る巨大な新聞はまだ存在していなかった。読者の方もまたこの時代には、職業や社会階層の区別意識が強く、それぞれ自分のとる新聞の特色に執着を抱いていた。小部数の新聞もそれなりに確実な読者を持っていた。
雑誌「中央公論」は、それ等の各新聞の特色を、次のような戯評によって区分けした。
「読売は女学生、東京朝日は奥様風、毎日は先生、国民は紳士、時事は番頭、日日は官吏、報知は女房振り、二六はべランメ流、やまとは隠居振り、日本は政客風。」
「東京毎日」は島田三郎の影響下にある正義人道型の新聞であり、「国民」は徳富蘇峰が支配して官僚的であり、「時事新報」は故人となった福沢諭吉の実利主義的な確実さを特色としていた。また陸羯南が病気になったので、この当時三宅雪嶺が中心になっていた「日本」は愛国主義傾向の評論新聞であり、「万朗報」は黒岩涙香が主宰していて、反官僚風であった。「読売」は小説と演劇欄に力点をおいて、代表的な文学新聞たることを自負していた。「朝日新聞」は品格のある智識階級向きの新聞としての特色を一貫して保って東京と大阪の両方で最大な勢力を誇っていた。
11月
(漱石)
「十一月(不確かな推定)(日不詳)、野村伝四と共に、貸家を探すということで、麻布・芝のあたりを散歩し、蜂須質茂韻侯爵(芝区三田綱町九番地)の屋敷に、一人ではいりこむ。(野村伝四)」(荒正人、前掲書)
11月
与謝野鉄幹、吉井勇・北原白秋らと新宮を訪問。地元文化人の大石誠之助・和貝彦太郎・佐藤梟睡(医師、春夫の父)らに歓迎される。
11月
竹久夢二(22)、早稲田鶴巻町に絵はがき店「つるや」開店。
11月
愛媛県西宇和郡川之石で、ペスト患者発生。1907年5月に終息。
11月
韓国棉花株式会社開業(大阪)。資本金20万円。1910年 朝鮮綿業株式会社と改称。
11月
グスタフ・マーラー、ブリューンで『交響曲ニ長調』を演奏。
11月
アルバート・アインシュタイン、個体の比熱に関する論文を完成。固体の量子論について書かれた最初の論文。
11月
永井荷風(27)、この月、カーネギーホールにニューヨークシンフォニーの演奏を聞き、メトロポリタン歌劇場にロメオとジュリエット、タンホイザー、シーザーとクレオパトラ、リゴレット、ファウスト、カルメン、ポエーム、ラクメを見る。
11月1日
東京一ツ橋の共立女子職業学校、初めてタイプライチング講習科開設。
11月1日
日本鉄道、岩越鉄道を国有化。
11月1日
サンフランシスコ学童隔離命令に関して上野季三郎領事がヴィクター・メトカーフ米商務労働長官と会談。
11月2日
レフ・トロツキー、シベリアに流刑
11月3日
(漱石)
「十一月三日(土)、晴。天長節。五十四円で新調したフロック・コートを着用して麻布に赴く。初めは演説をしたくなったけれども、麻布まで行ったら、しなくてもよいと思う。
十一月四日(日)、『読売新聞』(日曜附録)に、「文學論序」掲載される。」(荒正人、前掲書)
11月3日
国際無線電信条約及び最終議定書調印(ベルリン)。世界統一の遭難信号としてSOSを採択。1908年6月23日公布、7月1日実施。
11月4日
夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』 (中篇)〔11月4日、大倉書店・服部書店刊〕菊判。橋口五葉装幀、浅井忠挿画(木版画)。90銭
序文で、1901年11月6日付け子規の書簡を全文引用して子規を追悼。
「余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(いつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ待ち暮らした甲斐もなく呼吸(いき)を引き取ったのである。〔中略〕気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞った。」
そして「倫敦消息」の続を書かなかったことを後悔し、その代わりに『吾輩ハ猫デアル』を「地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭(けつとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴さうと思ふ。」と記す。
「吾輩は猫である」は、子規没後の山会の席上で読み上げられ、子規周辺の人物達とともに写生文章体の創造を図ったのだから、まさしく「墓にかけ」るのにふさわしかった。互いの作品を批評し合った畏友同士にふさわしい最後の交響であった。また、「猫」と共に併せて「霊前に献上する」と次の二句を記す。
「長けれど何の糸瓜とさがりけり」
「どつしりと尻を据えたる南瓜かな」。
この二句は、十余年前に子規と共に俳句を作った時のもので、子規の忌日を糸瓜忌、子規自身を糸瓜仏と呼んだことになぞらえている。南瓜はどっしりと腰を据えて創作に励む漱石自身をなぞらえたと解説している。
11月4日
漱石、「文学論」序を「読売新聞」に発表。この頃、創作の筆を中断して、「文学論」原稿の訂正・補筆に専念。
11月4日
慶應義塾と東京師範学校、初の器械体操連合競技会を行う。
11月4日
宋教仁、東京脳病院を退院して、新宿番集町の宮崎滔天と槌夫妻の家に落ち着く。
11月5日
名古屋瓦斯(株)設立。東邦瓦斯(株)の前身。
11月5日
内ヶ崎作三郎(29)、横浜・伊勢町の横浜組合教会での特別演説会で海老名弾正らと共に演説。
つづく
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