2025年11月21日金曜日

大杉栄とその時代年表(685) 1906(明治39)年10月1日~10日 「さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。」(漱石の若杉三郎宛手紙)

 

滝田樗陰

大杉栄とその時代年表(684) 1906(明治39)年10月 与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。8日、大石誠之助は新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもつ。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。 より続く

1906(明治39)年

10月上旬

(漱石)

「十月上旬または中旬(推定)、鈴木三重吉、友人と二人で酒を飲んだり、小芝居を見た後、友人は(推定)知人の家に泊る。翌朝、三枚橋の「揚出」で酒を飲む。その後、漱石を誘い出し、夕刻まで隅田川を散歩する。歩きながら、芋や豆や柿を貰って食べる。鈴木三重吉、食べ残した豆を加計正文に送ると云う。」(荒正人、前掲書)

10月1日

吉岡弥生ら、大日本実業婦人会を結成。

10月1日

医師法・歯科医師法(5月2日公布)、施行。

10月1日

鉄道国有法(3月31日公布)、施行。私鉄17社が国有化される。

北海道炭鉱鉄道、甲武鉄道など国有化。

10月1日

(漱石)

「十月一日(月)、薄曇。服部書店主人の服部国太郎来る。森田草平・川下江村・生田長江共著『はなうづ』(『草雲雀』として刊行される)出版について話す。内容を見てから決めたいと答える。

『早稲田文学』の「彙報」、「小説界」として、藤村・漱石・独歩の三人の作品をあげる。(相馬御風の書いたものらしい)

(十月二日(火)、雨。午後、寺田寅彦、『二百十日』(『中央公論』十月号)を読む。)」(荒正人、前掲書)


10月1日

夏目漱石『二百十日』 (『中央公論』10月号10月1日発行)

夏目漱石『二百十日』(青空文庫)

「中央公論」10月号は、夏目漱石「二百十日」、島崎藤村「家畜」、独歩「入郷記」の3編を掲載、この月の最も注目を浴びる内容となった。

(他に、金子筑水『近代思想界の趨勢』(論文)、綱島梁川『一燈録』(感想)、山路愛山『平政子論』(論文)を収録)

それは年若い編輯者滝田樗陰の着想と努力によるものであった。この時期から、「中央公論」の文芸は少しずつ文壇で特に重視される気配が生れた。

漱石は、1906年9月10日付高浜虚子宛の手紙の中に、


今度の中央公論に二百十日と申す珍物をかきましたよみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かつた。どう〔いふ〕ものでせう。君がよんだ〔ら〕何といふだらう。又どうぞよんで下さい。(『漱石全集』22巻)


虚子は読んで、「論旨に同情がない」、「滑稽が多過ぎる」、「不自然と思ふ」と評したのに漱石は抗弁している(10月9日付虚子宛書簡)。

漱石は「二百十日」に、圭さん碌さんの二人を配し、二人の会話から、当時の社会状況を批判している。滑稽な会話もあるが、華族や金持ちにたいする憤慨を吐露している。社会主義的な意識を貫き、反体制的な作品でもある。二人の次のような会話がある。二人の青年は阿蘇山に登ろうとしてその近くにいる。

「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ尊さ」

(中略)

「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云ふ。

「革命か」

「うん。文明の革命さ」

「文明の革命とは」

「血を流さないのさ」

平出修は「二百十日」にたいし、同年十一月号「明星」の「文芸彙報」の中で、

中央公論の秋期付録に夏目氏の『二百十日』、島崎氏の『家畜』何れも期待した程のもので無かつた。(『定本平出修集」)

10月1日

インドのアーガー・カーン3世を代表とするムスリム派遣団、シムラでミントー総督と会見。

10月1日

エドモンド・モレルが著書『赤いゴム』でコンゴ自由国の内情とベルギー国王レオポルド2世の圧制を糾弾する。

10月2日

日清間営口還付に関する北京協定ならびに交換公文承認。

10月2日

足尾銅山に大日本労働至誠会支部設立。

10月2日

(露暦9月19日)ペテルブルク・ソヴィエトのメンバーに対する裁判開始。

反動側の狙いはヴィッテの自由主義と革命への弱腰の暴露。証人喚問400人、1ヶ月。綱領を開陳し帝政を告発する場とする。トロツキーは元老院議員ロプーヒン(1905秋、警察署内にポグロム煽動文書の印刷局を開設)喚問を要求するが、法廷が拒否したため公判ボイコット。弁護人・証人・傍聴人も退廷。判事・検事のみで判決言い渡しとなる。

10月4日

鬼怒川水力電気会社設立(栃木県)。

10月5日

中央製紙株式会社創立(岐阜県)。資本金50万円。

10月7日

林董外相、英公使に英の威海衛継続占領を希望。

10月7日

(漱石)

「十月七日(日)、外出中に寺田寅彦来る。今後、木曜日の午後三時から面会日に当てると伝える。

十月九日(火)、晴。服部書店主人服部国太郎来て、『はなうづ』(『草雲雀』)出版の具体的条件を相談する。序文も依頼される。」(荒正人、前掲書)

10月7日

イランで第1回国民会議開催(テヘラン)。自由憲法作成に着手。イラン国王は12月30日、草案に署名し翌日死亡。

10月8日

仏、労働総同盟(CGT)大会、サンディカリズム基本理念を表明したアミアン憲章採択(~14日)。

10月10日

10月10日付漱石の若杉三郎宛手紙。

「明治の文学」はこれからであり、今までは「眼も鼻もない」時代である。これから若い人々が大学から輩出して、「明治の文学」を「大成」するのである。それは「前途洋々たる時機」である。漱石も幸いにこの、「愉快な時機」に生まれたのだから、死ぬまで、「後進諸君」のために路を切り開いて、「幾多の天才の為めに」、舞台の下ごしらえをして働きたい、と述べ、

さうかうしてゐるうちに日は暮れる。急がなければならん。一生懸命にならなければならん。さうして文学といふものは国務大臣のやってゐる事務抔よりも高尚にして有益な者だと云ふ事を日本人に知らせなければならん。かのグータラの金持ち抔が大臣に下げる頭を、文学者の方へ下げる様にしてやらなければならん。

と、明治の文学観、過去、現在、将来の抱負などを披歴している。

ここでは漱石の文学者としての責任感がうかがわれる。

10月10日

豊田佐吉、軽糸解舒及緊張装置(自動織機)特許取得。

10月10日

インドの小説家ナラヤン、誕生。


つづく


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